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1601年 江戸城で勝姫は二代将軍 秀忠とお江(浅井長政三女)の間に生まれました。
1611年 勝姫は福井藩主 松平忠直と結婚しました。勝姫11歳でした。(当時は生まれたときに1歳になります)
勝姫の夫である忠直の父は家康の次男である結城秀康です。
その忠直は残虐な行いがあるとして豊後に配流されてしまいました。
松平忠直はとんでもない問題児だった?!はこちらから
家康の長男 信康の自刃後には次男である秀康が将軍職を継いでもおかしくはないのですが、他家に養子に出ていたことや、母親の身分が異母弟の秀忠の方が高かったことなどから二代将軍になることはありませんでした。
その結城秀康の嫡男である忠直ですから、やはり秀忠に対して鬱屈した思いがあったのではないかと思います。
松平忠直は大阪夏の陣で大活躍をしたのですが、期待していた恩賞がもらえなかったことなどから次第に将軍である秀忠に対して反発するようになっていきました。
参勤交代を途中で引き返したり、理由は不明ですが、勝姫の暗殺を企み それをかばった侍女二人を斬りつけ命を奪うなどの残虐な振る舞いがあったため豊後へ配流となってしまいました。
1624年 忠直は配流となりましたが、忠直と勝姫の息子である光長は高田(新潟県上越市)に転封となりました。
ただそのころ光長は幼かったため母の勝姫とともに江戸屋敷にいました。
1634年 光長は母 勝姫とともに入部します。
入部の際の「みやげ」として地子銭の免除がありました。
1655年 松平光長の娘 国姫は福井藩主の松平光通に嫁ぎました。
20歳という少し遅い婚姻でした。祖母の勝姫は忠直に11歳で嫁いでいますから、当時の婚姻としてはかなり遅かったといえます。
というのも、国姫の祖母である勝姫が福井藩の光通のもとに国姫を嫁がせるためにあらゆる工作を行っていたらしく、そのことで福井藩からもその行動を危険視されていました。
勝姫は実姉である 千姫に依頼し、幕府に対して圧力をかけて無理やり国姫を嫁がせました。しかし夫婦仲は非常に良かったらしく、光通との間に女児2人が生まれました。
福井藩主 松平光通には国姫以外の女性との間に男児(権蔵)がいました。
この噂を耳にした勝姫は大激怒して、ものすごい行動に出ます。
勝姫は光通に対して国姫の子を福井藩主にするように強要し起請文まで取ってしまいました。
これは国姫以外が生んだ子を福井藩の跡継ぎにさせることは断じて許さないといったものです。
なぜか高田藩主 光長の母である勝姫が孫娘の夫である福井藩主の光通に過剰な圧力をかけ続けてしまいます。
婚姻するときに福井藩は危険視していたもんね
嫌な予感がしていたんだね
このことがあって国姫と光通の仲は急速に悪化したらしいのです。
男児を生むことが出来ないことで次第に精神を病んでしまうようになり、1671年、36歳になった国姫はそのことを苦にして自害してしまいます。
勝姫と光長は国姫が亡くなったことは光通の息子である権蔵のせいだとしてその命を狙ったともいわれています。
光通は実子である権蔵に跡を継いでほしかったのですが、命の危険を察した権蔵は福井藩を出奔してしまいました。(その後の権蔵は越後糸魚川藩の祖になり、松平直堅と名乗りました)
1672年 勝姫(高田姫)が亡くなります。
高田藩主 松平光長によって過剰な圧力をかけられた結果、光通は権蔵は公子ではないと幕府に届け出ました。
妻も亡くし、息子も出奔させてしまったことで光通もどんどん追い詰められていきます。
1674年光通は弟の松平昌親に家督を譲ると遺言して自害してしまいました。
妻の実家がすご過ぎる
国姫と光通さんも かわいそうだったね
越後中将家と呼ばれ越後最盛期を築いた光長でしたが、お家騒動が起こります。
1679年 越後騒動 光長の嫡子綱賢が病気で亡くなったことによって後継者争いが始まりました。(離反家臣が続出)
1681年 松平光長家改易 領地没収
国姫が亡くなって10年後のことでした。