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14代将軍 徳川家茂に供奉し上洛した際の高田藩士の道中記で、当ブログでは、「ぼくの上洛日記」としています。
家茂が上洛するにあたり、徳川四天王である榊原家が御先登を勤めることになりました。
これは、榊原政敬に従い上洛したある高田藩士が書いた上洛日記です。
日記は、文久3年12月に京に行くことになったところからはじまり、元治元年7月に高田(現上越市)に帰って来るまでのことが書かれています。
虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています
訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります
時間に関しては江戸時代の時刻換算サイトを使用(不定時法)しています
翻刻文の縦書きを横書きにして訳しています
同(12月)15日 雪が少々降った。江戸表を出立して夜に神奈川 新岡屋方に泊まった。里数は七里(28km)だった。
同(12月)16日 天気 大磯宿 鈴木屋方へ宿泊 里数九里半九丁(約39km)
1里が約4kmで、半だから約2kmと1丁が109mだから・・・981mほど
ぜんぶで約39kmだね~
同(12月)17日 曇天 小田原宿 柳屋由蔵方に宿泊 里数四里也(16km)
大磯宿から小田原宿は16km
箱根関所
東海道を監視するために設置された重要な関所で、旅人が通る際には様々な検査を得なければ通過することができませんでした。
神奈川県足柄下郡箱根町箱根1番地
一、箱根関所証文印鑑に不備があったため、同宿より神岡市右衛門、高橋定治の2人が早駕籠で江戸上屋敷まで戻った。
あら、大変 江戸まで戻るの?!
小田原宿から箱根の関所まで17kmで、小田原宿まで引き返したんだから17km、、
それだけでも大変~
江戸表~神奈川 新岡屋 28km
神奈川 新岡屋~大磯宿 鈴木屋 39km
大磯宿 鈴木屋~小田原 柳屋 16km
小田原から江戸まで83kmだ・・
早駕籠の時速は6kmくらいなんだって
83kmを早駕籠が時速6kmの場合は、・・
83kmは片道だから、往復すると・・
往復すると166km、約28時間くらいかかるね~
右 ↑ につき翌日の18日も同宿に逗留した。
同(12月)19日 曇天 昼九ツ過ぎ(お昼の12時ころ)両人(神岡市右衛門、高橋定治)が帰ってきたのですぐさま出立した。雪が降っていた。
箱根の関所証文印鑑に不備があり、神岡市右衛門と高橋定治の二人は早駕籠で江戸の上屋敷まで戻ります。 小田原宿から江戸の上屋敷までの距離は83km、往復で166kmを早駕籠で走り続けたと思われるので大変だったと思います。
到着してすぐに出立って大変だったね
腰が痛かっただろうね~
箱根宿 大村屋傳兵衛方へ宿泊した。里数四里八丁(約16.9km)
無事に箱根を通過できたんだね~
箱根八里八丁の峠なり
箱根八里?里数は四里だけど・・
小田原から難所である箱根、そして三島宿までの道のりを箱根八里と呼んでいたみたい
でもまだ三島宿に着いていないよね~
その夜、弐尺ほどの雪が降り積もった。翌朝 出立のときには大吹雪でとても難渋した。
弐尺~?
1尺が30.3cm 弐尺は60.6cm
結構積もったんじゃない?!
雪国育ちでも大吹雪で大変だったみたいだね~
同(12月)20日 雪 吉原宿 山田屋彦五郎方に宿泊 里数十里六丁(約40.7km)
同(12月)21日天気 府中 河内屋惣兵衛方に宿泊 里数十里也(40km)
同(12月)22日 同断(天気)日坂宿 川坂屋治右衛門方に宿泊 里数十里十一丁(約41.2km)
同(12月)23日 同断(天気)浜松宿 鶴屋清兵衛方に宿泊 里数九里半廿六丁(約40.8km)
同(12月)24日 同断(天気)赤坂宿 若狭屋清右衛門方に宿泊 里数十里半廿五丁(約44.7km)
同(12月)25日 風 宮宿 竹中屋源兵衛方に宿泊 里数十二里七丁(約48.8km)
同(12月)26日 雪降り 同宿逗留 節分だった。
12月で節分?
旧暦の立春らしいよ~
右 ↑ の訳は桑名七里舟渡しが雪荒れのために出なかったので逗留となった。
七里の渡し
宮宿(愛知県名古屋市)と桑名宿(三重県桑名市)までの東海道で唯一の海路のことで、距離が7里(約28km)であったことからこう呼ばれています
七里の舟渡しって雪のために船が出なかったんだね~
雪荒れってあるから天候が悪かったんだね
同(12月)27日 天気 四日市宿 白木屋長左衛門方に宿泊 十里八丁(約40.9km)
次は土山宿からだよ~
つづく