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14代将軍 徳川家茂に供奉し上洛した際の高田藩士の道中記で、当ブログでは、「ぼくの上洛日記」としています。
家茂が上洛するにあたり、徳川四天王である榊原家が御先登を勤めることになりました。
これは、榊原政敬に従い上洛したある高田藩士が書いた上洛日記です。
日記は、文久3年12月に京に行くことになったところからはじまり、元治元年7月に高田(現上越市)に帰って来るまでのことが書かれています。
虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています
訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります
時間に関しては江戸時代の時刻換算サイトを使用(不定時法)しています
翻刻文の縦書きを横書きにして訳しています
同(1月)2日 天気 朝五ツ時(8時くらい)より天満大神宮へ参詣した。
一、殿様(榊原政敬)昼後よりお乗り切り(船にのったまま)で天保山へ参られた。
一、同(1月)3日 快晴 昼後より天満五丁目 伊波屋小平方へ下宿となった。
しかし、暮れ六ツ時(17時15分頃)になって国元(高田)より北国廻り(北国道)で、昨 12月16日に出発し、組頭、兵士、諸役人 御先手 足軽 武器 長持*夫人??到着したのですぐに宿割りとなった。
この??は解読不能文字?
古文書の折れ目で解読不能です
夫人(ぶにん) 戦場などに物を運ぶ人足役のこと
そして寺町鈴鹿丁本教寺へ下宿となった。
同(1月)4日 天気 朝五ツ時(8時くらい)より大坂城の御城郭見物し、それから天王寺を参詣した。五重の塔へ上り大坂中が眼下に見えた。
一、昨12月18日 出立の北国廻りの御組頭 兵士 御物頭 諸役人 足軽が夕方になって数多く到着した。
右 の↑ 訳は、殿様が急の御発駕(江戸表を出立された)だったので、御供が間に合わず国元より直ちに北陸道筋で京都表に登ってきたためだった。
榊原の殿様は急に上洛することになったんだね~
そうみたいだね。お供が間に合わずに、急いで高田(上越市)から北陸道で京に登ったみたいだね
北国道廻り(北陸道筋) で京に登った
御武器 御長持 81棹 夫人足 やはり両日立(12月16日出発)(12月18日出発)で都合 千人参った。
同(1月)5日 快晴
同(1月)6日 同断(快晴)
朝五ツ時(8時くらい)より天王寺住吉大神宮へ参詣した。それから難波屋の松を見て、泉州堺 妙国寺へ参詣し、ソテツを見て、夜五ツ時(19時30分)寄宿した。
この堺にある妙国寺のソテツは織田信長さんが安土のお城に移植しようとしたんだけど・・
けど?
毎夜堺に帰りたいと泣いたため、ソテツに霊があるとして、妙国寺に返したという伝説があるらしいよ~
ほう・・
ちなみにソテツとはこんな感じの木です(奄美大島のソテツ)
里数は〆て九里ほど(36km)だった。泉州堺まで四里(16km)だった。
一、去(1月)4日 御触れの写し
公方様 大坂御入城の節 殿様 大手御門外へ 御出迎え遊ばされ、御入城済ませられ 引き続き御登城・お祝いの義仰せ上げられる
その節、総人数は大手御門外留ヶ原横小路より上本町壱丁目辺りをご警衛勤める様に、ついてはあらあらの理解で相心得え、雑兵または少々格外においては省くように
との大目附 渡部甲斐守様よりお達しがあって、惣人数のうち??減少を仰せられたので、そのことを心得るように、ついては「総人数御行列帳」を明日5日、御目付部屋(竹尾半蔵の部屋)において一読しておくようにとのことだった。 正月四日
??は解読不能文字ね
うん。虫損により不読
同(1月)7日 天気
同(1月)8日 同断(天気)
一、公方様 御着船につき、殿様(榊原政敬)は朝五ツ時(8時頃)御供揃いで大阪城大手前までお出迎えになられた。人数については御触書の通りにお固めした。
お固め 警護のこと
14代将軍 徳川家茂は12月27日に江戸を出発して28日に品川から軍艦翔鶴丸に乗船し海路で1月8日に大坂に到着しました。軍艦で来たはずの家茂がなぜこんなに時間がかかったのかというと、天候に恵まれなかったとする一方でこんな噂があったようです。高田藩士が書いた日記にはこう書かれていました。
公方様旧﨟二十七日御軍艦ニ而 御發輿 今八日御機嫌能大坂御入城被遊恐悦至極奉存候 実紀伊様へ御立寄被為遊候風聞之事
公方様(家茂)が旧﨟二十七日(去年の12月27日)御軍艦にて御発輿(出発)されました。今八日(今月8日 文久四年一月八日)御機嫌能(よ)く大坂御入城遊ばされ恐悦至極に存じます。
実は紀伊様へ(家茂は将軍就任前は*紀州藩主)お立ち寄り遊ばされたという風聞(噂)です。
*紀州藩 現在の和歌山県 御三家のうちのひとつ
軍艦で海路で来たはずの家茂が時間がかかったのは、実は紀伊へ寄っていたという噂があったようです。
上様夜五ツ時頃(19時30分頃)御入城。
殿様すぐにお祝いに御登城なされた。
お供廻りを引き連れてお引き取りになられ、その節、大手前へお出迎えの大名は、紀州様、松平越中守様、井伊掃部頭様、御手前様(榊原政敬)、そのほか御老中、若年寄だった。
お固め(警護)は井伊様、御当家(榊原家)だった。
同(1月)9日、雪が少々降った。
同(1月)10日 雨
一、原田権之進様付は
石倉利喜蔵、川合半蔵
一、村上休兵衛様付は
赤井宇太吉
一、久代勘右衛門様付は
村井逸八郎
一、山川甚兵衛様付は
滝野岩三郎
一、村上市蔵様付は
森山源次郎
一、今井新左衛門様付は
米村武平治、赤井貞八郎
右 ↑ の通り物頭によって割付が決められた。
同(1月)十一日 快晴
殿様五つ時(8時頃)御供揃いより御登城
同(1月)12日 快晴 御触れの写し
御名
大阪表
御着城の節大手外へ人数を召し連れ 格別な注意を払い警衛を行うこと
正月十一日 両御物頭
家茂さんが大阪城に着いたときには格別な注意をして警衛してねってこと?
一段と抜かりなく警備してねってことらしいよ~
つづく