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父 清原元輔(後撰和歌集の選者を務めました)曾祖父清原深養父(ふかやぶ)と清少納言は3人とも百人一首に選ばれる歌人です。
966年頃 清少納言が生まれました。
969年 父の元輔は河内(大阪府南東部)権守に任命されたため、清少納言も河内に移ります。
974年 父が周防(山口県)守に任命されたため、周防に移ります。
978年 周防から京へ戻りました。
981年 橘則光と結婚(清少納言が16歳のころでした)
しかし橘則光という人は無骨者(無風流)といわれた人で清少納言とは合わなかったといわれています。
982年 則長(息子)が生まれました。
986年 父が肥後(熊本県)守に任命されました。
990年 父が肥後で亡くなります。父83歳、清少納言は25歳でした。
991年 夫 則光と離婚します。(26歳)
993年 中宮定子に宮仕えをします。このときに定子をみて、この世にこんな美しい人がいるのかと驚いたといいます。
清少納言は定子の兄、伊周を大変美男子と書いていますが・・・。じつはかなり太っていて狭い通路に挟まったことがあり、かなりの肥満体だったようです。
やがて、定子の父が亡くなり藤原道長と兄の伊周の権力争いがはじまると、道長派の人と親しかった清少納言は、定子の女房(侍女)たちから無視されるといったイジメにあってしまいました。
イジメをうけたことで実家に帰って閉じこもり、雑記を書きました。これが『枕草子』です。
このときに訪ねてきた源経房が、書きかけの枕草子を持ち出して世に広めたといわれています。
1000年 定子が亡くなります。
1001年 宮仕えを辞め藤原棟世と再婚しますがかなりの年の差婚だったといわれています(小馬命婦が生まれます)
このころ『枕草子』がほぼ完成しました。
1025年頃に亡くなったといわれています(清少納言60歳)
春はあけぼの(春といえば明け方)
やうやうしろく(だんだん夜が明けていって)
なりゆく山ぎは(山ぎわの空が)
すこしあかりて(すこし明るくなって)
紫だちたる雲のほそく(紫色っぽい雲が細く)
たなびきたる(ただよっているのが素晴らしい)
『枕草子』この春はあけぼの~・・・は、教科書にも載っていましたが、このように美しい自然の情景を書いたものだけではないということをご存じでしたか?例えば・・
お坊さんが美男子ならば説教をありがたく聞いて集中することができるけど、そうでない場合集中なんかできないわ~こんな本音を書いたら罰があたりそうだからやめておこう・・・歳をとると仏様の罰が気になるの(清少納言談)
枕草子ってそんなことが書かれているの?!
素直なエッセイ集で面白いんだよ~
忙しいときにきて長話をする人っているのよね~ 気の置けない人(友達)なら「またあとで」っていえるけど、身分の高い相手の場合そうもいかないので憎たらしい~(清少納言談)
その他にも、
硯の中に髪の毛が入って擦ってしまうとき
墨の中に石が入っていて擦ると嫌な音を立てたとき
年を取ったいい大人が両足で火鉢を挟んでしゃべりながら火鉢を動かす様は不愉快で呆れちゃう(清少納言談)
まだまだあります
他人をうらやんで自分の愚痴ばっかり話したり、人の噂話ばかりする人
また、ちょっとしたことを知りたがったり、それを教えてあげないと、勝手に恨んで悪口を言う人は嫌ね
話をしている人を遮って得意気に自分の話を始めてしまっている人は年齢関係なく不愉快ね(清少納言談)
戸の開け閉めが乱暴な人とか戸を開けて閉めない人
こういう人は不愉快だわ~(清少納言談)
女性は結婚して子供を産んで家庭を守るなんていうのは立派だとは思うけど女性ってそれだけなのかな?
女性だって社会に出て世の中のしくみを知った方がいいと思うけど(清少納言談)
と、平安時代にいっていた女性でした。
清少納言は宮廷で働く内侍に強い憧れをもっていたみたいだよ
内侍?
*内侍 内侍司(役所)に勤め帝の側近くに仕える女官のこと
定子の母 高階貴子(たかしなのきし)は平安時代の女流歌人として知られています。高階成忠(学者)の娘で身分は高くありませんでしたが、漢詩の才能があり円融天皇に仕え高内侍(こうのないし)と呼ばれるようになります。その後身分の差を超えて 藤原道隆の妻となります。
清少納言にとって高階貴子のキャリアは憧れの的だったのではないでしょうか。
働いている女性はちょっと・・・という男性がいるけど分かっていないな、と思う(清少納言談)
当時女性は親や兄弟、夫にしか顔を見られないのですが、宮仕えをしていると、天皇、殿上人その他いろいろな階級の人間とかかわり仕事をします。そのために男性からは「奥ゆかしさ」が足りないといわれ、宮中などで働く女性は男性から敬遠されがちでした。
それも分かるけど、宮仕えの経験があってテキパキと動ける奥様っていうのもかっこいいとおもうの(清少納言談)
宮中にいる男子は特に美人と評判の女子を選ぶべきなの。それなのにどうして女性から見ても?!美人じゃない子を選ぶのか意味が分からない(清少納言談)
美人で字もうまくて完璧な女性なのにその子が出した手紙もほったらかして、その子が泣いていても他の美人じゃない子のところへ行っていたりするから不愉快 身内の人はもっと不愉快よね
男は女の悩みを分からないものなのね(清少納言談)
舅にほめられる婿
姑に可愛がられる嫁
友情が最後まで続くこと
主人の悪口をいわない者
男女の仲がつづく・・・
少しの欠点もなく完璧な心をもつ人
同居中、最後まで自分の隙を見せず礼儀正しく振舞うこと
存在しないわね
賢そうではない子が親に甘やかされているとき(清少納言談)
近所に住んでいる子が、いつもなら散らかしたり壊したりすると叱られると思って大人しくしているけれど、親が近くにいた場合、好き勝手に動き回り、「あれな~に~?」といいながら家じゅうを探し回り騒ぐこと。
親は大人しくしていなさいね~というだけ 大人しくさせる気がないので困るわ
親がいるから怒れないし・・物を壊されないかハラハラしちゃう(清少納言談)
外見もあまりよくなくて、性格も悪かったらすくいようがないわね
ちょっといいすぎたかしら・・でも誰も見ないしね・・・・(清少納言談)
清少納言は『枕草子』を人に見せるつもりで書いたものではなく、思いがけずに世に出てしまったといっています。
というのも、源経房が勝手に持ち出したことから世に広まってしまったので、にくきもの(イライラするもの)、うつくしきもの(かわいらしいもの)、すさまじきもの(残念なもの)など思ったことが素直に書いてあります。
世の中に出すつもりならもう少し穏やかな随筆になっていたかもしれません。
1000年も昔に書かれたものですが、ものすごい毒舌に驚いた方も多いのではないでしょうか・もしかしたら清少納言と共感ポイントが一緒という方もいらっしゃるかもしれません。
香炉峰の雪
雪が積もったある日のこと。寒いから昼なのに御格子を下ろして女房達が雑談していると、定子様が「少納言(清少納言)香炉峰の雪はどんなでしょう?」とおっしゃいました。
清少納言は中宮定子のこの謎かけにピーンときて、御格子を上げて御簾を高く巻き上げたところ、中宮定子はにっこりと微笑んだとのエピソードがあります。
少納言、正解よ
中国の詩人白居易の一節
香炉峰の雪は簾をかかげて見るという一節があり、漢詩に詳しい定子が清少納言に謎かけをしてそれに見事に応えたというエピソードです。
頭の中将の藤原斉信が清少納言の悪い噂を信じてしまい周囲の人に悪口をいいまくるようになりました。
清少納言はいつか誤解が解けると笑い飛ばしていましたが、斉信が清涼殿のあたりを通る際に袖で顔を隠して清少納言の姿を見ないようにして通り過ぎるなどして無視していました。
清少納言のほうも知らん顔して過ごしていましたが、しばらくしてから、藤原斉信が「少納言と話をしないとやはり寂しい 手紙でも出そうかな・・」と周囲の人に言っているらしいと人から聞いたけど放っておきました。
ある夜、中宮定子の部屋で(定子はすでに休んでいました)女房仲間で雑談をしていると庶務係の主殿司(とのもずかさ)がやってきて、「頭の中将から手紙を預かってきました 今すぐにお返事をください」
う~ん 手紙はあとから読むわ~
主殿司に下がるようにいって部屋に戻り雑談していたら、さきほどの主殿司が「お返事がないなら、手紙を返してもらってこい とのことです」といいにきました。
青い薄紙に「蘭省花時錦帳下」と書いてあって続けて「この下の句はどう続ける?お返事を」と書いてありました。
白楽天の詩
「蘭省花時錦帳下」(蘭省の花の時、錦のとばりのもと)
あなたたちは都の宮殿で天子の御側近くで華やいだ生活をしているが、、、に続く下の句は
「廬山雨夜草庵中」(わたしは山の中の粗末な庵で雨に濡れています)
先ほどの主殿司が早く早くと催促するので、火鉢の消え炭で「草の庵を誰かたずねむ」と書いて渡しましたが返事はかえってきませんでした。
草の庵を誰かたずねむ
清少納言は、ただ詩の後にいかにも知っています「廬山雨夜草庵中」(わたしは山の中の粗末な庵で雨に濡れています)と書かずに、和風にして草の庵を誰かたずねむ(粗末な小屋に誰が来るのでしょう?)と火鉢の消え炭(粗末な小屋を消え炭で表現)で書いて渡しました。
翌朝、*源の中将(宣方)が来て言うには、頭の中将の宿直所にみんなが集まって雑談していたら、「少納言と絶交したけど、むこうは知らん顔をしていて、それがまた気になるから今日はこの関係にけりをつけてしまおうと思う」ということでみんなで考えて出した手紙だったといいました。
頭の中将が清少納言からの返事をみて、「やはり少納言はすごい だからこそ無視できないんだ」と興奮気味に話したとのことで、これに返事を出そうとみんなで考えたけれど、とうとう上の句が思いつかなかったようです。(清少納言は下句を書いたので斉信に上句の課題を出しました)
みんなが清少納言の返事を褒め称えたらしく、源の中将は「少納言、あなたの名前はこれからは草の庵ということになりました」といって帰っていきました。
草の庵(粗末な小屋)といわれても嬉しくないわよ~
清少納言の句、草の庵を誰かたずねむは殿上人の間で大流行したようでみんな扇に書いていたそうです。また、藤原斉信とは絶交状態を解消できたようです。
*源中将宣方・・この時はお互いに仲が良かったのですが、この後 弘徽殿の女御に仕える侍女と交際していることを知った清少納言が宣方をたしなめたことから、宣方は激怒して二人は絶交してしまったといいます。
藤原斉信もそうですが清少納言は政治的に藤原道長派の人たちとのお付き合いがあり、そのことが原因で女房仲間たちから「少納言は道長のスパイ」といわれ、無視をされてしまいました。
藤原斉信は長徳の変で定子の兄弟たちが左遷された事件の日に参議に昇進したといった人で、道長に事件を密告したのは斉信ではないかといわれています。
藤原行成も清少納言と親しかった道長派の一人でした。行成は平安時代中期を代表する文化人の一人とされ、一条天皇の信頼が厚く、側近く仕えて私的な業務も行っていました。
彰子を中宮にして定子を皇后にすることや、定子の子である一の宮(敦康親王)ではなく、彰子の子である敦成親王を立坊することを進言したりしました。
源経房は、安和の変で失脚した源高明の子で清少納言の書いた『枕草子』を無理やり借りて世に広めた人物として知られ、道長の猶子で妹は道長の妻になっています(道長の正妻は倫子)
経房は中立の立場といわれており、道長の猶子でしたが、道隆派(定子の父)の人達との交流もあり、定子の兄弟の隆家に敦康親王を託されたりしています。
清少納言が道長派と仲が良すぎたため道長と通じているとの噂があり、同僚の女房たちに無視されるという不愉快な思いをしたので里に帰っていました。
定子から「早く参りなさい」との手紙が届きます。
参りなさい(早くもどってきてね)
定子から何回も「参りなさい」といわれましたが、清少納言は女房仲間からされた不愉快な態度にイライラして家に帰って閉じこもっていました。
定子から清少納言のもとに手紙が届きました。そして白い紙二十帖も送られてきました。
その2日後、高麗べりの畳が届きました。
定子様・・・・・・・・(感涙)
清少納言はもう何もかも捨てて人生を投げ出したいと思ったときでも上等な白い紙と高麗べりの畳さえあれば大丈夫!といった話を定子のサロンでしていて、それを定子が覚えていてくれたことに感動したようです。
そのうち手紙が届かなくなり不安に思っていたところ、定子の使いの者がきて、手紙を渡されました。
手紙の中に一枚の花びらが入っていました。花びらには文字が書いてあり、
いはでおもふぞ
と、定子の直筆で書かれていました。
古今和歌六帖
心には下行く水のわき返り 言はで思ふぞ言ふにまされり
私のこころの奥底には水がわき返るような思いがあり その思いは口には出さないけれど(清少納言を)つよく思っていますよ
この手紙が届くと、
定子様 すぐ参上いたします
清少納言はそれから定子のもとに戻って再び仕えだしました。
長いお休みのあと定子のもとに戻りましたが、清少納言がそわそわして几帳の陰に隠れていると、「あれは新参の者かしら?」と定子がからかって微笑まれたそうです。
以上 清少納言さんをゆる~く紹介しました
なんとなくゆる~く分かった