幕末の京都|方広寺の大仏|SNS投稿風ぼくの上洛日記・第9回

SNS投稿風・東寺

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この日記は、将軍家茂が2回目に上洛した際に越後高田藩士が書き残したものです。高田藩主 榊原政敬が京都滞在中に伝奏・議奏衆への挨拶、将軍参内への供奉などや、この日記の著者が京都の神社仏閣を巡る様子が書かれています。

虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています

訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります

現代時刻との対応をわかりやすくするため、昼夜がほぼ等しい春分・秋分頃を基準として記載しています。実際の江戸時代の不定時法では、季節によって各時刻は変動します。

※本意訳は、原文の語句や表現を可能な限りそのまま反映しています。そのため、現在では使用されない、または一般的ではない表現が含まれる場合がありますが、原文の趣旨を尊重したものです。

※このブログでは、高田藩士の日記原文をSNS投稿のように紹介しています。読みやすさのための補足・要約を加えていますが、原文そのものを現代語訳したものではありません。日記原文の意訳はSNS投稿の下にあります。


京都の観光スポットを巡った

高田藩士
高田藩士

1月26日 晴れ 午後から大仏、三十三間堂、西大谷、八坂神社、鳥部山本寿寺を参拝

高田藩士
高田藩士

大仏は66年前に焼失とのこと

1月26日 晴れ

午後から、大仏、三十三間堂、西大谷、祇園社(八坂神社)、鳥部山本寿寺、を参拝した。

大仏は66年前に焼失したとのことだった。

高田藩士
高田藩士

鳥辺山の本寿寺にお俊と伝兵衛のお墓があった

高田藩士
高田藩士

さらに清水寺から八坂の塔へ参詣した

鳥辺山の本寿寺の境内にお俊・伝兵衛の墓があった。

清水から八坂の塔へ参詣した。

方広寺の大仏は焼失していた

この大仏とは方広寺の大仏のことで、豊臣秀吉が奈良・東大寺の大仏に匹敵する大仏を京都の方広寺に建立しました。しかし、度重なる火災・地震で焼失・倒壊を繰り返し現存していません。今の方広寺は梵鐘「国家安康」大坂の陣のきっかけとなる鐘が残されています。

その大仏をこの日記の著者が幕末(1864年)に見学していて「大仏は66年前に焼失していた」と日記に書いています。66年前といえば1798年の3代目の大仏のことです。

大仏

3代目の大仏は1667年に再興されましたが、1798年に落雷のため焼失しています。著者が見ていた大仏は4代目(木造半身像)のもので、1843年に再建されましたが、こちらも1973年の火災により焼失しています。

4代目の大仏を見て3代目の大仏が66年前に焼失していたと書かれた日記を見るのも面白い箇所だと思います。現在では残念ながら4代目の大仏も見ることができません。

三十三間堂は全長120mの本堂に1001体の千手観音像が並んでいることで有名で、堂内の柱間が33あることからこの名前が付いています。三十三間堂にある千手観音の中には「自分に似た人や会いたい人の顔がある」といわれていますが、この著者は見つけることができたのでしょうか。

本寿寺にお俊と伝兵衛の墓があった

西大谷は、親鸞聖人の墓所があり、八坂神社、八坂の塔といった京都の観光スポットが続きますが、突如「鳥部山本寿寺」のお俊と伝兵衛の墓に行っています。このお俊と伝兵衛とは、江戸時代に起きた心中事件で、伝兵衛と遊女お俊の事件をもとに人間浄瑠璃や歌舞伎の演目の悲恋の主人公として上演されていたようです。一般的な観光名所ではないので少々驚きますが、日記の著者は芝居見物が好きなので興味を持ったのでしょうか・・。

高田藩士
高田藩士

1月27日 公方様が朝8時頃に供揃をして参内された 殿様も公方様に供奉して参内

高田藩士
高田藩士

お帰りになったのは午前0時頃・・

SNS投稿風・参内
高田藩士
高田藩士

午後から御所を出て 仕事終わりに 寺町通をいろいろ見物

1月27日 公方様が朝8時頃に供揃をして参内。殿様も供奉し参内した。

お帰りになったのは午前0時頃だった。

午後から御所を出て、寺町通りの各所を見物した。

午後から御所を出て~とは、御所での仕事が終わって寺町通りを散策しているところが今とあまり変わらなくて面白い記述です。

高田藩士
高田藩士

1月28日 晴れ 朝市があった

高田藩士
高田藩士

江戸から戻ってきた御供のひとたちが出発

1月28日 晴天 (因幡薬師)朝市があった。

江戸から戻ってきた御供の者たちが出発した。

高田藩士
高田藩士

1月29日 天気 午後から寺町通へ出かけた

高田藩士
高田藩士

2月1日 めちゃくちゃ晴れ 殿様は9時頃供揃をして伝奏・議奏衆のもとへ出向かれお昼頃お帰りになった

高田藩士
高田藩士

2月2日 天気 午後から西大谷の大仏堂へ参詣 近くに唐人の耳塚あり これは昔加藤清正公が朝鮮出兵の際に持ち帰ったものだという

1月29日 天気 午後から寺町通りへ出かけた。

2月1日 快晴 殿様は午前9時頃に供揃をして、伝奏・議奏衆のもとへ出向かれ、正午ごろにお帰りになった。

2月2日 天気 午後から西大谷の大仏堂へ参詣した。近くに「唐人の耳塚」があった。これは昔、加藤清正公が朝鮮出兵の際に持ち帰ったものであるという。


東福寺の庫裏は古い銘木が使われていた

高田藩士
高田藩士

三十三間堂、東福寺を参詣して、有名な通天橋に行った

高田藩士
高田藩士

東福寺の建物には高麗木・朝鮮木など古い銘木が使われているんだって びっくり

高田藩士
高田藩士

そして驚愕なのが一度も焼失していないんだって

その後三十三間堂、東福寺を参詣した。そこで名高い通天橋を訪れた。

東福寺の建物、家・台所(庫裏)には高麗木・朝鮮木など古い銘木が使われていて大変驚いた。

そしてこの寺は古来一度も焼失してないとのこと。

東福寺は古来から焼失していないとの記述ですが、仏殿などが全焼するような大規模な火災は発生していないものの、数百年の間に何度も小規模な個別の火災は発生していて、塔頭や塔院は火災にあい再建しています。しかし、1336年から1881年(明治の大火)までは大規模の火災は発生していませんでした。この日記の著者が東福寺を見学していたのは1864年なので「明治の大火」前のことで、現在の庫裏や本堂はこの火災後に再建されたものです。

東寺の五重塔は京都随一の塔

高田藩士
高田藩士

伏見稲荷と東寺を参詣 東寺の五重塔は京都随一

高田藩士
高田藩士

さらに、大通寺では多田満仲??(判読不明文字)木があった。古木だった。

高田藩士
高田藩士

その後島原を見物 そして本圀寺を参詣して6時頃宿に戻った

その後、伏見稲荷と東寺を参詣した。東寺の五重塔は京都随一の塔であった。

さらに、大通寺では多田満仲??(判読不明文字)木があった。古木だった。

その後島原を見物して、本国寺を参詣した。午後6時頃に宿へ帰った。

東寺

東寺の五重塔は火災などにより4回焼失していて、現在の塔は徳川家光の寄進により再建されたもので5代目のものです。高さは約55mあり、伝統的な木造塔として日本一の高さを誇ります。

京都の大通寺は、清和源氏ゆかりの寺院として知られており、多田満仲(源満仲)が、父経基の墓所に堂宇を建てたことが起こりと伝えられています。残念ながら判読不明文字のため何が書いてあるのか分かりません。

最後に島原を見物して本国寺を参詣して宿に帰ったようですが、特に感想は書いてありませんでした。


上洛中の滞在費の支給

旅扶持・・道中や滞在先で給付される食事代・滞在費

この箇所の記述は、藩主の上洛に伴う京都滞在中の扶持米代の受領証文になります。そして、京都の詰め役人が二条城で扶持・手当等を受け取る際の作法を記した覚書です。

麻の裃
高田藩士
高田藩士

扶持米代の受領証文は以下の通り

旅先でいただく手当(食費・滞在費)を確かに受領いたしました

米百三十俵五升(京升による計量)代金は七百十一両と永百六十貫七分(約8710万円 1両10万円で計算)

三十五石につき七十三両の計算で三十日分に相当

右の金額は、式部大輔様の上洛供奉に伴う道中ならびに京都滞在中の旅扶持について、書面に記された分の石代を京都で確かに受け取りました

子年二月二日付

榊原式部大輔内

 鶴見八左衛門印

御勘定書

酉之内ニ 神尾安太郎殿

認メ   中村雅太郎殿

高田藩士
高田藩士

手当等を受け取る際の作法は以下の通り

三ノ紙ニ包

お留守居役 一人

直役 一人

定番 三人

足軽 二人

持夫 二人

以上の者は在京中の毎月2日に二条城に出向き、支給物を受け取ることになっている。

その際、留守居役と定番役は麻の裃を着用して受け取ること。このことは、川島の兄君から内々に聞いていたことである。

川島氏は徒歩の臨時役として、長持(武器などが入った)の警護役を務め、12月18日に出発して、北陸道を上ってきた。

毎月2日に二条城に赴いて支給物を受け取る際に「麻の裃を着用するように」との教えを実兄から教わっているところがほほえましい箇所です。そして、兄の方は江戸廻りではなく高田(新潟県上越市)から北陸道経由で京都にきたことが分かります。

「幕末・高田藩士の上洛日記・第5回|大坂編」でも書きましたが、藩主 榊原政敬が急ぎ江戸へ出発したため、その供廻りが間に合わず国元から直接北陸道を通って京都へ上ってきたためです。

次回もまだまだ京都編は続きます。

次は、将軍徳川家茂が泉涌寺に参詣|上洛日記・第10回から