「幕末・高田藩士の上洛日記」第5回|大坂編

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このたび「高尾ちゃんグルメブログ」が「こばん店長の歴史と宿場町カフェ日和」にお引越することになりました。新着の記事はこばん店長の歴史と宿場町カフェ日和で更新していくことになりますので何卒よろしくお願い申し上げます。

徳川家茂は朝廷から攘夷決行を迫られ上洛をすることになりました。家茂は生涯で3回上洛していますが、これは2回目の上洛のときのことを高田藩士が日記に残したものです。

高田藩士たちは大晦日の夜極寒の中、京 伏見から船に乗り大坂までやってきました。今回の記事はここから始まります。


大坂天満宮へ参詣

1月2日 天気 朝五ツ時(8時頃)より天満大神宮へ参詣した。

殿様(榊原政敬)は昼過ぎに乗り切り(駕籠もしくは船などの乗物で外出)で天保山へ出かけられた。

1月3日 快晴 昼過ぎから天満五丁目 伊波屋小平方へ下宿となった。

しかし、暮れ六ツ時(18時頃)になって国元(高田)より北国廻りで、昨 12月16日に出発し、組頭、兵士、諸役人 先手足軽 武器 長持*夫人??到着したのですぐに宿割りが変更となった。

そして寺町鈴鹿町本教寺へ下宿となった。

・北国廻り・・北陸道経由

・夫人(ぶにん)・・荷物を運搬する人

アダム
アダム

この日記の中の??は解読不能文字?

こばん店長
こばん店長

古文書の折れ目で解読不能です

1月2日の朝8時くらいから天満大神宮(大坂天満宮)に出掛けています。この大坂天満宮は学問の神様の菅原道真を祀っており、「天満の天神さん」と呼ばれ親しまれている神社です。

日記には、藩主 榊原政敬は”昼過ぎに天保山へ参られた”とあるので、家茂が軍艦翔鶴丸に乗ってこの天保山沖に入港し小船に乗り換え大坂城に入るというルートの確認をしたと思われます。


大坂城と四天王寺五重塔へ行った

1月4日 天気 朝五ツ時(8時頃)より大坂城を見物し、それから天王寺を参詣した。五重の塔へ上り大坂の町が眼下に見渡せた。

昨12月18日に国元を出発した北国廻りの御組頭 兵士 御物頭 諸役人 足軽が夕方になって数多く到着した。

この訳は、殿様が急な御発駕(江戸を出立された)だったので、御供が間に合わず国元より直ちに北陸道筋で京都に上ってきたためだった。

幕末の城郭見物

この日記で高田藩士は、文久4年1月4日(1864年)に大坂城の城郭見物をしています。

大坂城は1665年の落雷により城の天守は焼失しており、見物したときには天守はありませんでした。

このあとこの城で慶応2年(1866年)に徳川家茂が亡くなり、慶応4年(1868年)には旧幕府軍と新政府軍との間で鳥羽・伏見の戦いが起こり大坂城は焼失してしまいます

四天王寺の五重塔に登った

その後高田藩士は、四天王寺に参詣し五重塔にも登ったようで「大坂中目の下」にこれありとの感想が書いてあり、大坂の街並みを見渡せて感動している様子が伝わってきます。

四天王寺 593年に聖徳太子が創建したと伝わる寺で、戦いや落雷、台風等の被害で今まで7回も再建されています。また、五重塔は8回です。

そして夕方になると12月18日に高田(現上越市)を出発した兵士や物頭、諸役人たちが宿に到着しました。北国廻り(北陸道)で京に上ってきた訳は、藩主 榊原政敬が急に江戸を出発することになったので、お供が間に合わずに急いでいたためだったようです。

武器や長持 は81棹  二隊に分かれて出発して到着(12月16日出発)(12月18日出発)夫人足はおよそ千人。

1月5日 快晴

1月6日 快晴

・長持 荷物を入れる大型の箱

・夫人足 荷物などを運搬する人


高田藩士、住吉名物「難波屋の笠松」を見ていた?!

朝五ツ時(8時頃)より天王寺住吉大神宮へ参詣した。それから難波屋の松を見て、泉州堺 妙国寺へ参詣し、有名なソテツを見て、夜五ツ時(20時頃)宿に帰った。

朝8時くらいから出掛けて、天王寺住吉大神宮へ参詣したと書いています。ここは211年 神功皇后が創建し、全国2300社の住吉神社の総本宮として知られています。

その後、住吉名物の難波屋という茶店の松を見たとあり、その松は大木で、笠のような形に見えたことから、「難波屋の笠松」といわれ、街道の観光スポットだったようです。時間がなかったのでしょうか感想は書いていません。ちなみにこの茶店は「あんもち」を売って繁盛した店だったようです。

妙国寺のソテツ

そして、堺 妙国寺を参詣し、ソテツを見たとあります。

こばん店長
こばん店長

この堺にある妙国寺のソテツは織田信長さんが安土のお城に移植しようとしたんだけど・・

アダム
アダム

けど?

こばん店長
こばん店長

毎夜堺に帰りたいと泣いたため、ソテツに霊があるとして、妙国寺に返したという伝説があるらしいよ~

アダム
アダム

ほう・・

こばん店長
こばん店長

ちなみにソテツとはこんな感じの木です(奄美大島のソテツ)

里数は〆て九里ほど(36km)だった。泉州堺まで四里(16km)だった。

1月4日に出されたの御触れの写し


将軍徳川家茂が大阪城へ入城

公方様が大坂城に入城される際は、 殿様は大手御門の外までお出迎えされ、公方様の入城が済み次第引き続き登城すること

その際に、総勢で大手御門外の留ヶ原横小路より上本町一丁目辺りの警護を命じられた。しかし、人数について実情に合わせ、雑兵などは必要なければ削減すること

と、大目附 渡部甲斐守様よりお達しがあって、総人数の減員を命じられた。そのことを心得ておくようにとのこと。また、人数と「行列帳」の内容の確認をするため、翌5日、御目付部屋(竹尾半蔵の部屋)において一読しておくようにとのことだった。  正月四日

1月8日に家茂が大坂城に入城するので、その前に「御触れ」が出たようです。その御触れ書きを高田藩士は写しています。

内容は、家茂が大坂城に入城の際は榊原政敬が大手御門の外までお出迎えをしてそのまま入城しお祝いを申されるので、大手御門外の留ヶ原横小路より上本町壱丁目辺りを警護するようにとのお触れでした。また、そのことについて詳しくは行列の配置を記した「総人数御行列帳」を読んでおくようにとの指示でした。行列帳といった帳面があるのを初めて知りました。

アダム
アダム

??は解読不能文字ね

こばん店長
こばん店長

うん。虫損により不読


将軍家茂、上洛途中で紀伊へ立ち寄っていたと噂があった?!

1月7日 天気

1月8日 同じく天気

公方様 が御着船されたので、殿様(榊原政敬)は朝五ツ時(8時頃)供揃えをして大阪城大手前までお迎えをした。警備人数については御触書の通りにした。

14代将軍 徳川家茂は12月27日に江戸を出発して28日に品川から軍艦翔鶴丸に乗船し海路で1月8日に大坂に到着しました(29日下田、1月2日伊豆半島子浦港、1月5日紀州へ上陸、1月6、7日 紀州由良港)。

徳川家茂が紀伊へ立ち寄っていたという噂があったという日記

公方様旧﨟二十七日御軍艦ニ而 御發輿 今八日御機嫌能大坂御入城被遊恐悦至極奉存候 実紀伊様へ御立寄被為遊候風聞之事

高田藩士が書いた日記にはこう書かれていました。

公方様(家茂)が旧﨟二十七日(去年の12月27日)御軍艦にて御発輿(出発)されました。今八日(今月8日 文久四年一月八日)御機嫌能(よ)く大坂御入城遊ばされ恐悦至極に存じます。

実は紀伊様へ(家茂は将軍就任前は*紀州藩主)お立ち寄りになったという風聞(噂)です。

*紀州藩 現在の和歌山県 御三家のうちのひとつ 

軍艦で海路で来た家茂が時間がかかったのは、西風が強いなど天候に恵まれないことで各港や紀伊へ寄っていたためでした。当時、高田藩士が家茂が紀伊へ寄っていたという噂を聞いていることが面白いです。

上様は夜五ツ時頃(20時分頃)城へ入られた。

殿様すぐにお祝いの挨拶のため登城された。

その後お供廻りを引き連れて入城。その際、大手前へ出迎えた大名は、紀州様、松平越中守様、井伊掃部頭様、御手前様、そのほか御老中、若年寄だった。

警護は井伊様、御当家(榊原家)だった。

1月9日、雪が少々降った。

1月10日 雨

一、原田権之進様付は

石倉利喜蔵、川合半蔵

一、村上休兵衛様付は

赤井宇太吉

一、久代勘右衛門様付は

村井逸八郎

一、山川甚兵衛様付は

滝野岩三郎

一、村上市蔵様付は

森山源次郎

一、今井新左衛門様付は

米村武平治、赤井貞八郎

この通り物頭によって配置が決められた。

1月11日 快晴

殿様五ツ時(8時頃)供揃のあと登城された。

1月12日 快晴 御触れの写し

     御名

大阪へ到着された際に、大手門の外まで人数を率いて格別な注意を払い警衛を行うことは誠に結構なことであった このことを皆に伝えるようにとの指示があった

正月十一日       両物頭

つづく

こばん店長
こばん店長

次は家茂さんが伏見奉行屋敷に入るよ~