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父 藤原為時
母 藤原為信の娘(歌人)
日本最古の長編小説*「源氏物語」を書いた才女といわれています。
夫の宣孝が亡くなると、気を紛らわすために源氏物語を書き始めます。
その後、藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子に宮仕えします。
*源氏物語
54帖からなる物語は、美しく才能のある光源氏が主人公として登場し、華やかな生活や多数の女性との恋愛模様、宮廷内での出来事、その中でも現代と変わらない複雑な人間関係などが細かく書かれた作品で、1000年以上経っても色褪せることのない物語です。
973年頃 父、藤原為時の娘として京で生まれます。 母は藤原為信の娘(歌人)
藤原為時
中国の学問を研究する漢学者
歌人としても有名で皇太子時代の花山天皇の教育係を務めていました
974年頃 紫式部が2歳のころ母が亡くなります
980年頃 父の為時が弟(兄という説もあり)惟規(のぶのり)に『史紀』を教えている際に隣室で聞いていた紫式部のほうが先に覚えてしまい父は「この子が男子であったら相当出世したのに・・」といって悔しがった といわれています(紫式部8歳)
984年 花山天皇即位 父 為時は式部丞(人事部)という役職につきます。
986年 花山天皇退位 一条天皇即位(7歳)父 為時式部丞を辞めます(天皇が代わると役人も交代したため)。
*『寛和の変』の政変があり、紫式部の父も失職してしまいます。
花山天皇
986年 *『寛和の変』花山天皇(19歳)出家事件が起こり、これによって藤原兼家の娘 詮子が生んだ一条天皇が即位することになり藤原兼家の一族が実権を握ります。
この年は、飢饉や災害が多発、花山天皇の姉が亡くなり、その後寵后が亡くなってしまうなど花山天皇の周囲で悲しいことが相次いでおきてしまいました。これにより出家したいと願うようになったといわれています。
なぜ天皇が出家することになったのか?
花山天皇は改革派の天皇で新施策を打ち出すなどしました。それは荘園の増加を取り締まるものなど上流貴族には反発が強いものでした。
また、近臣は身分関係なく花山天皇の東宮時代に側近くにいた貴族で固められていたことも上流貴族たちには受け入れられず、花山天皇譲位といった動きに繋がっていきました。
藤原兼家の息子である道兼(道長の兄)が花山天皇を寺へ連れ出し出家へと導いたといわれています。このとき、道兼はともに出家すると誓って連れていきましたが、天皇を寺に残したまま帰ってしまいました。
花山天皇の出家の儀式のあと、兼家はすぐに孫である一条天皇(7歳)を即位させました。
994年頃 紫式部の姉が病気で亡くなります。母親代わりだった姉が亡くなってしまいひどくショックをうけたようです。
996年頃 父 為時越前守に任命され、その父について越前(現在の福井県)に移りました。(24歳)
為時は漢詩で*申文を書いて朝廷に思いを訴えました。そのときの漢詩が見事だったため、大国の越前守に任命されました
*申文 官位が下位の位にいる人が上位の位にいる人に自分の願いを書いた自己を推薦する手紙
998年 京へ戻り藤原宣孝(40代なかば)と結婚します。(紫式部26歳)藤原宣孝とは20歳ちかく年が離れていたといわれ、宣孝にはすでに妻も妾も大勢いました。
999年 紫式部は賢子を出産します(27歳)
999年11月 藤原道長の娘である彰子(11歳)が一条天皇のもとに入内しました。紫式部はこの彰子に仕えることになります。
1000年 彰子が中宮になりました。皇后定子が亡くなります。
1001年 結婚してから3年で、夫 宣孝が病気で亡くなってしまいます。
気を紛らわせるために物語を書き始めました。それが『源氏物語』です。紫式部29歳のときでした。
その源氏物語の桐壺帝と桐壺の更衣のモデルとは誰だったのかについてはこちらから
1007年 道長の娘 彰子に宮仕えに出ます。紫式部は35歳でした。
父 藤原為時の「藤」と為時が式部省で働いていたので、「藤式部」と呼ばれました。
彰子に宮仕えをはじめてから、学問や知識があることで周囲から嫉妬されてしまいます。人間関係が嫌になった紫式部は実家に帰ることにしました。
しかし彰子から手紙が届き内裏に戻ることになりますが、以前のように目立つことはしないで控えめに過ごしたらしいです。(漢字が読めるのに読めないフリをしたり、道長から頼まれた大役を他の人にゆずったりして目立たないようにしました)
1008年 源氏物語が完成します。紫式部日記を書き始めたといわれています。
この紫式部日記には、清少納言のこと、和泉式部のこと、赤染衛門のことについても書かれています。
清少納言について 自信たっぷりで、偉そうな態度だけどよくみると漢字は間違っている箇所がたくさんある、といっています。
紫式部と清少納言の確執についてはこちらから
赤染衛門について とてもいい歌を詠まれていて尊敬
和泉式部について 男性関係が派手で感心できない 文才はあり感性も豊かだけど知識が足りないのが残念
・・など、清少納言と同じくらい毒舌だったようです。
清少納言ってどんな人?はこちらから
1010年 紫式部日記を書き終えたといわれています。
1011年 父 為時が越後守(新潟県)に任命され赴任しますが、その際 紫式部の弟の惟規(のぶのり)が同行します。ところが長旅で病になり越後で亡くなってしまいました。
1014年 父は越後から京に戻ります。紫式部はこのころ宮仕えをやめたといわれています。紫式部42歳のときです。
1019年頃までは生存していたといわれています。紫式部47歳です。
福井県越前市 紫式部公園 紫式部像
以上 ゆる~い紫式部さんの歴史年表でした