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この日記は、将軍家茂が2回目に上洛した際に越後高田藩士が書き残したものです。高田藩主 榊原政敬が京都滞在中に行った伝奏・議奏衆への挨拶、将軍参内への供奉などや、この日記を書いた武士が京都の神社仏閣を巡る様子が書かれています。その日記原文を、20歳の若者がSNSで投稿しているようにゆるく紹介しています。
虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています
訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります
現代時刻との対応をわかりやすくするため、昼夜がほぼ等しい春分・秋分頃を基準として記載しています。実際の江戸時代の不定時法では、季節によって各時刻は変動します。
※本意訳は、原文の語句や表現を可能な限りそのまま反映しています。そのため、現在では使用されない、または一般的ではない表現が含まれる場合がありますが、原文の趣旨を尊重したものです。
※このブログでは、高田藩士の日記原文をSNS投稿のように紹介しています。読みやすさのための補足・要約を加えていますが、原文そのものを現代語訳したものではありません。日記原文の意訳はSNS投稿の下にあります。

1月19日 すごく晴れ

8時頃殿様は正装で、供揃をして伝奏・議奏衆のもとに出掛けた お昼頃ご帰館

14時頃 奏者番の白井門左衛門様が使者として伝奏・議奏衆のもとに出掛けた
1月19日 快晴
8時頃に供揃をして、殿様は正装で伝奏・議奏衆のもとに出掛けられ、正午ごろ戻られた。
同日、14時頃に奏者番の白井門左衛門様が使者として伝奏・議奏衆のもとへ出向かれた。

献上役で僕が出向いた 緊張するなぁ・・・

今城様、池尻様、梅岡様、飛鳥井様、山科様の順番に訪問した

献上したのは、真綿と金包み 夕方6時過ぎに宿に帰ってきた
献上役として、私が出向いた。今城様、池尻様、梅岡様、飛鳥井様、山科様の順に訪問した。
献上品は真綿と金包みだった。
夕方6時過ぎ頃に宿に戻った。
*伝奏・議奏衆
伝奏・・幕府との連絡。天皇の意思を幕府に伝えたり、幕府の意向を朝廷へ伝える役職
議奏・・朝廷内部の儀式・典礼・朝廷内の儀式を担当する役職
*奏者番・・公式な儀式・典礼で礼法を管理する役職
真綿・・100%絹(貴重な品)
金包・・金を紙に包んだもの


20日 雨だった

本国寺に参詣して両本願寺にも行ってきた 因幡薬師の前で朝市があって賑やかだった

21日も雨 公方様はお昼頃に供揃をしてこの年初めて参内された お疲れ様です
20日 雨だった。
本圀寺に参詣して、それから両本願寺へ参詣した。
因幡薬師の前で朝市が開かれていてとても賑やかだった。
21日 雨
公方様は、正午頃に供揃をして
その年初めての参内をされた。

殿様も公方様に供奉して参内 殿ファイト~

殿は朝6時頃に供揃をして登城した 参内のときは行列の先導役だった

14時過ぎに晴れた
殿様も将軍に供奉して参内された。
朝6時頃に供揃を行い登城(二条城)された。参内の際は、行列の先導役を務めた。
14時過ぎ頃には晴れた。
参内を終え退出したのは、22時頃だった。

殿様は6時に登城して22時に退出~大変だ

ところがそのあとで・・・

殿様はすぐご機嫌伺をされたあと午前0時過ぎころやっと戻られた とりあえず殿に拍手
殿様はすぐに(将軍家茂)ご機嫌伺いに参られ、午前0時を過ぎた頃にお帰りになった。
*ご機嫌伺い・・将軍への挨拶・または様子(ご機嫌)を伺うこと。将軍へ諸大名が行う公式な政治儀礼(義務)

次の日は寝不足だね きっと


伊藤八郎様の隊、中根善次郎様の隊は長者通りを担当

1町ごとに物頭を一隊づつ配備とのこと

彦根藩は堀川通を警固
警備体制は
伊藤八郎様隊、中根善次郎様隊は長者通りを担当される。
1町ごとの辻に物頭一隊ずつ配置される。
彦根藩は堀川通を警備のこと。

参内に供奉した大名は56名だった

22日 雨 殿様は8時頃供揃をして登城され22時頃お帰りになった 殿様ガチでしんどいだろうな・・・

このときにみんなで登城していたんだけど、「島津三郎様が大名格になるらしい」って噂を聞いた
参内に供奉した大名は56名だった。
22日 雨だった。殿様は、朝8時頃に供揃をして登城され、22時頃お帰りになった。
このとき総勢で登城していたが「島津三郎様が大名格になられるらしい」との噂があった。
この時期は文久4年1月なので、「八月八日の政変」で尊王攘夷の過激派を京から追放したあとで、6名の諸侯が集まり「参預会議」が発足していたころです。朝廷から参預に任じられたのは、一ツ橋慶喜(将軍家茂の補佐)・松平春嶽(福井藩)・山内容堂(土佐藩)・伊達宗城(宇和島藩)・松平容保・島津久光(薩摩藩)でした。
久光は政治的な発言力はあったのですが、藩主の父という立場で長く無位無官であったため朝廷の国政会議に参加するには資格がありませんでした。そこで、参預と同時に官位を授けられ、他の5名より遅れて任命されました(文久4年1月13日)。
そんなときに、久光の政治的地位についての噂話を聞くところが興味深い日記です。

23日 雪が降った 長谷寺の門へ当番勤務に出掛けた

長谷寺は伊藤八郎殿の旅宿

殿様は朝8時頃に供揃をして伝奏・議奏衆のところへお出掛けしてお昼頃戻られた
23日 雪が降った。長谷寺の門へ当番勤務
長谷寺は伊藤八郎殿の旅宿である
殿様は朝8時頃に供揃をして伝奏・議奏衆を訪問され、正午過ぎにお帰りになった。

24日 天気 のち14時頃から雪

朝8時過ぎ頃から出掛けて、六角堂、北野天満宮、平野社、金閣寺、今宮大神宮、大徳寺、上加茂神社、下加茂神社、御霊神社を参詣した


18時頃 宿に戻ったけど、途中で雪が降って大変だった
24日 天気だったが、14時頃から雪が降ってきた。
朝8時過ぎ頃から六角堂、それから北野天満宮、平野社、金閣寺、今宮大神宮、大徳寺、上加茂神社、下加茂神社、御霊神社を順に参詣した。
18時頃宿に戻ったが、雪のため大変苦労した。
朝の8時過ぎから夕方の18時まで神社仏閣巡りの京都観光をしているところがすごいと思います。ですが、時は幕末でこの約半年後に「禁門の変」が起こるほど不穏な時代でした。

北野天満宮には加藤清正公が寄進した大きな鏡があった

その鏡の裏に日本全国の地図が描かれていた すごー

金閣寺の庭園を見学した 初穂料は1人5,500円ずつだった
北野天満宮には加藤清正公が寄進した大きな鏡があり、鏡の裏には日本全国の地図が描かれていた。
金閣寺の庭園を見学した。
初穂料は、10人まで1人220文(5,500円)ずつだった。*1両10万円で計算

足利義満公が住んでいた金閣堂 義満公の肖像画もあった

あちらこちらに旧跡が残っていた 庭の景色は言葉にできないくらいヤバかった
ここは足利将軍義満公が住んでいた金閣堂である。
義満公の肖像画もあり、各所に旧跡が残されていた。
庭園の景色は言葉では言い表せないほど素晴らしかった。


25日 天気

21日の初参内のときに参内が終わったあとで、殿様は盃をいただいた

めでたい儀式で、公方様からのお品をありがたくいただいたとのこと
25日 天気
去る21日の初参内の際に二条城において参内を終えたあと、殿様は盃を頂戴された。大変めでたいお祝いの儀式があり、公方様より(新春の季節のお言葉・お品)を賜り、ありがたく拝受されたとのこと
京都での初参内に伴う藩主の行動、京都市中の警備体制、藩士の神社仏閣巡りで初穂料などが分かり興味深い記録となっています。特に島津家の噂話など幕末の京都が身近な話題に聞こえる点も面白いです。次は、1月26日からの日記となり、京都編が続きます。
次は京都観光編の方広寺・東寺などです。

