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「ぼくの上洛日記」へようこそ。
当ブログの「ぼくの上洛日記」は、高田藩士が上洛したときの古文書を翻刻して、学芸員さんに添削していただき、自分で訳したものをブログに書いているものです。
古文書辞典を使い一文字一文字調べながら翻刻したものですので、旅に出るまでものすごく時間がかかってしまいました。
ただいま、ものすごくお忙しいという学芸員さんの御協力を得て翻刻している最中で、まだ最後のページまで翻刻文が完成していません。
しかし、解読できたところから少しづつですが、ブログに書き綴っていきたいと思います。
更新速度はゆっくりになると思いますが、 どうか旅の最後までお付き合いください。
1863年に3代将軍家光以来229年ぶりに将軍の上洛が行われました。
第14代将軍家茂は生涯3回上洛しましたが、この日記は2回目の1864年のときのものです。
家茂がなぜ上洛しなければならなかったのか についてはこちらをご覧ください
家茂の上洛には、朝廷は攘夷決行を幕府に求めるという目的があり、幕府は京都での尊王攘夷の動きを封じるという目的がありました。
1864年といえば、池田屋事件や禁門の変などがあり、京が殺伐とした雰囲気でつつまれていた時期でした。
文久3年(1863年)12月5日、家茂の上洛に際して榊原家が御先登を勤めることになり再び将軍の御供を仰せ付られました(徳川四天王の中の一人、榊原家は初代から代々将軍徳川家の『お先手』です)
この日記は、家茂に供奉し上洛した際の高田藩士の道中記で、当ブログでは「ぼくの上洛日記」としています。
文久3年12月に京(上洛)に行くことになったところからはじまり、元治元年7月に高田(現上越市)に帰って来るまでのことが書かれています。また、この高田藩士はその後に起きる戊辰戦争のことも書いており、その日記も残っています。
幕臣で有名な剣の達人、伊庭八郎をご存じでしょうか。その八郎が書いた日記というのが、驚くことにこの高田藩士と同じ時期に同じ場所で将軍警護で京都に滞在していたときに書かれたものでした。山村竜也氏がその日記を現代語訳したもので、「幕末武士の京都グルメ日記」という本があります。
あの混乱している時代の京都で観光していたり、美味しいものを食べたりと、日々の生活を記したほのぼのとした日記となっています。
しかし「ぼくの上洛日記」を書いた高田藩士も八郎と同じくあちらこちらと観光している様子が書かれ、芝居見物までしていたようです。幕末の京都は殺伐とした雰囲気だと思っていましたが、実際の京都では普通の生活があったのだと思わせられる日記です。
幕末武士の京都グルメ日記(山村竜也氏著)と併せて「ぼくの上洛日記」を読んでいただくとより深くこの時代が楽しめると思います。
軽業師 竹澤万治が好きだったようで、京都でこの方の「こま」を何回も見物していたようです。何回も通うほど面白かったのでしょうか。
この万治を調べていると、明治の時代に高田(現上越市)に来ていたらしく、興行を行ったようです(同一人物なのか不明)。なんでも、高田で興行後に船で新潟に向かう際に、乗っている人の中で亡くなってしまった方もいたほどの暴風雨にあったそうです。
万治の命は助かったようですが、興行に使用していた道具類は全て流されてしまったそうです。高田に戻り兼ねてより贔屓だったお客に助けてもらった・・といわれているので、もしかしたら1864年に上洛した高田藩士の方なのか?それとも前年に上洛した藩士なのか?この上洛日記の作者だったりするのか?全然関係のない高田のお客さんなのか?など想像すると楽しくなる日記です。
この日記を読んで、家に居ながら高田藩士たちと一緒に旅を楽しんでいただければ嬉しく思います。
それではそろそろ旅のはじまりです。
いよいよ次のページから旅が始まります。