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1543年 家康、岡崎城で生まれます。
父は岡崎城主 松平広忠 母は 於大の方 幼名は 竹千代(当時は生まれたときに1歳になります)
於大の方
徳川家康の生母で14歳のとき松平広忠に嫁ぎますが、異母兄の水野元信が広忠を裏切り織田信長についてしまったことで、夫と敵対関係になり於大は広忠と離縁させられてしまいました。
竹千代(家康)をおいて実家に帰り、久松俊勝と再婚します。(三男四女)
竹千代が今川家の人質となると於大の実母である於富に駿府にいってもらい、竹千代の養育を頼んだり、衣服や日用品などを届けて面倒をみていたといわれています。
家康が実質的に天下人になり後陽成天皇に拝謁したのを見届けて、その滞在先の伏見城にて家康に看取られて75歳の生涯を終えています。
1547年 今川義元は竹千代(家康)を人質として駿府に来るように要求してきました。
しかし、駿府への護送中に 田原城主(義母の父)戸田康光の裏切りにあい 尾張の織田信秀(織田信長の父)に引き渡されてしまいます。
1549年 父 広忠が岩松八弥によって命を奪われてしまう大事件が起こります(病気であったとする説もあり)
ちなみに家康さんの祖父 清康も家臣に討たれています
今川義元は、主のいない城となったので 織田に狙われる危険があるとして 今川の家臣を岡崎城の城代としました。それにより、三河の年貢は城代によって駿河の今川のもとに送られてしまいました。
松平・今川軍は案祥城を攻め、織田信広(織田信長の異母兄)を生け捕りにし、竹千代(家康)と交換しました。
竹千代(家康)はやっと織田から解放されましたが、すぐに駿府の今川へ人質に送られることになりました。このとき、家康は7歳。
家康さんも大変だったんだね~
1555年 竹千代は13歳で元服し 今川義元から一字もらい、松平元信となりました。(その後 松平元康と名をあらためました)
1557年 今川義元の姪である瀬名(築山殿)と結婚します。長男の信康誕生 翌年亀姫誕生
1560年 今川義元は大軍を率いて尾張に侵攻しました。その際 先鋒は松平元康が務め 大高城に兵糧を入れその城を守る役目でしたが、三河と尾張の国境にあり最前線の城であったため危険な任務でした。
この直後に桶狭間の戦いがあり、今川義元は織田信長の奇襲により討たれ、今川軍は壊滅し敗走することになりました。
家康は大高城を出て大樹寺へと向かいました。
大樹寺は1475年に勢誉愚底を開山として創建し、松平家の菩提寺となった浄土宗のお寺です。
厭離穢土欣求浄土という教えで有名
ん?
おんりえど ごんぐじょうど
おんり・・・・
汚れたこの世を変えて極楽浄土をめざすということらしい
へ~
大樹寺で大勢の野武士に囲まれ 家康が切腹しようとしたときに 登誉上人が厭離穢土欣求浄土の教えを説き、天下万民のために乱世を終わらせるようにすることこそが役目であるといったとされています。
ここで家康さん自害しようとしました。 一回目
一回目?
家康さんは自暴自棄になることが度々あって 家臣たちにとめられるんだよ
桶狭間の戦い(1560年)において今川義元が亡くなると、あとを継いだ氏真を見限り、独立することに決めました。
松平元康は今川勢が捨てて逃げた松平の居城である岡崎城に入ります。
このとき家康はやっと人質の生活から解放されました。
1562年 織田信長と同盟を結びました。家康20歳。
信長さんと同盟って強い言葉だね
1563年 嫡男である竹千代(信康)と信長の娘である徳姫が婚約しました。このとき徳姫は5歳でした。その後1567年に信康に嫁ぎました。(徳姫9歳)
名を家康とあらためます。
西三河の一向宗門徒が一揆
1563年 三河で一向一揆が起こります。
家康の家来の中にも本願寺派の門徒たちが大勢いました。
主君か阿弥陀仏かの選択に迫られたのでした。
これは徳川家康の三大危機のうちの一つ。家臣が分裂して戦うことになってしまいましたが これを鎮圧しました。
1564年 三河国吉田城攻め 酒井忠次に吉田城を与え東三河の旗頭としました。
1566年 姓を徳川にあらため、朝廷から三河守に任じられました。
1568年 家康は武田信玄と同盟を結びました。
信玄は三国同盟を破棄し、駿河侵攻を始めました。それに呼応して家康は遠江に侵攻し始めます。今川氏真は遠江の掛川城に撤退することになりました。
武田信玄さんに駿河を攻められた氏真さんは早川殿と一緒に逃げたんだよ
うんうん
掛川城(静岡県)まで撤退するときに、早川殿は輿には乗らずに徒歩で逃げることになってしまったんだよね
うんうん
早川殿の実父である北条氏康さんが娘が輿にも乗らずに逃げ出す羽目になるなんて!と大激怒しました
うん・・・・
武田方が北条の姫である早川殿に配慮しなかったということで大激怒した氏康さんは上杉氏と結び越相同盟を締結して反武田氏となったのでした~
配慮は大事だね
1569年 掛川城攻め 徳川軍に攻められた今川氏真は城兵たちの命は助けるという条件で無血開城しました。
今川氏真のその後のエピソード
大名としては滅びましたが、北条氏康の娘である正室の早川殿の実家を頼り、小田原で過ごしました。
北条氏康が亡くなると跡を継いだ早川殿の弟(兄との説も有り)、北条氏政は武田と同盟を結んでしまいます。
それにより北条にいた今川氏真は命を狙われることになってしまいました。
ここで氏真はかつての敵であった徳川家康を頼り 浜松に移り住みます。
家康の庇護のもと文化人としての才能を発揮して いきいきとした生活を送るようになったといわれ、江戸時代になると息子たちによって高家旗本として家系は続いていきます。
今川氏真は 1614年に77歳で亡くなりました。
1570年 姉川の戦い
織田信長が 越前の朝倉義景を攻めるため 援軍を要請してきました。
一乗谷の手前まで進軍したときに浅井長政の裏切りを知り、信長はさっさと京都に帰ります。
さすが軍事の天才です。(逃げる途中で狙撃されたらしいのですが弾は外れました)
徳川軍は取り残された形になってしまいました
大変!!早く逃げなきゃ
殿(しんがり)をしたのは木下藤吉郎(秀吉)でした。
徳川軍は浜松へ戻りますがその後すぐに信長から浅井・朝倉攻めの援軍要請がきたのでした。
殿(しんがり)とは
軍の最後尾にいて 敵の追撃を阻止し 本隊を無事に逃すという極めて危険な任務のこと
徳川の中でも信長さんの こういったところ を嫌う人が出始めます
と、いいますと?
織田と徳川は同盟という形なんだけど、決して対等な関係ではなかったからだよ
もう少し詳しく
信長さんから頼まれると援軍に行くけど、逆の場合はなかなか 来てくれなかったりして不満が出始めたんだよね。しかもめちゃくちゃ使われるし・・・。
それは不満だね
信長さんも周りは敵だらけだったから動けなかったんだけど
こういったことが重なって、織田に対して不満がある信康(家康長男)と家康との関係が悪くなっていったといわれているよ
なるほど
その2か月後に 織田・徳川連合軍 対 浅井・朝倉軍との決戦が始まりました。
(織田軍2万4千 家康5千 浅井・朝倉 1万8千)
織田軍は浅井軍に押され気味でしたが、本多忠勝の猛攻や、榊原康政が朝倉軍に対して すさまじい側面攻撃を行ったため 朝倉軍が総崩れとなりました。(その後、1573年 一乗谷の戦い 小谷城の戦いで朝倉義景、浅井長政が滅亡)
1570年 徳川家康は越後の上杉謙信と同盟を結んだことにより、武田信玄を敵に回すことになりました。
1571年 反武田氏の北条氏康が亡くなると その跡を継いだ北条氏政が武田氏と同盟を結びます(甲相同盟)そのことにより武田信玄は西上することができるようになりました。
1572年 武田軍は遠江国(静岡県西部)・三河国(愛知県東部)へ侵攻を始めます。
一言坂の戦い 三方ヶ原の前哨戦とも呼ばれている戦いで、一言坂の戦いは偵察していたところ武田軍に見つかり追撃される形で戦いが始まりました。
本多忠勝は殿を務め無事に家康本隊を逃がすことに成功しています。
本多忠勝 一言坂の戦い
偵察中に武田本軍と遭遇して戦いが始まってしまい、徳川方が不利と察知すると徳川勢に退却を勧める
徳川軍の退却を助けるために両軍の間に馬を乗り入れて徳川勢を救出し、自身は 家康本隊を逃がすために殿(しんがり)を務めた。
この勇猛果敢な姿に武田信玄の近習であった小杉左近は「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」といったと伝わっている
この小杉左近さんという方は忠勝さんが無謀である的中突破をしようとしたときに、兵に迎え撃たず道を空けるようにいったといわれているよ
どういうこと?
武士の情けで 命懸けで主君を守る忠勝さんを道を空けて逃がしてあげたということだと思うよ~
左近さん良い人ね
そうなの じ~んとくるよね
武田軍3万 徳川軍1万3千 三方ヶ原で 武田軍と激突
この戦いで徳川軍は武田勢に大敗し家康の命もあと少しで危なかったといわれています。
1572年 三方ヶ原の戦いでは武田の騎馬隊によって徳川の武将が次々と討たれていきました。やっとの思いで家康を浜松城へ逃がしましたが身代わりになった 夏目吉信は亡くなってしまいました。
しかし、西上を続けていた信玄ですが突如長篠城へと進み、しばらく滞在してから甲府へと引き返していきました。(以前から病がちだったようですが、このとき病状が悪化して長篠城で療養していたようです。
1573年 武田信玄病没
ここでいきなり信玄さん亡くなります 53歳でした
自分が亡くなったことを3年間は隠せっていうの聞いたことがあるよ
西上途中で引き返したことは不可解だし、すぐに信玄さんが亡くなったことは伝わったみたいだよ
当時の情報網すごいね~
信玄さんが亡くなると急速に武田の求心力は落ちていったといわれているんだよ~
1575年 長篠の戦い・設楽原の戦い 織田・徳川連合軍(3万8千) 対 武田勝頼(1万5千)
信玄の跡を継いだ勝頼でしたが、信玄の時代からいた重臣と勝頼の周囲にいる家臣たちとの意見の対立があり一枚岩となっていなかったようで、そのことがこの長篠の戦いの敗北の一因となり、のちの武田家滅亡へと繋がっていってしまいます。
長篠の戦いにおいて、勝頼は本国である甲斐へ帰るべきであるという重臣の意見を無視して設楽原の決戦へと進んでしまうのですが、この戦いにより武田の重臣たちがことごとく討たれることになってしまったのです。
勝頼はなんとか無事に甲斐に戻ることができましたが、結果は武田勢の惨敗に終わりました。
長篠城を守り切った奥平貞昌についての記事はこちらからご覧ください
1576年 遠江芝原の陣 武田勝頼との戦い 井伊万千代(井伊直政)の初陣とされています。
1579年 徳姫の信長への書状で築山殿(1579年8月29日遠江国で刺客により命を奪われます)と信康(築山殿が亡くなった翌月切腹)は処分されてしまいます。
1581年 高天神城落城
1582年 本能寺の変 明智光秀の謀反により織田信長は討たれてしまいます。(家康は40歳)
このとき家康は堺におり、しかも家康には三十名ほどの家臣しか従っていませんでした。
酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政がいましたが、明智光秀や 落ち武者狩りなど敵にあい 全滅する危険が迫っていたのです。(本能寺の変については日本史の中でも最大のミステリーともいわれており、いろいろな説が存在しています。
最近では徳川家康と明智光秀は協力関係であったとする説もあります)
ここで家康さんまたまた自害しようとします。
まわりは敵だらけだから自暴自棄?
信長さんに深い御恩があるからとかなんとか・・・・・
このときに 家康の側にいた本多忠勝が、急ぎ三河に戻り 体制を整えた後で 信長公の弔い合戦をすべきだ との言葉で我に返ったといわれ、おかげで家康は無事に三河へ戻ることができました。
堺から急ぎ三河へ帰る 神君伊賀越え 徳川家康三大危機のうちの一つとされています。(伊賀を通らなかった説も有り)
1584年 小牧・長久手の戦い 羽柴秀吉 対 織田信雄・徳川家康
榊原康政、井伊直政の猛攻によって 秀吉の甥である秀次の軍を壊滅状態にしました。
しかし 家康に 何の相談もなく 信雄は 秀吉と 和睦してしまい、家康には 戦う大義名分が なくなってしまいました。のちに家康は秀吉と和睦し、次男である 於義丸(結城秀康)を養子に差し出しました。
1586年 秀吉の妹である朝日姫(44歳)を正妻(人質)にしました。
秀吉は大政所である母まで人質に送ってきたので、家康は上洛することになります。(秀吉の臣下になります)
秀吉の母、大政所とはどんな人とはこちらから
1590年 小田原攻め 秀吉は20万の大軍で 小田原城を囲みました。家康も小田原攻めに参加しています。
北条氏政は切腹 北条家は滅亡しました
あの北条が滅亡するの?
1596年 酒井忠次 70歳で亡くなる
うえ~ん 酒井さ~ん
1598年 豊臣秀吉が亡くなる
1599年 前田利家が亡くなる
1600年 関ケ原の戦い 西軍に勝利した家康は実質的に天下人となります。
1602年 井伊直政 42歳で亡くなる
井伊さ~ん
1603年 徳川家康 征夷大将軍に任じられ 江戸に幕府を開きました。
1605年 徳川秀忠に将軍職を譲る
1606年 榊原康政 59歳で亡くなる
榊原さ~ん
1610年 本多忠勝 63歳で亡くなる
忠勝さんまで
1615年 大坂夏の陣 秀頼は自刃 豊臣家は滅亡しました。
大阪夏の陣では 豊臣方の真田信繁がものすごい勢いで家康の本陣めがけて攻め込んできました。家康はここで自害しようとします。このころ徳川四天王はみな亡くなっていていませんでした。
家康さんここで自暴自棄になって切腹すると言い出します。
誰が説得したんだろう?
無事に逃げることが出来ましたが、一方で真田に討ち取られたという説もあったりします。
1616年 徳川家康 74歳で亡くなる(病気だといわれています)
以上ゆる~い 家康さん年表でした
なんとなく分かった
家康には 正室 築山殿と たくさんの側室がいました。
たくさんってどのくらい?
う~ん。20人くらい・・もっとかな
多いねぇ
11代 徳川家斉さんは数えきれないくらいいました。側室以外にもいっっぱい。
・・・・・
出生地 駿河(静岡県)で 関口親永と今川義元の妹(伯母の説も有り)との間に生まれる。
生没年 出生年月不祥~1579年8月29日
夫 松平元康(徳川家康)
1557年 松平元康と結婚 元康16歳 築山殿は22歳だったとされる
子 松平信康 亀姫
築山殿は今川義元の姪で、家康が今川家(人質として)にいた頃に結婚しました。
しかし、1560年桶狭間の戦いで今川義元が討たれたあと、家康は松平の本拠地である岡崎城に帰ってしまって戻ってきませんでした。
このことで1562年に築山殿の父である関口親永は責任を取り切腹してしまいます。
家康は 上郷城を攻め鵜殿長照の子である氏長、氏次と駿府の築山殿、竹千代(信康)、亀姫とを交換することに成功し、岡崎に移り住むことにりました。
しかし築山殿だけ正室であるにもかかわらず(今川家の出身なので)岡崎城内には入れてもらえませんでした。
1567年 息子の信康は信長の娘(徳姫)と結婚しますが、築山殿は伯父である今川義元を討った信長の娘という理由で嫁姑の仲はあまりよくなかったといわれています。
1579年 築山殿と武田勝頼が内通しているなどの内容で 徳姫は父である信長に十二ヶ条の訴状を送ったとされています。
出生地 尾張(愛知県)
生没年 1559年~1636年
夫 松平信康
父 織田信長 母 生駒氏とされている
子 登久姫 熊姫(本多忠刻の母)
信長は同盟相手の家康の真意を試す目的であったともいわれていますが、二人に対して厳しい処置を家康に命じたといわれています。
家康は信長の命令を断ることはできず、8月29日 築山殿は家康の刺客により命を奪われてしまいます。9月15日 息子である信康は切腹となりました。
出生地 三河(愛知県)西郡城主 鵜殿長忠の娘
生没年 出生年月不祥~1606年 突然 伏見城で亡くなる
夫 徳川家康
子 督姫 (夫 北条氏直・池田輝政)
西郡局が家康の最初の側室ではないかといわれています。上記にあった築山殿と息子である信康、また娘の亀姫を駿府から取り戻すために、今川の上郷城を攻めました。
城主の長照の息子二人を生け捕りにして人質交換をするというものでしたが、そのときに鵜殿長忠の西郡城も攻略しました。そのときに娘を人質として差し出しました。
その娘が西郡局です。家康が岡崎城にいたときに側にいたとされています。
出生地 三河 父 永見貞英(神主) しかし父は町医者だったともいわれ、はっきりとしていない
生没年 1547年~1619年
夫 (結婚歴有り?) 徳川家康
子 結城秀康
築山殿の侍女として仕えていたと伝わっています。小督局が妊娠しても築山殿に配慮してそっと城外に隠し その後小督局は男子を出産しました。
やがてその子供は、豊臣の世になると養子(人質)として秀吉のもとに送られることになります。
のちの結城秀康で越前松平氏の祖となりました。
出生地 遠江(静岡県)
生没年 1574年~1607年
子 松平忠直(越後騒動 松平光長の父) 忠昌 直政 直基 喜佐 直良
家康の次男で生まれたが、秀吉の養子(人質)に出され羽柴姓を名乗った。その後結城家へ養子に出されてしまい将軍になることはなかった。
出生地 遠江 (静岡県) 父 戸塚忠春 母 西郷正勝の娘
生没年 1562年~1589年 29歳で病気で亡くなる(毒を盛られた説も有り)
夫 西郷義勝 徳川家康
子 徳川秀忠(二代将軍) 忠吉
西郷局の孫勝姫は孫娘国姫を追い詰めて自害させてしまった?!はこちらから
二代将軍である秀忠の生母とされている女性。父、忠春が戦で亡くなってしまったので、母は服部正尚のもとに嫁ぎました。そのときに お愛(西郷局)も一緒についていきました。
その後 西郷義勝に嫁ぎましたが、武田勝頼との戦いで亡くなります。そして未亡人でいるところに家康と出会います。
家康は美人でおっとりとしていたというお愛に惹かれ、西郷清員の養女にして側室にしました。(酒井忠次の妹(異腹)が西郷清員に嫁し、その娘が西郷局)
その後 1579年 二代将軍となる秀忠を生み、1580年に忠吉を生みました。
1586年家康が浜松から駿府へ移る際同行していますが、1589年に29歳で病気で亡くなってしまいました。この理由については築山殿に仕えていた侍女に毒を盛られた説もあります。
性格が穏やかだったので 家臣や侍女たちに好かれたといわれているよ
性格が穏やかで美人ならみんな好きだと思うよ
出生地 甲斐国(山梨県)秋山虎康の娘 のちに穴山梅雪の養女となる
生没年 1567年~1591年 25歳で病気で亡くなる
夫 徳川家康
子 武田信吉
穴山梅雪は、母は武田信玄の姉で、妻は信玄の次女であり、信玄、勝頼から信頼されていました。
しかし、信玄が亡くなり長篠城・設楽原の戦いで大敗をしたのを機に徳川家康にすり寄ってきたのでした。
そのときに人質に出されたのが下山殿でした(16歳)。このあと家康と梅雪は信長の安土城を訪れますが、本能寺の変が起き、梅雪は帰る途中で落ち武者狩りにあったとも家康により命を奪われたともいわれています。
1583年 下山殿は万千代(武田信吉)を生みました。
1591年 下山殿病気で亡くなる
出生地 遠江(静岡県) 両親不明
生没年 出生年月日不祥
夫 鋳物師 徳川家康
子 松平忠輝 女子(名前は不明)
茶阿局は大変きれいな人で教養もあり社交的な人だったといわれています。
鋳物師の妻でしたが、あるとき夫が斬られてしまうというといった事件が起こり、茶阿局が3歳の娘と仇討ちの直訴をしていたときに家康に見初められたということです。
すごい出会い方
1592年 茶阿局は忠輝を生みますが、生まれてすぐ捨てよといわれたらしいです。
というのも自刃した長男の信康に顔がよく似ていたせいであるとか、双子であったために忌み嫌われたなどの理由からでした。
それを見て家臣が引き取って養育したといわれ、越後高田(新潟県)の初代藩主になりました。(のちに改易されてしまいました)
出生地 江戸
生没年 1592年~1683年
妻 伊達政宗娘 五郎八(いろは)姫
子 男子
初代高田藩主、松平忠輝についてはこちらをご覧ください。
出生地 山城国(京都府)母は神主の娘とされる
生没年 出生年月不祥
夫 竹腰正時 徳川家康
子 徳川義直
近江国(滋賀県)足軽の妻でしたが、夫が亡くなり未亡人になったときに家康に見初められたというはなしですが、別の話では家康がお金を払って離縁させ、側室にしたともいわれています。
1595年 仙千代、1600年に五郎太を生みました。この五郎太がのちの尾張徳川の藩主となる義直です。
出生地 出生地不明 父 正木邦時(北条家浪人) 母はその後蔭山氏広(北条家臣)と再婚
生没年 1580年~1653年
夫 徳川家康
子 徳川頼宣 徳川頼房
紀伊徳川家の初代藩主 頼宣と 水戸徳川家の初代藩主 頼房を生んでいます。
伊豆に鷹狩にきていたときに見初められたらしくとても美しかったみたいです。出会ったときに蔭山殿は15歳、家康52歳でした。
出生地 父 甲斐(山梨県)武田氏の家臣 飯田直政
生没年 1555年~1637年
夫 神尾忠重(今川家家臣) 徳川家康
夫の忠重が戦で亡くなったあと、1579年 阿茶局が25歳のときに家康の側室になったといわれています。
教養があり社交性もあったことから家康からとても信頼されていた女性でした。
また、政治的な才能ももっており、1614年 大阪冬の陣では家康の使者として大阪城へ赴き淀殿と和平交渉をしています。
出生地 近江国(滋賀県) 父 浅井長政 母 お市(織田信長の妹)
生没年1569年~1615
夫 豊臣秀吉
子 豊臣秀頼
秀吉が亡くなり、秀次(謀反の疑いで自刃)という後継者もすでになく、淀殿が生んだ秀頼は幼かったために豊臣家の権勢は次第に衰えていきました。
関ケ原の戦いにおいて徳川家康が実質的に天下人となると、豊臣家は一大名の位になり、やがて大坂冬の陣、大坂夏の陣で淀殿と秀頼は自刃、豊臣家は大阪城とともに滅亡しました。
阿茶局は家康が亡くなったあとも遺言により落飾せずに秀忠や家光の代まで徳川家に仕えています。
秀忠の娘である和子(まさこ)が後水尾天皇に入内する折や出産の際には 阿茶局が上洛し、いろいろ世話を焼いたらしいです。
出生地 黒田直陣の娘と伝わる
生没年 1597年~1625年
夫 徳川家康 喜連川義親
家康の最後の側室であるといわれています。 お梶の方(お勝の方)の小間使いであったところを見初められたらしいです。家康67歳 お六は13歳でした。
「狩殿、佐渡殿、お六殿」といわれるほどお六は家康のお気に入りでした。ちなみに、狩殿は鷹狩のことで、家康が大好きな趣味として有名です。鷹狩をするために休憩や宿泊ができる施設をつくるほどでした。
佐渡殿は 本多正信のことで家康にはかかせない策謀的ブレーンです。お六殿というのはそのままで、お六のことです。
榊原康政の側室である花房氏(花房職之(宇喜多秀家家臣)と系譜関係ありと推定されています)の姪が康政の養女となり喜連川義親のもとに嫁いでいましたが、早くに亡くなってしまいました。お六はその喜連川義親の継室となります。
家康が1616年に亡くなり、その後 彼女は喜連川義親のもとに再嫁します。家康の法事が行われ、彼女は日光東照宮に赴きます。その際香炉がはじけ破片が彼女にあたり、それがもとで亡くなってしまいました。
家康が再嫁したことに怒っているのではないかと噂したそうです。
以上ゆる~い家康さんの側室紹介でした