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平安時代に紫式部が書いたもので、優秀で美しく光輝くような主人公の光源氏が華やかな宮廷生活をおくる中で、女性たちとの恋愛模様や陰謀が渦巻く政治の世界、その後栄華を極めた末の寂しい晩年など様々な場面を細かく書いた、世界でもっとも古い恋愛長編小説のことです。
光源氏の母は身分が低く更衣(桐壺更衣)でした。(帝のたくさんいる妃の中で、一番上の位が中宮、一番下の位が更衣です)
身分の高くない桐壺更衣が桐壺帝の寵愛を一身に受けたため他の女性たちのうらみをかってしまいます。
桐壺更衣はだんだん病気がちになり実家に帰ってしまいます。そんな桐壺更衣を桐壺帝はますます寵愛します。
桐壺更衣は光源氏を生んだあとで亡くなってしまい桐壺帝は嘆き悲しみます。その後桐壺更衣が生んだ光源氏が皇位争いに巻き込まれないように家臣という立場にさせます。
990年 藤原道隆の娘 定子が一条天皇の中宮になりました。定子が14歳で一条天皇が11歳のときでした。
定子は才色兼備の女性であったといわれ、一条天皇の寵愛を一身に受けました。しかし、人々は世が乱れる原因をつくった*楊貴妃のようだと非難しだしました。
*楊貴妃
中国の玄宗皇帝の妃で寵愛しすぎたために国を傾かせてしまったという傾国の美女で世界三大美人の一人です。
定子の父である関白の藤原道隆が995年に43歳で急に亡くなってしまい、定子は強大な後ろ盾をなくしてしまいました(お酒の飲みすぎが原因だといわれています)。
その後996年『長徳の変』が起こり定子は宮中を退出することになります。
長徳の変
定子の兄弟 伊周がお気に入りの女性である三の君のもとに花山法皇が通っていると勘違いして弟の隆家に相談しました。その隆家が法皇に弓を引くという事件がおこります。また、真言密教の呪術を行うなど数々の問題を起こしてしまい伊周と隆家は左遷されることになります
出産のために二条の邸にいた定子のもとに兄弟が逃げ込んできますが、定子の目の前で検非違使に逮捕されてしまいました。
定子はショックのあまりその場で自分の髪を切り出家して仏門に入ります。定子が出家してしまったという報告を聞いた一条天皇もショックを受けたといわれています。
997年 定子は第一子脩子(しゅうし)内親王を出産しました。
一条天皇は定子を還俗(仏門から戻すこと)させ再び参内させました。定子は中宮に戻ります。
999年 一条天皇と定子の第一皇子 敦康親王が誕生します。
1000年 媄子(びし)内親王を生んで翌日に亡くなってしまいます。定子24歳でした。最愛の后が亡くなり、一条天皇は嘆き悲しんだといわれています。
あれ?どこかで聞いたような・・・
桐壺帝から寵愛される桐壺更衣が一条天皇からの寵愛を一身に受けた定子さんとそっくりなの。
しかも1001年に紫式部は『源氏物語』を書き始めたといわれています
定子の父であった関白藤原道隆が亡くなり(995年)、兄たちが逮捕された(996年)ために定子には有力な後ろ盾となる人がいませんでした。定子が第一皇子(敦康親王)を生みましたが、後ろ盾を失った親王は天皇にはなれませんでした。
源氏物語では・・・
桐壺更衣(身分が高くない)が生んだ光源氏は天皇にはなれませんでした。
定子の子、敦康親王は・・・
道隆(祖父、995年没)、両親の一条天皇(1011年没)、定子が亡くなり(1000年没)、伊周(定子の兄弟、1010年没)もいなくなり、敦康親王は天皇にはなれず失意のまま21歳のとき病気で亡くなってしまいました。
①身分の高くない桐壺更衣が桐壺帝の寵愛を一身に受けました
↓
没落してしまった定子が一条天皇の寵愛を一身に受けました
②桐壺更衣はだんだん病気がちになり実家に帰ってしまいます。そんな桐壺更衣を桐壺帝はますます寵愛します。
↓
定子は出産のために実家の二条邸に帰りますが、兄弟たちが起こした事件により出家してしまいます。そんな定子を一条天皇はますます寵愛します(還俗までさせ参内させます)
③桐壺更衣は光源氏を生んだ後亡くなってしまいます。桐壺帝は嘆き悲しみます。
↓
定子は媄子内親王を生んだあと亡くなってしまいます。一条天皇は嘆き悲しみ、亡くなるまで定子を思い続けていたといわれています。
一条天皇と定子さんの境遇に似ているよね~
うんうん
1009年 彰子が敦良親王を生みましたが、一条天皇は病がちになります。
1011年 病に倒れた一条天皇は病気の重さを認識するようになります。急ぎ後継者(東宮)を指名しなければならなくなりました。これは争いごとを避けるために決めておかなければならないことでした。
一条天皇は定子が生んだ敦康親王を望みましたが、道長が賛成するとは思えず、藤原行成と相談して敦康親王の身の安全のために後継から外し、道長の娘彰子が生んだ敦成(あつひら)親王(後一条天皇)を皇太子とすることに決めたといわれています。
道長さんが何をするか心配だったらしくて・・・
道長さんは何をするの?
たとえば、廃后(定子)、廃親王(敦康親王)に追い込んで・・・その後不審な・・・・・
ぶるぶるぶるぶる
一条天皇は最後まで定子の生んだ敦康親王の立坊を望んでいたらしく、道長はそれに対して焦りがありました。
もし、娘の彰子が生んだ敦成親王が立坊せず、定子の生んだ一の宮敦康親王が立坊・即位した場合、定子の兄弟である藤原伊周の嫡男の道雅、弟の隆家が外戚となれば、道長の力は弱まるからです。
また、敦康親王が立坊・即位中に道長の寿命が尽きてしまう場合もこの時代はあり得ます。そうなれば兄の藤原道隆が亡くなったあと家が没落していく様を見ているので、道長としてはどんな手段を使っても彰子の生んだ敦成親王を立坊させようとしました。
1011年 一条天皇が32歳で亡くなります。
定子が亡くなったあと、彰子が敦康親王を養育していました。(定子の妹が養育していましたが、亡くなってしまったためです)
彰子は敦康親王を東宮にするべく大切に育ててきましたが、父道長は敦成親王(後一条天皇)を東宮にしてしまいました。これに彰子は父である道長に対し相当キレたらしいです。道長は敦康親王を彰子に養育させ面倒をみていましたが、孫の敦成(あつひら)親王たちが生まれると態度が変わってしまいました。
一条天皇が亡くなるとすぐに冷泉帝の皇子である居貞親王が即位し、東宮は敦成親王になりました。
居貞親王(三条帝)には道長の娘の妍子が入内していましたが、道長との関係はあまりよくなかったようで、道長は策略を巡らせて帝を譲位するように追い込んでいきます。
その結果、三条帝は皇子の敦明親王を東宮にすることを条件に譲位し、敦成親王(後一条天皇)が即位しました。しかし、東宮に三条帝の皇子敦明親王が立ちましたが、道長の圧力によって東宮位を返上します。
これにより東宮位には彰子の生んだ敦良(あつなが)親王が立坊(御朱雀天皇)することになりました。ここで道長は最大の権力を握り、宴で有名な望月の歌を詠んだといわれています。
煙とも 雲ともならぬ 身なれども 若葉の露を それとながめよ(定子の歌)
定子は火葬ではなく土葬を選択したので、煙にも雲にもならない身ですが、若葉の露をわたしだと思って眺めてくださいという意味
露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき(一条天皇の辞世の句)
*露の身 はかない命のこと(源氏物語では光源氏と紫の上の別れの場面でもどちらの歌にも露が入っています)
*塵を出でぬる 出家すること
ざっくりと解釈すると、君をこの世に残していってしまうことが心残りです・・・
あれ?定子さんはすでに亡くなっているよね~
この時代は女性は業が深いために成仏ができないという考えだったみたい・・・・
えっ・・・・?
また、出家していないと極楽浄土にいけないと考えられていて、定子はお産後に急に亡くなっているので成仏できず、まだこの世にいると考えられていたようです。
辞世の句では『君』は誰を指すのか、解釈は分かれているようですが、一条天皇が後継問題についても相談していて 最も信頼していたといわれる藤原行成が、日記『権記』には主上は定子のことを思い詠っていると書かれています。
また、一条天皇の辞世の句が定子が詠んだ歌の返歌ではないかともいわれています。しかし、藤原道長は『君』というのは娘の彰子のことだ、と思ったらしいです。
うん、定子さんだね
答えがあるわけではないので想像です