高田藩士が書いた上洛日記とは?!

文久3年、将軍徳川家茂が上洛することになり徳川四天王の一人、榊原家(榊原政敬)が御先手を勤めることになりました。この上洛日記とは、政敬に従い上洛した高田藩士が書いた日記です。文久3年12月に上洛することになった様子から元治元年7月に高田(上越市)に帰って来るまでを記したものです。

この高田藩士は京都で竹澤万治のこま見物に良く出かけていたようです。その後明治になり万治は高田(現上越市)へ来ていたようですが、高田で興行後に新潟に向かう船が暴風雨にあってしまい・・

  

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高田(上越市)~新井宿(妙高市)編

12月4日 当番より書付をもって御雇を仰せ付けられたので、さっそく御物頭の原田権之進様の御宅へご挨拶に参り、名前を書いてお目見えした。

54人火急に江戸表へ罷り越すように仰せ付けられ、また、きたる8日までに着くようにと仰せ付けられ一同当惑した。

と、日記には書かれていて、とにかく急いで江戸に着くように、ということだったようですが、高田(現 上越市)~江戸までは約290kmあり、1日40km歩いても7日以上かかります。5日に出発しても8日に江戸に到着するのは到底無理です。

いよいよ高田から旅がはじまるようですが・・

  


新井宿~江戸編

この高田藩士は、12月5日に高田を出発して、新井宿に午後6時頃に到着したようです。その後夜の11時30分くらいにみんなが集まったと書かれています。旅のメンバーは・・

  


東海道・神奈川宿~四日市宿

    

神奈川・大磯・小田原を通り箱根の関所まできました。この箱根の関所というのは、東海道を監視する重要な役割を担い、旅人が通る際には様々な検査をしなければならない場所でした。が、なんと関所でトラブルが発生して・・。