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将軍家茂が京都御所への参内に際して供奉した大名たちを記した日記がありました。高田藩主 榊原政敬に従い上洛した高田藩士が書いたものです。
虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています
訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります
現代時刻との対応をわかりやすくするため、昼夜がほぼ等しい春分・秋分頃を基準として記載しています。実際の江戸時代の不定時法では、季節によって各時刻は変動します。
※本意訳は、原文の語句や表現を可能な限りそのまま反映しています。そのため、現在では使用されない、または一般的ではない表現が含まれる場合がありますが、原文の趣旨を尊重したものです。

「三月▢(折れ目)日 御参内 供奉 御大名方 御▢▢(折れ目)左之通り」とあります。
折れ目で何日かは分からないのですが、おそらく元治元年三月七日に家茂が参内し供奉した大名達の記述ではないかと思います。
幕臣の伊庭八郎が書いた『伊庭八郎征西日記』にはこの日の参内を、家光のときより華やかで盛大だったらしいと書いており、水野忠精の奥女中かもりは、大名が30名ほどいたと書いています。
そもそも3月7日は、表向きの理由としては、家茂が従一位右大臣に昇進したことに対するお礼ですが、朝廷との緊密な連携を示して幕府権威を回復するための政治的演出の意味合いもありました。
幕臣の伊庭八郎とは?はこちらから
元治元年3月7日の上洛について「伊庭八郎征西日記」にはこう書かれています。
今日の参内は、これまでにないほど美を尽くし、諸大名が上様の前後に列を連ねた。その盛大さは三代将軍の御参内をも上回るほどだという。
伊庭八郎の日記にある家茂の行列が三代将軍 家光の参内を上回るほどというのは、諸大名の衣装や装いに格別の華やかさを凝らしていたことについてだと思います。しかし、八郎のいう『美を尽くし』というのは、具体的にどの装束や道具を指すのかについて今のところ断定はできません。しかし面白い記述があります。
高田藩士の日記の中に、2日前の3月5日に榊原政敬は登城し家茂に供奉して参内する予定でしたが、三条通りから錦小路あたりまで出たところで留守居役が駆けつけ、参内が延期になった旨を伝えてきたため引き返しています。
5日の参内時には、榊原政敬は忠次(榊原家三代)がかつて禁裏(御所)から拝領された菊桐の紋付太刀を帯刀する予定だったようです。その参内が7日に延期になりました。
以上のことから、その参内に政敬は菊桐の紋付太刀を帯刀していたはずです。そして新潟県立文書館『越後のイケメン、上洛す』によると、政敬は官位が従五位下だったので、冠をかぶり、浅緋色の上着に浅黄色の袴を着用し、腰には糸巻太刀、右手に扇子を持っていたと推察されるとあります。
八郎がいう『これまでにないほど美を尽くし、諸大名が上様の前後に列を連ねた』とは、正装した大名たちが行列に加わり、将軍の威儀を示す一大儀式に気合を入れて参加していたことが分かる記述です。
3月5日の参内が延期になった日記はこちらから
そして、3月7日の参内について老中水野忠精の奥女中かもりもこう記しているようです。
三十人ほどいる大名の中では、若い榊原様(高田藩主)や、掃部様(彦根藩主)などは美しく立派なお姿でいらっしゃいますが、それ以外の殿様には、誰一人として目を引くような方はいらっしゃいません


・・・

きっと誰にも見せる予定のない日記だったんだね(汗)
そして、この日記の著者 高田藩士は3月7日の参内のことをこう記しています。
三月七日
朝6時頃 供揃をして殿様(高田藩主 榊原政敬)は登城された
公方様(徳川家茂)は昼頃に供揃をして参内(天皇のいる御所へ参上すること)され、殿様も供奉(将軍の御供)して参内された
公方様は夕方16時頃に還御(二条城に戻る)された
殿様はただちに公方様にご機嫌伺いを申し上げた
殿様は20時頃にお戻りになった
今回の参内の御供には、私は小役の替▢(判読不明文字)として出仕した
役目は雁帷子を持つことで、麻の裃を着用した
参内に供奉したものは、両役が二名、鳫帷子持ちが一名、草履取りが一名だった
殿様は行列の先頭として先乗りされた
公方様は天子様(天皇)のもとからお戻りになる際、輿に乗られた
さて、この日の伊庭八郎は堀川通り長者町辺りを警護していたようです。また、この日記の著者は雁帷子を持って麻の裃を着用して歩いていたようなので見ていたかもしれません。

たぶん「かもり」さんは殿様しか見ていなかったんじゃないかな~

上様(徳川家茂)
家老諸大夫
水野大炊頭
紀伊中納言(紀伊徳川家当主)
御老中
水野和泉守
松平大和守
一ツ橋中納言(一橋慶喜)
高家衆
土岐出羽守
宮原民部大輔
今川刑部大輔
品川式部少輔
中條中務大輔
畠山飛騨守
将軍 徳川家茂が参内し、紀伊家付家老の水野大炊頭(みずのおおいのかみ)をはじめとする重臣が従っています。
老中は、水野和泉守・松平大和守であり、一橋家当主(中納言 慶喜)も列に加わりました。高家衆として、土岐出羽守らが供奉しています。
三月▢日、将軍の参内に追従した大名たちは次の通りです。

松平大蔵大輔(おおくらたいふ)
越前様のご隠居(松平春嶽)
この越前様というのは通常福井藩主を指しますが、ご隠居とあるので松平春嶽になります(安政の大獄により幕府から隠居及び謹慎を命じられましたが、その後謹慎が解かれ1862年に政事総裁職に就任しています そのため、隠居の身のまま幕府の職に就いて政治に参加しています)。
榊原式部大輔(榊原政敬)

越後高田藩の榊原の殿様
松平下総守
松平越中守
松平下野守
藤堂大学頭
松平壱岐守
井伊掃部守(井伊直憲)

彦根藩主 父上は井伊直弼さん
御老中 酒井雅樂頭
越前松平家の隠居である松平大蔵大輔、榊原家、松平家諸家、藤堂家、井伊家などの大名が続きました。
老中酒井雅樂頭がこれに続き、北条家、森家、小出家、加藤家、永井家、稲葉家、青山家、秋元家、本多家、相馬家、戸沢家、秋月家などの諸侯が供奉しました。

御大夫
北条相模守
松平丹波守
森 和泉守
小出伊勢守
増山対馬守
松平左衛門尉
加藤越中守
永井飛騨守
稲葉右京亮
青山因幡守
秋元但馬守
本多主膳正
相馬大膳亮
戸澤上総介
松平甲斐守
秋月□□亮(折り目で解読不能文字)
次は|3/8~上洛日記・第13回~です。
