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高田藩士が高田~京都、そして京都~高田に帰ってくるまでを記した日記です

筆まめね~

それを訳してみようと思いました

無謀な人ね~
将軍徳川家茂が上洛、二条城に入ります。その将軍警護のため藩主 榊原政敬に従い京都に行き滞在することになります。これは榊原政敬に従い上洛したとある高田藩士が書いた上洛日記です。
日記は、文久3年12月に京に行くことになったところからはじまり、元治元年7月に高田(現上越市)に帰って来るまでのことが書かれています。
虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています
時間に関しては、現代時刻との対応を分かりやすくするため、昼夜がほぼ等しい春分・秋分頃を基準として記載しています。実際の江戸時代の不定時法では、季節によって各時刻は変動します。
現代語訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります
この高田藩士は高田宿(現在の新潟県上越市)から出発して江戸廻りで京都へ向かいました。その旅のルートです↓


「文久四甲子歳正月御上洛并御先登御供詰中并道中日留帳」
文久四年(1864年)14代将軍徳川家茂に供奉し上洛した際の高田藩士が書いた道中日記
*文久四年は同年改元され元治元年になります。
文久三年亥十二月
今回再び上洛することになり、その御先登としてお供することについて先手を勤める足軽の人数が少ないので、当組に8人雇うことが命じられた。
もっともこの春三月の上洛 御先登のときは組中で相談して「お供をしたい」と役頭を通じてお願いしたけれど、何のご命令もなくとても残念だった。
・御上洛・・将軍、大名などが政治的・軍事的理由で江戸・地方から京に赴くこと
・御先登・・行列や軍勢の先手(先導)

この春の上洛というのは、第14代将軍家茂さんが1回目に上洛したときのことで(家茂は生涯3回上洛)、3代将軍家光以来229年ぶりのことでした

行けなくて残念だったみたいだね
前文のとおり新たに8人が雇用されることになったが、先手組への雇用については甚だ心外であり、どうか立場(現在の持ち場・所属)としてお供を命じていただければ大変有難く思う。
しかし、役頭を通じて願い出たけれど、上役の方々も非常に多忙で何度お願いしても聞き入れられなかった。

何回もお願いしたのね・・

でも叶わなかったんだね~
足軽の人数が少ないために今回の御雇があった とのことなので、役頭からは「多忙な状況の中、御用弁專一」 と心得るようにとのお話があったのでやむを得なかった。

御用弁専一?

多忙な状況のときなので、御用が第一と心得るように・・とのこと

なるほど~
しかし、はっきりとしたご命令もなかったので神谷元治郎方へ一同集まり相談の上くじ引きをした。

くじ引きっていうところがいいよね~

ドキドキするね~
その時くじに当たったものは、米山武平治・森山源次郎・石倉利喜蔵・瀧野岩二郎・赤井定八郎
一、水島でも同様にくじ引きをして、当たったのは
赤井宇太吉 村井逸八郎 川合半蔵 の合計8人だった
12月4日 当番より書付をもって御雇されることになったので、さっそく御物頭の原田権之進様の屋敷へ挨拶に赴いた。その際名前を書いたものを提出して面会した。
出立の日の刻限を問い合わせたところ、明日5日(12月5日)
54人を大急ぎで江戸へ向かうように、また、来る8日までに着くようにと命じられ一同困惑した。
高田~江戸までは約260kmあり、歩いて行く場合は1日40km~45km歩いても6日ほどかかる計算になります。なので、8日までに着くようにというのは「到底無理」なので一同困惑した様子も分かります。

とにかく急いで来いっていうこと??
将軍家茂が12月28日に軍艦翔鶴丸で上洛するのに先駆けて(徳川四天王・榊原家は徳川家の代々の御先手)高田藩主 榊原政敬は12月8日に江戸を出発し、東海道を通り御先登します。
未だ*御宛飼(手当)も渡されていないけど、明日5日夜中には荒井宿(新井)まで来るようにと*割元から申し渡された。
*御宛飼 日当 経費 藩から支給されるお金
*割元 世話役
急遽雇われ、手当てもないまま江戸に急ぎ向かうことを命じられたため困惑している様子が伝わってきます。
同5日 天気 申ノ下刻(午後4時ころ)出発した。

いよいよ高田宿から新井宿へ旅が始まります
ぼくの上洛日記「北国街道・新井宿~江戸編」はこちらから

