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2026年の朝ドラ主人公として注目されている大関和(おおぜき ちか)は「日本で最初の看護婦」と呼ばれています。彼女の人生や功績をやさしくゆる~く紹介します。さらに彼女は新潟県上越市に赴任したこともあり、旅行で立ち寄りたい「お土産屋さん」も紹介するので歴史散歩気分で楽しんでください。
大関和は、江戸時代の終わりごろ(1858年)に黒羽藩(栃木県大田原市)の家老の次女として生まれます。しかし、日本は江戸時代から明治時代(1868年)へと大きな時代の変化があり人々の生活が変わったときでした。そして和も明治になると一家で東京に移り住みます。
黒羽藩の次席家老の渡辺家の次男(福之進)と一緒になり、一男一女をもうけますが、福之進には妾がいて問題解決には至らなかったことから離婚して実家に戻ることになりました。

結婚する前から妾(しょう)はいたみたい・・子供も

なんですってー

妾とは別れることが条件で一緒になったみたいだけど約束は守られなかったんだね~

離婚して実家に戻った彼女は牧師である植村正久と出会い、そこでキリスト教の「博愛精神」に深く感銘を受けたようです。そしてその植村から看護婦になることを勧められ、1886年に桜井女学校付属看護婦養成所に第一期生として入学します。
実習先の帝国大学医科大学第一医院でアグネス・ヴェッチ(イギリスの看護婦)からナイチンゲール式の(掃除の徹底・衣服や布団を清潔に保つこと・換気などの感染症対策)看護教育を受けます。そして、この実習先で*瀬尾原始と出会います。1888年に卒業して看護婦の資格を取得しました。

瀬尾原始
1861年 新潟県上越市北城町に生まれる。高田藩士 菅沼長明の二男だったが、幼少期に瀬尾家(高田藩医)の養子となる。英語やドイツ語を学んだ後、1887年に帝国大学医学部に入学。
大学を卒業後、大学院に進み外科学を専攻 その後帝国大学外科に勤務中(看護婦養成所掛に就任) 実習生の大関和を指導
1889年 岡山第三高等中学医学部 教諭 兼 岡山県病院外科医長 就任
1891年 岡山から高田へ戻り、養父 玄弘が創設した知命堂病院の院長に就任 大関和と再会
産婆看護婦養成所創設、日本赤十字社看護婦長会高田支部設立、初代高田医師会会長、初代上越総合医師会会長など医学教育、地域医療、社会事業など幅広い活動を行った。
1930年 死去(69歳)

瀬尾さん、大関和さんの「ゆかりの地巡り」お土産はこちらから~
彼女は卒業後、帝国大学医科大学第一医院外科(東大医学部付属病院)の看護婦長となります。そこで二年間勤務した後、高田女学校(*現高田北城高校)に舎監兼キリスト教の伝道師として赴任します。
*現在の高田北城高校・・新潟県上越市北城町2丁目8-1 (大関和がいた頃は武蔵野酒造の近く)
武蔵野酒造・・新潟県上越市西城4丁目7-46

1891年 高田(現 上越市)で瀬尾原始と再会し、瀬尾から知命堂病院の看護婦長就任を懇願され初代看護婦長となります。
在職中に院長である瀬尾の二男が気管支炎で呼吸困難に陥った際に人工呼吸措置を行ったり、院長婦人である瀬尾ソノが腸チフスに感染したときには、70日間献身的な看護をして回復したことでも知られています。
1894年には*知命堂病院 産婆看護婦養成所を創設 地域医療に貢献し優秀な人材を育てました。
*知命堂病院・・新潟県上越市西城町3丁目6-31
1896年 桜井女学校時代の恩師の看病のために東京に戻ります。東京に戻った彼女は東京看護婦会講習所の指導講師となり、1901年には東京看護婦会会頭となりました。
1907年 体調を崩した和は病気療養のため那須湯本(栃木県)に逗留します。1908年「実地看護法」など刊行するなど看護婦の重要性を周知させるための普及にも尽力しました。1909年 大関看護婦講習所を開設し看護婦を養成しました。

1911年 大日本看護婦協会東京組合長に就任
1932年5月 74歳で生涯を閉じます。彼女は看護婦たちの働く環境を良くし、社会的な地位を高めるために努力を続けた人生でした。現在では看護師は国家資格として広く知られていますが、その土台を作った一人が大関和でした。

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大関和ゆかりの地「知命堂病院」は、えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン高田駅から高田城に向かってまっすぐに歩いてくるとあります。
