幕末に越後高田藩士が書いた「ぼくの上洛日記」とは?!

この記事には広告を含む場合があります。

記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。

  

この日記というのは、「文久四甲子歳正月御上洛并御先登御供詰中并道中日留帳」という長~い名前の日記で、1863年に上洛(京都に行くこと)したことが書かれたものです。

  

アダム
アダム

簡単にいうと?

    

こばん店長
こばん店長

高田から京都へ行って帰ってきた旅日記

    

アダム
アダム

分かりやすい

      

  

こばん店長
こばん店長

ちなみに、越後高田藩とは現在の新潟県上越市にあったよ~

    

高田藩の幕末の頃は徳川四天王の一人榊原家が治めていました。

  


榊原家は代々 徳川の先陣

  

文久3年(1863年)12月5日、家茂の上洛に際して榊原家(榊原政敬)が御先登を勤めることになり再び将軍の御供を仰せ付られました(徳川四天王の中の一人、榊原家は初代から代々将軍徳川家の『お先手』です)

  

アダム
アダム

御先登ってな~に~?

      

  

こばん店長
こばん店長

先陣 徳川四天王、榊原家の初代 榊原康政さんから代々徳川の先陣なんだよ~

    

    

アダム
アダム

この文章を簡単にいうと?

  

   

こばん店長
こばん店長

また家茂さんが京都に行くから榊原家が先陣頼むね~ という感じ

    

  

アダム
アダム

めっちゃ分かりやすい

  

日記は、家茂に供奉し上洛(京都に行くこと)した際の高田藩士の道中記で、当ブログでは「ぼくの上洛日記」としています。    

   

こばん店長
こばん店長

供奉とはお供のことだよ~

   

  

こばん店長
こばん店長

家茂さんが京都に行くことになって、殿が先陣をするので、殿について京都に行って帰ってくるまでの日記で、ブログでは「ぼくの上洛日記」というよ~

  

  

文久3年12月に京(上洛)に行くことになったところからはじまり、元治元年7月に高田(現新潟県上越市)に帰って来るまでのことが書かれています。また、この高田藩士はその後に起きる戊辰戦争のことも書いており、その日記も残っています。

  

  


1863年12月、なぜ徳川家茂が上洛するのか?理由をゆるく説明

  

1863年 幕末の動乱期、将軍徳川家茂が朝廷から攘夷を迫られ上洛をすることになります。

  

アダム
アダム

よく大河ドラマとかで攘夷!とかいってるよね

    

  

こばん店長
こばん店長

いってる いってる~

  

  

アダム
アダム

攘夷ってなに?

  

  

こばん店長
こばん店長

夷敵(いてき、野蛮な外国人・・開国派のひとたちも)を討ち鎖国すること

  

   

アダム
アダム

討たないで、話し合おう・・

  

野蛮な、というのはアメリカ大統領の国書を持ってやってきたペリーが強硬な態度で開国を求め、できない場合、江戸を大砲で攻撃すると脅してきたからです。

  

  

アダム
アダム

ま~

   

幕府側は外国の軍事力には到底かなわないことを知っていたので、鎖国をやめて開国して外国と貿易・交流をして国力をつけるという判断をしました。

   

  

1856年にアメリカの外交官ハリスが日本にやってきて幕府に日米修好通商条約の締結を迫り、幕府側は朝廷に勅許をもらうことを思いつきます。

  

  

なぜなら、勅許があれば開国に反対している人たちも納得すると考えたからでした。

 

  

しかし、朝廷側は日本を外国から守るべきで開国反対!攘夷の立場でした。そしてときの天皇であった孝明天皇は大の外国嫌いであったため勅許は得られなかったのです。

     

  

幕府は朝廷と外国との間で板挟みとなってしまいますが、条約の締結を延ばしに延ばした結果ハリスの顔はどんどん険しくなっていき、これ以上先に延ばすのは難しくなってしまいました。

  

  

ペリー来航から明治維新までがものすごく分かりにくいのでゆるっとまとめました。

  

  

そしてこれ以上待てない、軍艦を連れてくるぞとなったときに、勅許がないまま大老の井伊直弼が日米修好通商条約に調印します。

  

  

これによって反幕感情が高まり「攘夷!」と叫んでテロ行為が横行する幕末の本当の動乱が始まってしまうのです。

   

  

ではなぜ家茂が上洛したのかというと、幕府が朝廷に対し攘夷決行の約束をしましたが、いつまで待っても約束が果たされないので朝廷が家茂を京都に呼びつけたのでした。

  

アダム
アダム

簡単にお願い

    

    

こばん店長
こばん店長

ちょっと家茂さん、外国人を討ち払い鎖国するって約束したのにいつ実行するの?(怒)ちょっと京都に来てお話きかせてね(怒)・・・・って感じかな~

  

家茂の上洛には、朝廷は攘夷決行を幕府に求めるという目的があり、幕府は京都での尊王攘夷の動きを封じるという目的がありました。

  

  

この家茂の上洛は、3代徳川家光以来229年ぶりに将軍の上洛が行われました。14代将軍家茂は生涯3回上洛しましたが、この日記は2回目のときのものです。

  

    


古文書を翻刻して→添削→現代語訳

「ぼくの上洛日記」は、高田藩士が上洛したときの古文書を翻刻して、学芸員さんに添削していただき、自分で訳したものをブログに書いているものです。

  

  

古文書辞典を使い一文字一文字調べながら翻刻したものですので、旅に出るまでものすごく時間がかかってしまいました。

  

  

ただいま、ものすごくお忙しいという学芸員さんのご協力を得て翻刻している最中で、まだ最後のページまで翻刻文が完成していません。

  

  

しかし、解読できたところから少しづつですが、ブログに書き綴っていきたいと思います。

  

  

更新速度はゆっくりになると思いますが、 どうか旅の最後までお付き合いください。

       


高田藩士は伊庭八郎と同じ場所にいたかも?!

幕臣で有名な剣の達人、伊庭八郎をご存じでしょうか。

  

  

その八郎が書いた日記というのが、驚くことにこの高田藩士と同じ時期に同じ場所で将軍警護で京都に滞在していたときに書かれたものでした。山村竜也氏がその日記を現代語訳したもので、「幕末武士の京都グルメ日記」という本があります。

  

  

あの混乱している時代の京都で観光していたり、美味しいものを食べたりと、日々の生活を記したほのぼのとした日記となっています。

  

  

しかし「ぼくの上洛日記」を書いた高田藩士も八郎と同じくあちらこちらと観光している様子が書かれ、芝居見物までしていたようです。

  

  

幕末の京都は殺伐とした雰囲気だと思っていましたが、実際の京都では普通の生活があったのだと思わせられる日記です。 

  

  

幕末武士の京都グルメ日記(山村竜也氏著)と併せて「ぼくの上洛日記」を読んでいただくとより深くこの時代が楽しめると思います。 

     

  


高田藩士は竹澤万治のこま見物が大好きだった

軽業師 竹澤万治が好きだったようで、京都でこの方の「こま」を何回も見物していたようです。何回も通うほど面白かったのでしょうか。

  

  

この万治を調べていると、明治の時代に高田(現上越市)に来ていたらしく、興行を行ったようです(同一人物なのか不明)。なんでも、高田で興行後に船で新潟に向かう際に、乗っている人の中で亡くなってしまった方もいたほどの暴風雨にあったそうです。

  

  

万治の命は助かったようですが、興行に使用していた道具類は全て流されてしまったそうです。

  

  

高田に戻り兼ねてより贔屓だったお客に助けてもらった・・といわれているので、もしかしたら1864年に上洛した高田藩士の方なのか?それとも前年に上洛した藩士なのか?この上洛日記の作者だったりするのか?全然関係のない高田のお客さんなのか?など想像すると楽しくなる日記です。  

  

  

この日記を読んで、家に居ながら高田藩士たちと一緒に旅を楽しんでいただければ嬉しく思います。

  

  

それではそろそろ旅のはじまりです。

  

  

いよいよ次のページから旅が始まります。