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14代将軍 徳川家茂に供奉し上洛した際の高田藩士の道中記で、当ブログでは、「ぼくの上洛日記」としています。
家茂が上洛するにあたり、徳川四天王である榊原家が御先登を勤めることになりました。
これは、榊原政敬に従い上洛したある高田藩士が書いた上洛日記です。
日記は、文久3年12月に京に行くことになったところからはじまり、元治元年7月に高田(現上越市)に帰って来るまでのことが書かれています。
虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています
訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります
時間に関しては江戸時代の時刻換算サイトを使用(不定時法)しています
翻刻文の縦書きを横書きにして訳しています
同(12月)28日 快晴 土山宿 大久屋太郎兵衛方に泊まった。里数十一里六丁(約44.7km)
同(12月)29日 同断(快晴)草津宿 渋川屋源蔵方に泊まった。里数九里七丁(約36.8km)
同(12月)晦日 快晴 朝五ツ時(8時ころ) 大津宿*問屋に行ったところ、飛脚の茂吉が出張っていたので聞いたところ、
一、殿様は去る26日大坂表へ お出遊ばされたので(到着したので)、お供の面々は 江戸廻り、北国道廻り共 これより大坂表へ参るようにとのことだった。
問屋
馬や人足を用意し、大名の参勤交代や幕府の公用旅行などの際に荷物を次の宿に運んだり、手紙やモノなどを次の宿場町に運ぶ飛脚業務を行っていたところ
飛脚の茂吉は藩の伝言を伝えるために(問屋)に出向いていた
一、殿様去る(12月)8日 江戸表を 御発駕(出発)遊ばされ 東海道を通って 御先登遊ばされた。
一、公方様去る(12月)27日 江戸表 御軍船で 御初輿(出発)遊ばされた。
将軍家茂は1864年の12月に二度目の上洛のために江戸を出発し、 軍艦「翔鶴丸」で海路から上洛しました。
飛脚(茂吉)から御発駕(榊原政敬)の様子を申し聞いた。
今日は年取りなので、大津宿でくつろぎ昼?し、一同で年取りの祝いをした。
昼 ?
?は解読不能文字です
昼・・・なんだろう
この日は大晦日だったから新年にむけてウキウキしていたんだろうね~
それより京都へ僅か三里半(14km)だったので一同大喜びし、すぐさま出立して伏見駅へ八ツ時分(13時30分くらい)に到着した。そして船場御本陣へ行って
船を出してくれるようにいったところ、本陣でいうには、今日は大晦日なので昼の間は船は出ないとのことだった。
えー?!船出ないの?!
大晦日だからね~
なるほど~ でも高田藩の人の顔が目に浮かぶよ
夕方にでもなれば何とかなるかもしれないとのことだったので、本陣で休息していたところ、ようやく、夕七ツ時(15時30分くらい)に船が用意できたようだった。
それから船に乗って暮六ツ時(17時15分くらい)に出帆した。
京都伏見から大坂表天満橋は約44.8km
京都伏見と大坂の間には三十石船とよばれる旅客のための船がたくさん行き交っていたそうで、米を三十石積めることからそうよばれていたようです。
上りは12時間ほどで逆流なので時間がかかり(大坂~伏見)、下りは6時間ほどだったそうで、淀川の川の流れに乗るので上りの半分の時間で済んだようです。(伏見~大坂)
また、枚方付近では船に乗っている旅人に小舟が近づき、餅くらわんか~酒くらわんか~といって、餅や飲み物などを販売する人たちもいて大変賑わっていたみたいです。
この くらわんか餅は、将軍家茂に献上された品として知られていますが、高田藩士はこの上洛の旅で食べたのでしょうか。
くらわんか餅、家茂が好きなお菓子についてはこちらから
船で夜を明かして、文久四年甲子年正月 元朝 天気 四ツ時(10時くらい) 大坂表 天満橋へ上って御旅館 天満仏正寺へ到着した。
船で夜を明かした?大晦日から正月って冬だよ~
と~っても寒かったと思うよ~ だからこんな感想だったよ
実は大晦日には年取の祝いも出来ず、小船に54人 全員が乗って休息も出来ず、寒い中での30日の道中は甚だ大難渋だった。
新年から大変だったんだね
この三十石船は定員が28人だったといわれているので、54人全員が乗った場合 倍の人数が船に乗っていたことになり、休憩もできなかったとあるので、寒い中で狭い船に乗って大変だったというのが伝わってきます。
寒いよ~狭いよ~
つづく