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生没年 1560年~1625年
1559年に松平元康(徳川家康)と築山殿の間に信康が生まれ、翌年に亀姫が生まれました。
幼少の頃にはいつ命を奪われるか分からないといった人質生活を送っていました。
1579年には母である築山殿と兄 信康が父である家康によって命を奪われてしまうといった悲劇がおこります。
家康の長女として誕生していますが、なかなか凄まじい人生を送っていました。
生没年 1555年~1615年
父 奥平定能
妻 おふう 亀姫
子 奥平家昌 松平家治 奥平忠政 松平忠明 女子(大久保忠常室)
1573年 家康は長篠城を攻略するために奥平貞能の嫡男に亀姫を嫁がせるといった調略という手に出ます。
実際に嫁いだのは1576年で定昌が武田から長篠城を守り抜いたあとで約束が果たされました。
この亀姫の夫となった奥平定昌には妻の おふう がいて 定昌の弟と一緒に武田に人質として差し出されていましたが、武田信玄が亡くなり求心力がなくなった武田を見限り家康に寝返ったため、おふう は磔にされてしまったのです。
織田信長は妻と弟を犠牲にしてまで城を守ったとして賞賛しました。
このことで信長の一字をもらい、奥平定昌は奥平信昌に改名しました。
1576年 亀姫は17歳で奥平信昌のもとに嫁ぎました。
1600年の関ケ原の戦いで家康が勝利し、実質的な天下人となります。
1601年 夫の信昌は美濃国加納10万石の藩主になり、亀姫は加納御前と呼ばれ、子の家昌は宇都宮10万石の藩主になりました。
信昌は亀姫の他に側室をもちませんでした。亀姫は母親譲りの気性の激しさを持つといわれ、亀姫がいた美濃(岐阜県)ではワガママな女性のことを亀姫様と呼んでいたくらいですから、もちたくてももてなかったといった方が正しいのかもしれません。
築山殿も気性が激しかったと いわれているもんね~
じゃあ気性が激しいのは築山殿に似たのかな?
それが、そうとも限らなくて、徳川のお姫様はみなさん少々キツイというか・・・・
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1611年 亀姫の娘の夫である大久保忠常が亡くなってしまいます。父である大久保忠隣は嫡男を失ってしまったショックからか政務を休みがちになり、家康から不興を買ってしまい、1614年突如改易となってしまいました。
この件について、本多正信、正純父子が忠隣を排除するために企てたとする説がある一方で、家康や秀忠の不興を買い、なおかつ 豊臣政権に対して甘い政策を取る可能性があった忠隣を家康が追い払ったという説もあります。しかし、大久保忠隣が排除されたのは本多正信、正純父子のせいだとして亀姫は相当な恨みを抱いたといいます。
出生地 三河国(愛知県)父 本多正信
生没年 1566年~1637年
子 本多正勝 女子
父の正信は家康からは友と呼ばれるほど愛されていましたが、家康が亡くなり、正信も亡くなると次第に本多家の権勢が衰えていきました。
正信、正純親子は策略・謀略的な手法であったため周囲から疎まれていました。その後秀忠の側で仕えますが、たびたび意見の対立が目立つようになり、秀忠からも疎まれてしまうようになります。
1614年 亀姫の息子である家昌が亡くなります。 続いて1615年、夫の信昌も亡くなってしまいました。
奥平家昌の息子である忠昌は7歳で家督を継ぎ宇都宮藩10万石の藩主となりました。
亀姫は孫の成長を見守ることにしたのですが、忠昌が宇都宮藩(栃木県)10万石から古河藩(茨城県)11万石に転封となると、亀姫の怒りが再燃してしまいました。
城が要所にある藩主が年少の場合、一度別の場所に転封となって再び戻るという場合もあったのですが、12歳になってからの転封という話だったので不可解だということと、この宇都宮城に後任で入城するのは本多正純であり、しかも15万石となって入封するということに亀姫が大激怒したのです。
亀姫は宇都宮城から国替で出ていくときに城内にあった障子、畳、庭木まで持ち出そうとしたといいます(本来はあとから入城する家のために残すのが決まりで、これを無視して持ち出したという話ですが、亀姫の怒りの程度を表す噂話かもしれません)
とうとう弟の将軍である秀忠に本多正純謀反の疑いを囁いて改易にしてしまったという噂があります。
しかし、秀忠にしても姉のいうことを全部聞いたわけではなく、ちょうど本多正純が疎ましく思っていたところにそんな情報があったから利用したのでは?ともいわれています。
これ結構有名な話だよね~ 宇都宮釣り天井事件
将軍 秀忠を暗〇しようと企んだ・・・とかいうあれ?
そうそう
宇都宮釣り天井事件とは
将軍秀忠が日光に参拝した帰りに本多正純のいる宇都宮城に宿泊する予定でしたが、湯殿に釣り天井を仕掛けて秀忠の命を狙う計画があるとの密告があり、宇都宮城に寄らずに帰ったという事件のことです。
しかし調査の結果、釣り天井などなく正純は潔白でしたが、突如 出羽へ転封を命じられ、これを断ったために流罪となってしまいました。
本多正信とは徳川家康の策謀的なブレーンでしたから、周りは敵だらけでした。
本多忠勝からは、腰抜け、といわれ、榊原康政からは、腸が腐っている といわれ、相当嫌われた人物だったようです。しかし、家康は本多正信のことを「友」と呼ぶほど信頼したようです。
本多正信は周りの徳川家臣団から嫌われているのを知っていたので、息子の正純には3万石以上の加増は受けてはならないとして遺言までして戒めていたのですが、正純はなぜか15万石に加増され、宇都宮城に入ってしまいました。
このときに彼の運命は決まっていたのでしょうね。
その後、1622年 奥平忠昌は11万石で宇都宮藩に再封となりました。
1625年、報復を終えた亀姫は加納で66年の生涯を終えています。