徳川家康のたくさんいた側室たちをゆる~く紹介

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家康のたくさんいた主な側室たちを紹介

徳川家康の側室たちの系図

家康には 正室 築山殿と たくさんの側室がいました。

アダム
アダム

たくさんってどのくらい?

こばん店長
こばん店長

う~ん。20人くらい・・もっとかな

アダム
アダム

多いねぇ

こばん店長
こばん店長

11代 徳川家斉さんは数えきれないくらいいました。側室以外にもいっっぱい。

アダム
アダム

・・・・・


正室 築山殿

築山殿(瀬名姫)

出生地 駿河(静岡県)で 関口親永と今川義元の妹(伯母の説も有り)との間に生まれる。

生没年 出生年月不祥~1579年8月29日

 松平元康(徳川家康)

1557年 松平元康と結婚 元康16歳 築山殿は22歳だったとされる

 松平信康 亀姫  

築山殿は今川義元の姪で、家康が今川家(人質として)にいた頃に結婚しました。 

しかし、1560年桶狭間の戦いで今川義元が討たれたあと、家康は松平の本拠地である岡崎城に帰ってしまって戻ってきませんでした。

このことで1562年に築山殿の父である関口親永は責任を取り切腹してしまいます。

家康は 上郷城を攻め鵜殿長照の子である氏長、氏次と駿府の築山殿、竹千代(信康)、亀姫とを交換することに成功し、岡崎に移り住むことにりました。

しかし築山殿だけ正室であるにもかかわらず(今川家の出身なので)岡崎城内には入れてもらえませんでした。

1567年 息子の信康は信長の娘(徳姫)と結婚しますが、築山殿は伯父である今川義元を討った信長の娘という理由で嫁姑の仲はあまりよくなかったといわれています。

1579年 築山殿と武田勝頼が内通しているなどの内容で 徳姫は父である信長に十二ヶ条の訴状を送ったとされています。

徳姫
  

出生地 尾張(愛知県)

生没年 1559年~1636年

 松平信康

 織田信長 母 生駒氏とされている

 登久姫 熊姫(本多忠刻の母)

信長は同盟相手の家康の真意を試す目的であったともいわれていますが、二人に対して厳しい処置を家康に命じたといわれています。

家康は信長の命令を断ることはできず、8月29日 築山殿は家康の刺客により命を奪われてしまいます。9月15日 息子である信康は切腹となりました。(現在では家康が反抗的であった信康を処分したとの説もあります)

戦国時代の女性

鵜殿長忠の娘 西郡局

西郡局

出生地 三河(愛知県)西郡城主 鵜殿長忠の娘

生没年 出生年月不祥~1606年 突然 伏見城で亡くなる

 徳川家康

 督姫 (夫 北条氏直・池田輝政)

西郡局が家康の最初の側室ではないかといわれています。上記にあった築山殿と息子である信康、また娘の亀姫を駿府から取り戻すために、今川の上郷城を攻めました。

城主の長照の息子二人を生け捕りにして人質交換をするというものでしたが、そのときに鵜殿長忠の西郡城も攻略しました。そのときに娘を人質として差し出しました。

その娘が西郡局です。家康が岡崎城にいたときに側にいたとされています。


結城秀康の母 お万の方(小督局)

毬
小督局

出生地 三河 父 永見貞英(神主)  しかし父は町医者だったともいわれ、はっきりとしていない

生没年 1547年~1619年

 (結婚歴有り?) 徳川家康

 結城秀康

築山殿の侍女として仕えていたと伝わっています。小督局が妊娠しても築山殿に配慮してそっと城外に隠し その後小督局は男子を出産しました。

やがてその子供は、豊臣の世になると養子(人質)として秀吉のもとに送られることになります。

のちの結城秀康で越前松平氏の祖となりました。

結城秀康

出生地 遠江(静岡県)

生没年 1574年~1607年

 松平忠直(越後騒動 松平光長の父) 忠昌 直政 直基 喜佐 直良

家康の次男で生まれたが、秀吉の養子(人質)に出され羽柴姓を名乗った。その後結城家へ養子に出されてしまい将軍になることはなかった。


二代将軍、秀忠の母 於愛の方(西郷局)

西郷局

出生地 遠江 (静岡県) 父 戸塚忠春 母 西郷正勝の娘

生没年 1562年~1589年 29歳で病気で亡くなる(毒を盛られた説も有り)

 西郷義勝 徳川家康

 徳川秀忠(二代将軍) 忠吉

こばん店長
こばん店長

西郷局の孫勝姫は孫娘国姫を追い詰めて自害させてしまった?!はこちらから

       

二代将軍である秀忠の生母とされている女性。父、忠春が戦で亡くなってしまったので、母は服部正尚のもとに嫁ぎました。そのときに お愛(西郷局)も一緒についていきました。

その後 西郷義勝に嫁ぎましたが、武田勝頼との戦いで亡くなります。そして未亡人でいるところに家康と出会います。

家康は美人でおっとりとしていたというお愛に惹かれ、西郷清員の養女にして側室にしました。(酒井忠次の妹(異腹)が西郷清員に嫁し、その娘が西郷局)

その後 1579年 二代将軍となる秀忠を生み、1580年に忠吉を生みました。

1586年家康が浜松から駿府へ移る際同行していますが、1589年に29歳で病気で亡くなってしまいました。この理由については築山殿に仕えていた侍女に毒を盛られた説もあります。

こばん店長
こばん店長

性格が穏やかだったので 家臣や侍女たちに好かれたといわれているよ

アダム
アダム

性格が穏やかで美人ならみんな好きだと思うよ


下山殿

下山殿

出生地 甲斐国(山梨県)秋山虎康の娘 のちに穴山梅雪の養女となる

生没年 1567年~1591年 25歳で病気で亡くなる

 徳川家康

 武田信吉

穴山梅雪は、母は武田信玄の姉で、妻は信玄の次女であり、信玄、勝頼から信頼されていました。

しかし、信玄が亡くなり長篠城・設楽原の戦いで大敗をしたのを機に徳川家康にすり寄ってきたのでした。

そのときに人質に出されたのが下山殿でした(16歳)。このあと家康と梅雪は信長の安土城を訪れますが、本能寺の変が起き、梅雪は帰る途中で落ち武者狩りにあったとも家康により命を奪われたともいわれています。

1583年 下山殿は万千代(武田信吉)を生みました。

1591年 下山殿病気で亡くなる


松平忠輝の母 茶阿局

茶阿局

出生地 遠江(静岡県) 両親不明

生没年 出生年月日不祥

 鋳物師 徳川家康

 松平忠輝 女子(名前は不明)

茶阿局は大変きれいな人で教養もあり社交的な人だったといわれています。

鋳物師の妻でしたが、あるとき夫が斬られてしまうというといった事件が起こり、茶阿局が3歳の娘と仇討ちの直訴をしていたときに家康に見初められたということです。

こばん店長
こばん店長

すごい出会い方

1592年 茶阿局は忠輝を生みますが、生まれてすぐ捨てよといわれたらしいです。

というのも自刃した長男の信康に顔がよく似ていたせいであるとか、双子であったために忌み嫌われたなどの理由からでした。

それを見て家臣が引き取って養育したといわれ、越後高田(新潟県)の初代藩主になりました。(のちに改易されてしまいました)

松平忠輝

出生地 江戸

生没年 1592年~1683年

 伊達政宗娘 五郎八(いろは)姫

 男子

初代高田藩主、松平忠輝についてはこちらをご覧ください。


徳川義直の母 お亀の方 家康がお金を払って離縁させ側室にした?!

お亀の方

出生地 山城国(京都府)母は神主の娘とされる

生没年 出生年月不祥

 竹腰正時  徳川家康

 徳川義直

近江国(滋賀県)足軽の妻でしたが、夫が亡くなり未亡人になったときに家康に見初められたというはなしですが、別の話では家康がお金を払って離縁させ、側室にしたともいわれています。

1595年 仙千代、1600年に五郎太を生みました。この五郎太がのちの尾張徳川の藩主となる義直です。


徳川頼宣 徳川頼房の母 蔭山殿

蔭山殿

出生地  出生地不明 父 正木邦時(北条家浪人) 母はその後蔭山氏広(北条家臣)と再婚

生没年 1580年~1653年

 徳川家康

 徳川頼宣 徳川頼房 

紀伊徳川家の初代藩主 頼宣と 水戸徳川家の初代藩主 頼房を生んでいます。

伊豆に鷹狩にきていたときに見初められたらしくとても美しかったみたいです。出会ったときに蔭山殿は15歳、家康52歳でした。


家康にとても信頼されていた女性?!阿茶局

阿茶局

出生地 父 甲斐(山梨県)武田氏の家臣 飯田直政

生没年 1555年~1637年

 神尾忠重(今川家家臣) 徳川家康

夫の忠重が戦で亡くなったあと、1579年 阿茶局が25歳のときに家康の側室になったといわれています。

教養があり社交性もあったことから家康からとても信頼されていた女性でした。

また、政治的な才能ももっており、1614年 大阪冬の陣では家康の使者として大阪城へ赴き淀殿と和平交渉をしています。

淀殿
淀殿

出生地 近江国(滋賀県) 父 浅井長政 母 お市(織田信長の妹)

生没年1569年~1615

夫 豊臣秀吉

子 豊臣秀頼

秀吉が亡くなり、秀次(謀反の疑いで自刃)という後継者もすでになく、淀殿が生んだ秀頼は幼かったために豊臣家の権勢は次第に衰えていきました。

関ケ原の戦いにおいて徳川家康が実質的に天下人となると、豊臣家は一大名の位になり、やがて大坂冬の陣、大坂夏の陣で淀殿と秀頼は自刃、豊臣家は大阪城とともに滅亡しました。 

阿茶局は家康が亡くなったあとも遺言により落飾せずに秀忠や家光の代まで徳川家に仕えています。

秀忠の娘である和子(まさこ)が後水尾天皇に入内する折や出産の際には 阿茶局が上洛し、いろいろ世話を焼いたらしいです。


家康が48歳、お梶の方(お勝の方)13歳、家康67歳、お六は13歳?!

お六の方

出生地 黒田直陣の娘と伝わる

生没年 1597年~1625年

 徳川家康 喜連川義親

家康の最後の側室であるといわれています。 お梶の方(お勝の方)の小間使いであったところを見初められたらしいです。家康67歳 お六は13歳でした。

「狩殿、佐渡殿、お六殿」

「狩殿、佐渡殿、お六殿」といわれるほどお六は家康のお気に入りでした。ちなみに、狩殿は鷹狩のことで、家康が大好きな趣味として有名です。鷹狩をするために休憩や宿泊ができる施設をつくるほどでした。

佐渡殿は 本多正信のことで家康にはかかせない策謀的ブレーンです。お六殿というのはそのままで、お六のことです。

榊原康政の側室である花房氏(花房職之(宇喜多秀家家臣)と系譜関係ありと推定されています)の姪が康政の養女となり喜連川義親のもとに嫁いでいましたが、早くに亡くなってしまいました。お六はその喜連川義親の継室となります。

お六の再嫁先の関係系図

家康が1616年に亡くなり、その後 彼女は喜連川義親のもとに再嫁します。家康の法事が行われ、彼女は日光東照宮に赴きます。その際香炉がはじけ破片が彼女にあたり、それがもとで亡くなってしまいました。

家康が再嫁したことに怒っているのではないかと噂したそうです。

こばん店長
こばん店長

以上ゆる~い家康さんの側室紹介でした