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「徳川家茂2度目の上洛、大坂城を出発し伏見奉行屋敷へ その6」の続きです。

古文書初心者が読んでいるので、読み間違いがあるかもしれません。お許しください。
将軍家茂が二度目の上洛のため、12月27日に江戸を出発して、1月8日に大坂に到着しました。そして14日 大阪城を出発し、15日に二条城に入った日の(越後高田藩士の書いた)日記です。
上様は、昼九ツ時(11時50分くらい)に二条城に御入城された
殿様(榊原政敬)は、大手口へお出迎えになり、すぐに登城してご機嫌伺いに参られた
この”殿様”というのは、越後高田藩主 榊原政敬のことで徳川四天王である榊原康政から数えて14代目の殿様になります。

家茂は1月15日 朝7時頃 伏見を出発し、昼の12時くらいに二条城に入りました。

榊原政敬は将軍を二条城まで御先登して大手口で出迎えたあとに登城しました。
総人数はお城の両横固め(警備) だった
(家茂の)御入城が済んだので御供廻りも入っていった
高田藩は二条城の両横通りを警備しました。
家茂の御供の人達も入城が済んだので入っていったようです。
九ツ半(13時くらい)に松原通り因幡薬師御本陣へ着いた

高田藩の本陣は因幡薬師さんだったのね~

一、松原通り俊成町 御本陣 前 島屋太次郎方へ下宿を仰せつけられた
その割り当ては、
神岡市右衛門、今井桂次郎、杉谷佐市、井上源次、萩野休左衛門、太田次郎兵衛、秋山文治、米村武平治、八田又右衛門、八田啓蔵、光野八十吉、赤井貞八郎、外2、3人 の15人で、御物頭隊に鉄砲15挺づつ
同(1月)16日 雨 暁六ツ半時(7時10分頃)殿様、御供揃のため御登城された
九ツ時(11時50分頃)に御帰館された
一、朝五ツ時(8時頃)清水観音堂へ参詣 音羽の瀧があった

朝の8時ころに清水寺へ参詣にいったようです。音羽の滝があったと書いてありますが、特に感想はありません。
この音羽の滝は三本あって、御利益がそれぞれ違うらしく、正面からみて左は「学業成就」、真ん中が「恋愛成就」、右側が「延命長寿」といわれ、この中から一つを選び、一口だけ飲みます。三つ選んですべて飲んでしまうと、全部の願いが叶わなくなるといわれています。

お水飲んだのかな・・・
同(1月)17日 八ツ時分(夜中2時頃) 雪が少々降った
朝四ツ時(10時くらい)から本圀寺へ参詣しに行った
清正公の御廟所を拝礼した
両本願寺に参詣した
本圀寺は京都市山科区にある日蓮宗の大本山の寺を参詣し、清正の廟所を拝礼したようです。
戦国武将の加藤清正といえば、熱心な日蓮宗の外護者として知られ、本圀寺は清正の縁の寺として知られています。
ちなみに、榊原家2代藩主 康勝の正室「古屋姫」は加藤清正の娘で、非常に夫婦仲が良かったといわれています。

本圀寺を参詣し、そのあと両本願寺を参詣したようです。
同18日 天気 朝五ツ(8時ころ)御供揃をして その後殿様は水野和泉守様のところにおいでになり、四ツ時(10時ころ)御帰還された
殿様(榊原政敬)が、水野和泉守のところに行ったとありますが、老中 水野忠精のことで、榊原政敬(高田藩14代藩主)の叔父の政愛(13代藩主)の正室が水野忠精の妹(もしくは姉)という関係性がありました。
同日 お触れの写し
このたびの上洛・先登について皆に申し付けておく
條目の儀(箇条書きになっている法律)と条々(一つ一つの規則)を読んで厳守すること
しかし、長い道のりの旅で、なおかつ長期間京にいると、心の緩みが生じ
これを取り締まらずにいると、とくに、諸藩が入り交じっている京都においては、大切な勤め先(将軍がいて、天皇がいる大切な場所)で、振る舞いなど評判に関わる
このことをそれぞれ十分に理解して心に留めておくこと
再度不注意なことがあれば、とりわけ気を配るように
万一、不審なことがあった場合には、すぐに申し出ること
大老 中老より かねがね申聞かされた
正月
この仰せ(命令)は、心得違いをしている者がいてはならないので、
物主供が、全員承知するように、心得違いのないようによく申聞かせるように 以上
正月17日 両物頭

幕末の藩士ってこんなお触れ書きが出ていたんだね~

幕末の京都って全国からいろんな藩士たちが来ていたから”しっかりしてね”ってことでいいのかな?

誰に聞いているのさ
次は1月19日の日記から始まります。どんどん京都観光の様子が増えてくる日記になっていきます。