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家茂は朝廷から攘夷決行を迫られ上洛をすることになりました。家茂は生涯で3回上洛していますが、これは2回目の上洛のときのことを高田藩士が日記に残したものです。
高田藩士たちは大晦日の夜極寒の中、京 伏見から船に乗り大坂までやってきました。今回の記事はここから始まります。
同(1月)2日 天気 朝五ツ時(8時くらい)より天満大神宮へ参詣した。
一、殿様(榊原政敬)昼後よりお乗り切り(船にのったまま)で天保山へ参られた。
一、同(1月)3日 快晴 昼後より天満五丁目 伊波屋小平方へ下宿となった。
しかし、暮れ六ツ時(17時15分頃)になって国元(高田)より北国廻り(北国道)で、昨 12月16日に出発し、組頭、兵士、諸役人 御先手 足軽 武器 長持*夫人??到着したのですぐに宿割りとなった。
そして寺町鈴廉丁本教寺へ下宿となった。
夫人(ぶにん) 戦場などに物を運ぶ人足役のこと

この??は解読不能文字?

古文書の折れ目で解読不能です
1月2日の朝8時くらいから天満大神宮(大坂天満宮)に出掛けています。この大坂天満宮は学問の神様の菅原道真を祀っており、「天満の天神さん」と呼ばれ親しまれている神社です。
藩主 榊原政敬は”昼後より船で天保山へ参られた”とあるので、家茂が軍艦翔鶴丸に乗ってこの天保山沖に入港し小船に乗り換え大坂城に入るというルートの確認をしたと思われます。
1月3日の伊波屋小平方へ下宿となっていたのに、寺町鈴鹿丁本教寺へ下宿となっているのは、国元から大勢の高田藩士がやってきたので変更になったということだったのでしょうか。

同(1月)4日 天気 朝五ツ時(8時くらい)より大坂城の御城郭見物し、それから天王寺を参詣した。五重の塔へ上り大坂中が眼下に見えた。
一、昨12月18日 出立の北国廻りの御組頭 兵士 御物頭 諸役人 足軽が夕方になって数多く到着した。
右 の↑ 訳は、殿様が急の御発駕(江戸表を出立された)だったので、御供が間に合わず国元より直ちに北陸道筋で京都表に登ってきたためだった。
この日記で高田藩士は、文久4年1月4日(1864年)に大坂城の城郭見物をしています。
大坂城は1665年の落雷により城の天守は焼失しており、見物したときには天守はありませんでした。
このあとこの城で慶応2年(1866年)に徳川家茂が亡くなり、慶応4年(1868年)には旧幕府軍と新政府軍との間で鳥羽・伏見の戦いが起こり大坂城は焼失してしまいます
その後高田藩士は、四天王寺に参詣し五重塔にも上ったようで「大坂中目の下」にこれありとの感想が書いてあり、大坂の街並みを見渡せて感動している様子が伝わってきます。

四天王寺 593年に聖徳太子が創建したと伝わる寺で、戦いや落雷、台風等の被害で今まで7回も再建されています。また、五重塔は8回です。
そして夕方になると12月18日に高田(現上越市)を出発した兵士や物頭、諸役人たちが宿に到着しました。北国廻り(北陸道)で京に登ってきた訳は、藩主 榊原政敬が急に江戸を出発することになったので、お供が間に合わずに急いでいたためだったようです。
北国道廻り(北陸道筋) で京に登った
御武器 御長持 81棹 夫人足 やはり両日立(12月16日出発)(12月18日出発)で都合 千人参った。
同(1月)5日 快晴
同(1月)6日 同断(快晴)
朝五ツ時(8時くらい)より天王寺住吉大神宮へ参詣した。それから難波屋の松を見て、泉州堺 妙国寺へ参詣し、ソテツを見て、夜五ツ時(19時30分)寄宿した。
朝8時くらいから出掛けて、天王寺住吉大神宮へ参詣したと書いています。ここは211年 神功皇后が創建し、全国2300社の住吉神社の総本宮として知られています。
その後、住吉名物の難波屋という茶店の松を見たとあり、その松は大木で、笠のような形に見えたことから、「難波屋の笠松」といわれ、街道の観光スポットだったようです。時間がなかったのでしょうか感想は書いていません。ちなみにこの茶店は「あんもち」を売って繁盛した店だったようです。
そして、堺 妙国寺を参詣し、ソテツを見たとあります。

この堺にある妙国寺のソテツは織田信長さんが安土のお城に移植しようとしたんだけど・・

けど?

毎夜堺に帰りたいと泣いたため、ソテツに霊があるとして、妙国寺に返したという伝説があるらしいよ~

ほう・・

ちなみにソテツとはこんな感じの木です(奄美大島のソテツ)

里数は〆て九里ほど(36km)だった。泉州堺まで四里(16km)だった。
一、去(1月)4日 御触れの写し
公方様 大坂御入城の節 殿様 大手御門外へ 御出迎え遊ばされ、御入城済ませられ 引き続き御登城・お祝いの義仰せ上げられる
その節、総人数は大手御門外留ヶ原横小路より上本町壱丁目辺りをご警衛勤める様に、ついてはあらあらの理解で相心得え、雑兵または少々格外においては省くように
との大目附 渡部甲斐守様よりお達しがあって、惣人数のうち??減少を仰せられたので、そのことを心得るように、ついては「総人数御行列帳」を明日5日、御目付部屋(竹尾半蔵の部屋)において一読しておくようにとのことだった。 正月四日
1月8日に家茂が大坂城に入城するので、その前に「御触れ」が出たようです。その御触れ書きを高田藩士は写しています。
内容は、家茂が大坂城に入城の際は榊原政敬が大手御門外へお出迎えをして、そのまま入城しお祝いの儀をされるので、大手御門外留ヶ原横小路より上本町壱丁目辺りを警護するようにとのお触れでした。また、そのことについて詳しくは「総人数御行列帳」を読んでおくようにとの指示でした。

??は解読不能文字ね

うん。虫損により不読
同(1月)7日 天気
同(1月)8日 同断(天気)
一、公方様 御着船につき、殿様(榊原政敬)は朝五ツ時(8時頃)御供揃いで大阪城大手前までお出迎えになられた。人数については御触書の通りにお固めした。
お固め 警護のこと
14代将軍 徳川家茂は12月27日に江戸を出発して28日に品川から軍艦翔鶴丸に乗船し海路で1月8日に大坂に到着しました(29日下田、1月2日伊豆半島子浦港、1月5日紀州へ上陸、1月6、7日紀州由良港)。

公方様旧﨟二十七日御軍艦ニ而 御發輿 今八日御機嫌能大坂御入城被遊恐悦至極奉存候 実紀伊様へ御立寄被為遊候風聞之事
高田藩士が書いた日記にはこう書かれていました。
公方様(家茂)が旧﨟二十七日(去年の12月27日)御軍艦にて御発輿(出発)されました。今八日(今月8日 文久四年一月八日)御機嫌能(よ)く大坂御入城遊ばされ恐悦至極に存じます。
実は紀伊様へ(家茂は将軍就任前は*紀州藩主)お立ち寄り遊ばされたという風聞(噂)です。
*紀州藩 現在の和歌山県 御三家のうちのひとつ
軍艦で海路で来た家茂が時間がかかったのは、西風が強いなど天候に恵まれないことで、各港や紀伊へ寄っていたためでした。当時、高田藩士が家茂が紀伊へ寄っていたという噂を聞いていることが面白いです。
上様夜五ツ時頃(19時30分頃)御入城。
殿様すぐにお祝いに御登城なされた。
お供廻りを引き連れてお引き取りになられ、その節、大手前へお出迎えの大名は、紀州様、松平越中守様、井伊掃部頭様、御手前様(榊原政敬)、そのほか御老中、若年寄だった。
お固め(警護)は井伊様、御当家(榊原家)だった。
同(1月)9日、雪が少々降った。
同(1月)10日 雨
一、原田権之進様付は
石倉利喜蔵、川合半蔵
一、村上休兵衛様付は
赤井宇太吉
一、久代勘右衛門様付は
村井逸八郎
一、山川甚兵衛様付は
滝野岩三郎
一、村上市蔵様付は
森山源次郎
一、今井新左衛門様付は
米村武平治、赤井貞八郎
右 ↑ の通り物頭によって割付が決められた。
同(1月)十一日 快晴
殿様五つ時(8時頃)御供揃いより御登城
同(1月)12日 快晴 御触れの写し
御名
大阪表
御着城の節大手外へ人数を召し連れ 格別な注意を払い警衛を行うこと との指示があった
正月十一日 両御物頭

格別な注意をして警衛してねってこと?

一段と抜かりなく警備してねってことらしいよ~
つづく