文久から元治に改元|SNS風投稿2/20~3/6までの上洛日記・第11回

改元のSNS

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虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています

訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります

現代時刻との対応をわかりやすくするため、昼夜がほぼ等しい春分・秋分頃を基準として記載しています。実際の江戸時代の不定時法では季節によって各時刻は変動します。

※本意訳は、原文の語句や表現を可能な限りそのまま反映しています。そのため、現在では使用されない、または一般的ではない表現が含まれる場合がありますが、原文の趣旨を尊重したものです。

※このブログでは、高田藩士の日記原文をSNS投稿のように紹介しています。読みやすさのための補足・要約を加えていますが、原文そのものを現代語訳したものではありません。日記原文の意訳はSNS投稿の下にあります。


文久四年から元治元年へ改元された理由

高田藩士
高田藩士

2月20日 天気 お昼頃 殿様は供揃して登城され 午後2時にご帰館

高田藩士
高田藩士

午後から知恩院を参詣して座敷を見学 料金は10人まで8750円だったけど3人で行ったよ

2月20日 天気 正午頃 供揃をして殿様が登城され、14時頃戻られた。

午後から知恩院を参詣し、座敷を拝見した。代金は一朱と百文で、十人まで 約8750円だったが、今回は三人で訪れた。

知恩院・・壮大な三門や御影堂、狩野派の襖絵で彩られた方丈が見どころで、方丈庭園も国指定名勝です。また、17人の僧侶が撞く除夜の鐘が有名です。

高田藩士
高田藩士

2月21日 天気 殿様は朝8時ころ供揃をして登城 昼頃ご帰館

高田藩士
高田藩士

10時頃から本圀寺へ参詣 それから大通寺・東寺を参詣

高田藩士
高田藩士

毎月21日は弘法大師の命日で朝市があった 言葉で言い表せないほどスゴかった!!

高田藩士
高田藩士

元治と改元されたってお触れが回ってきた 歴史的瞬間

2月21日 天気 殿様は朝8時頃 供揃をして登城され、昼過ぎにお戻りになった。

10時頃から本圀寺へ参詣して、それから大通寺・東寺を参詣した。毎月21日は弘法大師の命日なので朝市があった。大変賑わっていて、その様子は言葉では言い表せないほどだった。

元治と改元され、その触れが回ってきた(文久四年→元治元年)

本圀寺・・日蓮宗の大本山で、加藤清正ゆかりの寺院としても知られています。

東寺・・空海ゆかりの真言宗の総本山で、五重塔が京都の象徴として知られています。また、21体の仏像からなる立体曼荼羅が有名です。

文久四年に元治元年に改元されたのは「甲子(きのえね)」の年だったからで、甲子の年は災いが起こりやすい年と考えられていました。その災いを避けるため元号を改めるとの慣例のためでした。

実際、生麦事件や薩英戦争、八月十八日の政変などで政情が不安定だったのでこの流れを断ち切りたいとの思いもあったようです。

しかし、改元してから数か月後に尊皇攘夷派の長州勢が挙兵「禁門の変」が勃発し政情が不安定になるとわずか1年ほどで「慶応」へ改元されることになります。

明治元年までは、災害や吉凶または「甲子」といった干支を理由に改元することがありましたが、明治政府は「一世一元の制」を採用して天皇一代につき元号は一つと定めました。そのため、明治以降は災異や吉凶、甲子年であっても改元されることはなくなりました。


高田藩士
高田藩士

2月22日 天気 松本庄之助と伊藤彦右衛門の両名が出勤 謹慎が終わったんだね

高田藩士
高田藩士

瀧見九郎兵衛様の部下の酒井記兵衛が6日間限定の用事のため出発 もとは飛脚の用事で来ていたみたいだ

高田藩士
高田藩士

出発するときに紙包を渡しておいた

2月22日 天気 松本庄之助と伊藤彦右衛門の両人が出勤となった。

瀧見九郎兵衛様の配下の酒井記兵衛が六日間の道中御用を命じられ出発した。彼はもとより飛脚の公務で来ていた。

その際に紙包を送っておいた。

*六日間の道中御用・・道中(旅路・街道)において六日間の藩の公務

高田藩士
高田藩士

2月23日 曇天 午後から芝居見物に行った

高田藩士
高田藩士

2月24日 天気 本堂の当番勤務に出掛けた

2月23日 曇天 午後から芝居見物に行った。

2月24日 天気 本堂の当番勤務

14日に謹慎処分となっていた原田権之進の配下 松本庄之助・伊藤彦右衛門が22日に謹慎が解かれたようです。

高田藩士
高田藩士

2月25日 天気 殿様は朝8時頃供揃をして水野和泉守様のもとにお出かけ 午後1時ご帰館

高田藩士
高田藩士

午後から清水・高台寺・双林寺・東大谷・丸山・祇園を参詣

2月25日 天気 殿様は朝8時頃供揃をして水野和泉守様のもとへ出向かれ、13時頃お帰りになった。

午後から清水寺・高台寺・双林寺・東大谷・丸山・祇園を参詣した。

高田藩士
高田藩士

お触れが出た

高田藩士
高田藩士

四条通の芝居小屋に武士はもちろん言うに及ばず、下人に至るまで無料で立ち入ってはならない 分かってますよ(笑)

芝居小屋のお触れ

同日のお触れの写し

四条通の芝居小屋及び「四志満」については、武士(帯刀している者は言うに及ばず)はもちろん下人に至るまで無料で立ち入ってはならないとの触れが出された。

高田藩の京都滞在中には、かなりの頻度でお触れ書きが回ってきていたようで、今回は「芝居小屋には無料で立ち入らないように」との注意でした。他藩でもこのくらいの頻度で回ってきていたのでしょうか。

高田藩士
高田藩士

夕方5時頃 烏丸通を錦小路から南へ下ったあたりで火事があった 火事多いね

高田藩士
高田藩士

26日 雨 表門の当番勤務に出掛けた

夕方17時頃 烏丸通を錦小路から南へ下ったあたりで火事があった。

26日 雨 表門の当番勤務

高田藩士
高田藩士

2月27日 天気

高田藩士
高田藩士

2月28日 曇天 朝市があった 高田に手紙を出した

高田藩士
高田藩士

手当3万4100円を受け取った

高田藩士
高田藩士

29日 天気 午後から寺町五条へお出掛け

2月27日 天気

2月28日 曇天 朝市(因幡薬師)があった。国元に手紙を送った。

金一歩一朱と百十四文(約3万4100円)を受け取った。これは日割りの宛飼(扶持・手当)として支給されたものである。

29日 天気 午後から寺町通五条へ出かけた

高田藩士
高田藩士

3月1日 快晴 高田に手紙を送った

高田藩士
高田藩士

殿様は昼頃から、清水寺・知恩院・大仏・三十三間堂・東福寺・伏居稲荷を参詣し夕方4時頃ご帰館

高田藩士
高田藩士

2月24日に岩佐喜太郎と小田鉄之助の両名が出勤した

3月1日 快晴 国元に手紙を送った 

殿様は昼頃から、清水寺・知恩院・大仏・三十三間堂・東福寺・伏見稲荷を参詣するために外出され、16時頃お帰りになった。

去る24日に、岩佐喜太郎と小田鉄之助の両名が出勤した

文机の上で手紙を書いている

2月16日に謹慎処分となっていた岩佐喜太郎と小田鉄之助の両人が出勤したようです。

高田藩士
高田藩士

3月2日 快晴 午前0時頃から比叡山に登った。その後は有名な唐崎の一ツ松を見物 そして三井寺を参詣

高田藩士
高田藩士

比叡山の麓にある坂本って場所に山王21社あって、東照宮の霊廟もある

高田藩士
高田藩士

比叡山までは16kmくらいで 歩いたのは40kmくらいだった

3月2日 快晴 午前0時頃から比叡山に登った。その後唐崎の一ツ松を見物して三井寺を参詣した。

比叡山の麓にある坂本という所に山王二十一社があり東照宮の霊廟もある。

比叡山までは16kmほどで、道のり(総距離)は約40kmだった。

高田藩士
高田藩士

3月3日 天気 朝市があった

高田藩士
高田藩士

昼から梅宮神社、松尾大社、小倉山の二尊院、妙見宮嵐山の虚空蔵菩薩、嵯峨の天龍寺に参詣

高田藩士
高田藩士

嵐山の景色も見て、嵯峨の釈迦堂も全部参詣した 夜の8時に宿に戻った

3月3日 天気 朝市があった。昼頃から梅宮神社、松尾大社、小倉山の二尊院、妙見宮嵐山の虚空蔵菩薩、嵯峨の天龍寺に参詣した。

また、嵐山の景色を見て嵯峨の釈迦堂も残らず参詣した。午後8時頃に宿に戻った。

唐崎の松・・滋賀県大津市の唐崎神社にある「唐崎の松」は、琵琶湖湖畔に立つ名松として知られています。歌川広重の浮世絵にも描かれており、現在の松は長い歴史を受け継ぐ三代目とされています。

高田藩士
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3月4日 雨

高田藩士
高田藩士

3月5日 公方様が参内されるとのお触れが回ってきた 殿様も公方様に供奉して参内するらしい

3月4日 雨

3月5日 雨

公方様が参内されるとのお触れが昨日回ってきた。また、殿様も供奉して参内されるとのお触れが昨日回ってきた。

高田藩士
高田藩士

朝6時頃に供揃をして殿様は公方様に供奉して参内する予定だった

高田藩士
高田藩士

ところが、三条通りから錦小路あたりにきたところで、留守居役の人がきて

高田藩士
高田藩士

参内は延期って伝えてきたんだ それですぐに引き返すことになった

朝6時頃 供揃をされ、殿様は登城して公方様に供奉・参内される予定だった。ところが、三条通りから錦小路あたりまで出たところで、留守居役が駆けつけ参内が延期になった旨を伝えてきた。

そのため、ただちに引き返すこととなった。

高田藩士
高田藩士

3日に徒目付の阿部七兵衛、先手役の井上源次・池田安兵衛、中間目付一人が六日間の道中御用のため出発した

高田藩士
高田藩士

長持ち一棹、夫人3人が一緒に行った

去る3日、徒目付の阿部七兵衛、先手役の井上源次・池田安兵衛、中間目付一人が六日間の道中御用のため派遣された。

長持一棹、夫人 三人が付き従った。

高田藩士
高田藩士

その中に忠次公(榊原家三代当主)が禁裏から拝領された太刀が入っている

高田藩士
高田藩士

太刀には菊桐の紋入りで今回の参内に帯刀する予定のものだった

高田藩士
高田藩士

3月6日 曇天 表門の当番勤務に出掛けた

それには、三代君である忠次公(榊原家三代当主)がかつて禁裏から拝領された御太刀が納められている。太刀には菊桐の紋が付いており、このたびの参内にその御太刀を帯刀される予定であった。

3月6日 曇天 表御門の当番勤務だった

次は元治元年3月家茂の参内|3/7の上洛日記・第12回から