この記事には広告を含む場合があります。
記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。
将軍 家茂は1863年12月27日に二度目の上洛のために江戸を出発して、軍艦「翔鶴丸」で海路から上陸します。
家茂の上洛に際して榊原家が御先登を勤めることになり、再び将軍の御供を仰せ付られました。高田藩主 榊原政敬は12月8日に江戸を出発して東海道を通り御先登をしました。
今回の記事は江戸を出発し、東海道を通り藩主 榊原政敬のいる大坂に向かっているところの日記です。

この日記は幕末に高田藩士が書いた道中記だよ~
同(12月)28日 快晴 土山宿 大久屋太郎兵衛方に泊まった。里数十一里六丁(約44.7km)
同(12月)29日 同断(快晴)草津宿 渋川屋源蔵方に泊まった。里数九里七丁(約36.8km)
草津宿は、東海道と中山道が合流する草津追分があり、「右 東海道 いせみち 左 中山道 みのぢ」と刻まれた追分道標が立っています。
これは文化13年(1816)に設置されたもので、1863年にこの道を通った高田藩士たちはこの常夜灯の道標を見ていたと思います。
草津宿には本陣の「田中七左衛門」が残されていて、和宮や土方歳三、シーボルト、吉良上野介、浅野内匠頭などが宿泊したといわれています。
同(12月)晦日 快晴 朝五ツ時(8時ころ) 大津宿*問屋に行ったところ、飛脚の茂吉が出張っていたので聞いたところ、
問屋
馬や人足を用意し、大名の参勤交代や幕府の公用旅行などの際に荷物を次の宿に運んだり、手紙やモノなどを次の宿場町に運ぶ飛脚業務を行っていたところ
飛脚の茂吉は藩の伝言を伝えるために(問屋)に出向いていた

一、殿様は去る26日大坂表へ お出遊ばされたので(到着したので)、お供の面々は 江戸廻り、北国道廻り共 これより大坂表へ参るようにとのことだった
榊原政敬が26日に大坂に到着したので、お供の面々(江戸廻りの高田藩士たちと北国道廻りの高田藩士たち)は大坂表に参るようにとの藩からの伝言を飛脚の茂吉から聞きました。

一、殿様去る(12月)8日 江戸表を 御発駕(出発)され 東海道を通って 御先登された
一、公方様去る(12月)27日 江戸表 御軍船で 御発輿(出発)された
高田藩主 榊原政敬は1863年12月8日に江戸を出発して東海道を通り御先登をし、12月26日に大阪に到着しています。
将軍家茂は12月27日に二度目の上洛のために江戸を出発し、 軍艦「翔鶴丸」で海路から上洛しました。
高田藩士たちが藩主と将軍の両方がいつ江戸を出発したかという情報を大津宿で聞きました。
飛脚(茂吉)から御発駕(榊原政敬の出発)の様子を申し聞いた
今日は年取りなので、大津宿でくつろぎ昼?し、一同で年取りの祝いをした

昼 ?

?は解読不能文字です

昼・・・なんだろう

この日は大晦日だったから新年にむけてウキウキしていたんだろうね~
日本橋から大津宿までの距離は約480km、江戸から東海道を通って京へ行く場合は大津宿が最後の宿場町となります。
しかし飛脚の茂吉から聞いた藩の伝言では「大坂に参るように」とのことだったので、これから京 伏見から淀川を下り大坂に行くことになります。
大津宿は東海道と敦賀へと続く北国街道(北陸道)の分岐点があり、琵琶湖を通って大津浦に運ばれる物資の拠点、また商業都市として発展し、東海道53次最大の人口を抱える大都市でした。
それより京都へ僅か三里半(14km)だったので一同大喜びし、すぐさま出立して伏見駅へ八ツ時分(13時30分くらい)に到着した。そして船場御本陣へ行って
船を出してくれるようにいったところ、本陣でいうには、今日は大晦日なので昼の間は船は出ないとのことだった。

えー?!船出ないの?!

大晦日だからね~

なるほど~ でも高田藩の人の顔が目に浮かぶよ
夕方にでもなれば何とかなるかもしれないとのことだったので、本陣で休息していたところ、ようやく、夕七ツ時(15時30分くらい)に船が用意できたようだった。
それから船に乗って暮六ツ時(17時15分くらい)に出帆した。
現在でも大晦日は休業という会社が多いと思いますが、江戸時代も今も大晦日は休業するのは変わらないというのが面白いです。

お蕎麦食べなきゃいけないもんね~

確かに 忙しい

京都伏見から大坂表天満橋は約45km
京都伏見と大坂の間には三十石船とよばれる旅客のための船がたくさん行き交っていたそうで、米を三十石積めることからそうよばれていたようです。
上りは12時間ほどで逆流なので時間がかかり(大坂~伏見)、下りは6時間ほどだったそうで、淀川の川の流れに乗るので上りの半分の時間で済んだようです。(伏見~大坂)
また、枚方付近では船に乗っている旅人に小舟が近づき、餅くらわんか~酒くらわんか~といって、餅や飲み物などを販売する人たちもいて大変賑わっていたみたいです。
この くらわんか餅は、将軍家茂に献上された品として知られていますが、高田藩士はこの上洛の旅で食べたのでしょうか。
くらわんか餅、家茂が好きなお菓子についてはこちらから
東海道五十七次とは、江戸から東海道を通り京までを東海道五十三次といい、そこ(京)から大坂までを含め東海道五十七次といわれています。
江戸時代の大阪は商人の街といわれ、ありとあらゆる物を集める三大市場を有し「天下の台所」と呼ばれる活気のある街として知られていました。
船で夜を明かして、文久四年甲子年正月 元朝 天気 四ツ時(10時くらい) 大坂表 天満橋へ上って御旅館 天満仏正寺へ到着した。

船で夜を明かした?大晦日から正月って冬だよ~

と~っても寒かったと思うよ~ だからこんな感想だったよ
実は大晦日には年取の祝いも出来ず、小船に54人 全員が乗って休息も出来ず、寒い中での30日の道中は甚だ大難渋だった。

新年から大変だったんだね
この三十石船は定員が28人だったといわれているので、54人全員が乗った場合 倍の人数が船に乗っていたことになり、休憩もできなかったとあるので、寒い中で狭い船に乗って大変だったというのが伝わってきます。

寒いよ~狭いよ~

つづく