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平安時代中期は藤原氏が政治の中心となり、紫式部や清少納言がいたころには、藤原氏の中でも権力争いが激しい時代でした。
藤原氏は自分の娘を帝の正妃にし皇子を産ませて、のちにその皇子が即位すると帝の祖父となり摂政、関白の地位を手に入れて政治の実権を握っていました。これを摂関政治といい、藤原氏は摂関家とよばれていました。
990年 定子もそのために 父 藤原道隆(一族)の威信を背負って14歳のときに3歳年下の一条天皇に中宮として入内しました。
一条天皇は文学を好み、性格は穏やかで風流人といわれ、定子も美しく教養があったといわれており、二人はとても仲が良かったようです。
このような時代でしたので、政治的な思惑から天皇を娘のいる後宮に通わせるために有能な才女とよばれる女房(宮仕えをしてお世話をする女性)をたくさん雇い華やかなサロンをつくりました。
そのサロンには帝だけではなく、男性貴族も集まり交流の場となっていました。
優秀な女房がいて華やかなサロンには帝が通ってくる回数も増え、次期東宮(皇太子)が生まれる可能性が高まります。
それで定子には 清少納言が仕え、彰子には紫式部、和泉式部、赤染衛門などがそのサロンを彩りました。
995年 関白であった藤原道隆が病気で亡くなると、道隆の弟の道兼が関白を継ぎましたが、わずか数日で亡くなってしまいました(流行病)
藤原道長
藤原兼家の五男として生まれますが、兄である関白の道隆が亡くなり、道兼(兄)も亡くなると、道隆の息子の伊周と権力争いが起こります。
道長は姉の詮子(一条天皇の母)に働きかけ、策略家の道長がその争いに勝利します。
中宮だった定子が皇子を出産すると、すぐに娘の彰子を帝に入内させ強引に中宮にしてしまいました。
その後 孫の敦成親王が即位して後一条天皇となり、敦良(あつなが)親王が立坊(御朱雀天皇)すると絶対的な権力を掌握することになります。
道長が詠んだ歌
この世をば わが世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしと思へば
(この世はまるでわたしのためにあるようだ それは満月が欠けているところがないのと同じでわたしは満ちているから)とやや傲慢な歌を詠んだことで有名です。
996年 権力争いに敗れ自暴自棄気味になっていた定子の兄 藤原伊周が花山法皇に弓を引く事件が起きてしまいます。
これにより、伊周は大宰府(福岡県)に流され、弟の隆家は出雲(島根県)に流されることになり、当時懐妊中だった定子は出家して仏門に入ってしまいます。
ほんのわずかの間に、関白である父が亡くなり、兄たちとは離れ離れになり、その後実家が全焼し、定子の母(貴子)も亡くなり、定子は華やかな宮廷生活から一変した寂しい境遇になってしまうのです。
しかし一条天皇は出産後に定子を還俗させ(仏門から戻ること)再び参内させました。異例であったといわれています。
997年 定子が中宮に戻りました。
一条天皇の母、詮子が病気平癒祈願のため大赦が行われ、兄 伊周、隆家が罪をゆるされ京に戻ります。しかし世はすでに道長の時代になっていました。
999年 定子が第二子(敦康親王)を出産すると、焦った道長はまだ12歳の娘、彰子を入内させます。
1000年 彰子は中宮となり、定子は皇后となります。
道長は本来 中宮、皇后は同じ意味のものを別々のものにして、定子の力を弱めるために皇后という立場にして自分の娘の彰子を中宮にしました。
一人の天皇に対し、皇后と中宮が並ぶという不自然な状態にしてしまったのです。
12月 一条天皇と定子の間に子供が生まれましたが、その出産と同時に定子は命を落としてしまいます。定子は24歳でした。
定子の葬儀には道長の権勢を恐れ貴族は参加せず、近親者のみでひっそりと行われ、皇后の位にあった定子の葬儀とは思えないような寂しさだったといいます。
一条天皇と定子がモデルだった?!『源氏物語』の桐壺帝と桐壺更衣のモデルとは?!はこちらから
清少納言の悲しみは深く、定子が亡くなると静かに宮中から退出したとされ、摂津守 藤原棟世(むねよ)と再婚して摂津に移り住みました。
清少納言の晩年は、定子が葬られている鳥辺野の近くに住んで菩提を弔っていたと伝わります。
表向きは華やかにみえる宮廷ですが、道長の強引なやり方によって、定子の子である一の宮は東宮になることはありませんでした。清少納言と紫式部は実際には会ったことはないといわれていますが、立場としては政治的にライバルの関係でした。
1001年頃 紫式部は『源氏物語』を書き始めました。
この源氏物語の『光源氏』のモデルってどちら様?
どうも一人ではないみたいで、源融さんとか、藤原道長さんとか、一条天皇と定子さんの御子である敦康親王とか、在原業平さんとか・・・他多数
紫式部は父為時などから宮中のことやいろいろな人の情報を聞いて少しづつ自分でイメージをして光源氏を作り上げたのではないかといわれています。
1007年頃 紫式部が中宮彰子に宮仕えを始めます。道長の強引な誘いによるものだったようです。
これは文学が好きな一条天皇が源氏物語を読むために彰子のもとに通うようにするための道長の思惑からでした。
1008年 源氏物語が完成しました。
あの超大作をあっという間に書きあげました
1008年 道長の娘 彰子が敦成(あつひら)親王を出産します。のちの後一条天皇です。
1009年 彰子が敦良(あつなが)親王を出産します。のちの御朱雀天皇です。
1010年 定子の兄の伊周(37歳)が、二人の娘と定子の子である敦康親王の身を案じながら亡くなります。
伊周の子どもたち
長女は道長の次男である藤原頼宗の正室 次女は彰子に出仕
嫡男の道雅は当子内親王と恋に落ちてしまいましたが、二人の身分差(伊周の失脚により没落)と道長の政敵であった家であることから、父の三条院が激怒して二人の仲を引き裂いてしまいます。
当子内親王は悲しみのあまり落飾し、その後22歳の若さで亡くなってしまいました。自暴自棄になった道雅は乱行を繰り返すなどして人々からは(悪三位)といわれました。
1011年 一条天皇が亡くなります。
1014年頃 紫式部は宮仕えをやめたといわれています。
1016年 敦成(あつひら)親王が即位して、後一条天皇になり、道長が摂政になりました。
1017年 道長は息子の頼通(よりみち)に摂政の位をゆずり、道長は太政大臣になりました。
1028年 道長が62歳で亡くなります。糖尿病だったといわれています。
966年頃 清少納言生まれる
990年頃 定子が中宮になる
993年頃 28歳で清少納言は定子(一条天皇の中宮)に宮仕えする
清少納言の簡単なエピソードはこちらから
清少納言
父 清原元輔 曽祖父 清原深養父(ふかやぶ)は百人一首に選ばれるほど有名な歌人だった
性格は明るくて勝気な性格、また、社交的だったといわれている
*世界最古の随筆『枕草子』の中では、いわゆる「毒」をはいている?・・思ったことを素直に書いてしまう性格の持ち主
例
① 紫式部と清少納言は実際に会ったことはないとされ、清少納言の書いた『枕草子』で紫式部の夫の悪口(結婚前に)を実名で書いたことから紫式部が敵視していたといわれている
書いた内容は、
藤原宣孝という人は蔵王権現(修験道の聖地)に参拝する際に派手で悪趣味な服装で行くので山ですれ違う人もあきれ返ったとか(枕草子より)
② お坊さんの説教は美男子だと尊い感じがして真剣に聞くけれど、そうでない場合集中できない(枕草子より)など他多数
*随筆 思ったことや見たことなどを自由に書いたエッセイ
973年頃 紫式部生まれる
1000年頃 彰子が中宮になる
1007年頃 35歳で紫式部は彰子(一条天皇の中宮)に宮仕えする
紫式部の簡単な歴史年表はこちらから
紫式部
父 藤原為時 中国の文学に詳しい
母 藤原為信の娘
夫宣孝が亡くなり、この頃から源氏物語を書き始めたとされている(1001年頃)、ものすごいスピードで源氏物語を書き上げる(完成したのが1008年頃)
『更級日記』を書いた菅原孝標女(すがわらのたかすえ むすめ)は日記におばから源氏物語54巻全てをプレゼントされ、嬉しくて1日中読んで暗記してしまったほどだといわれている
紫式部の性格はおとなしく、少々陰気なところあり
例
① 和泉式部については文の才能がありおもしろいけれど知識が足りない 学は必要よ(紫式部日記より)
② 清少納言という人は知識や漢字が書けることを鼻にかけているが、よくみると間違っている箇所も多い 自分は人とは違うと思っていたり、寂しくて辛い時に細かなことにいちいち感動して、感性が豊であるようにふるまっていると この先いいことはない(紫式部日記より)
怖いものを見てしまった
1000年前の日記が残るのもすごいことだね~
たぶん1000年後に見られるとは思ってないよね~
実際に清少納言も誰も見ないから好きなことが書けるといっているようです。清少納言と紫式部も1000年経った今でも読まれているとは思わなかったのではないでしょうか。
和泉式部
父 大江雅致(まさむね)、母は平保衡(やすひら)娘のもとに生まれました。(976年頃生まれたといわれています)娘には歌人の小式部内侍がいます。
敦道親王との恋愛を書いた『和泉式部日記』が有名です。日記の中では140首以上の和歌を贈りあっており、二人の心情の変化などがわかります。また、日記の中では二人の恋愛に敦道親王の正妃が激怒して家を出て行った話などなかなか波乱があったと窺える記述もあります。
恋多き女性として知られ、藤原道長からは「浮かれ女」と評されたほどでした。
父の雅致が冷泉天皇の后、昌子に仕える役人で、母は昌子の乳母だったので、和泉式部は若いころから華やかな後宮にいたといわれています。
20歳くらいのときに20歳くらい年上の橘道貞と結婚し、女子を出産(小式部内侍)しています。道貞が和泉守だったので『和泉式部』とよばれるようになります。
その数年後に冷泉天皇の皇子為尊親王(ためたかしんのう)に見初められ恋に落ちましたが、彼女は結婚していたので、世間から非難をされます。(その後夫と離婚)
しかし、1002年 為尊親王は26歳で流行病によって亡くなってしまいました。
為尊親王を亡くして悲しんでいるところに、弟の敦道親王がやってきました。この親王も和泉式部と恋に落ちます。
この敦道親王と新たな恋のはじまりを書いたのが『和泉式部日記』です。
敦道親王には妻がいましたが、和泉式部を侍女といって屋敷に迎え入れたため妻は怒って屋敷を出て行ってしまったという話もあります。
しかし、1007年 敦道親王は27歳のとき病気で亡くなってしまいました。
この和泉式部が紫式部と赤染衛門とともに道長の娘の中宮彰子に仕えることになります。
その後、丹後守となった藤原保昌と再婚し、赴任先に一緒に行ったらしいのですが離婚したともいわれています。
最後まで恋多き女性でした。
たしかに
以上 中宮定子と彰子に仕えた清少納言と紫式部は政治的にライバル関係だった?!でした~