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榊原康政といえば、徳川四天王として知られ、初代館林藩主となった人物です。その正室のお墓がどこにあるか分からないといった不思議なことが起きています。

康政さんの正室のお墓がない問題についてだけど・・

このことは、榊原家の中でもミステリ~といわれているらしいよ~

たしかにミステリー

それが不思議な話で江戸時代から すでに行方不明なんだって

すっごくミステリ~

康政さんの正室である 大須賀康高さんの娘のお墓はどこ?!
康政の正室は大須賀康高の娘ですが、長男(忠政)を 母親の実家である大須賀家へ養子に出しています。


康政さんの長男を養子に出すくらい大須賀さんは大事だったんだね
大須賀康高は康政とともに数多くの戦で戦功をあげる武将でした。
1581年 忠政(康政長男)が生まれ、1589年に大須賀康高が亡くなると養子になり大須賀家を継承しています。
1604年 康政次男の忠長(19歳)が亡くなります。
1606年 榊原康政が亡くなったため(59歳)側室である花房氏の子で 三男の康勝(17歳)が家督相続しました。
1607年 大須賀忠政(康政長男 27歳)が亡くなったため、長男の忠次(3歳)が家督相続して大須賀家を継承しています。
しかし、1615年 5月27日、花房氏の息子である2代藩主 康勝は大阪の陣の帰還途中で突然腫物の悪化により京都片原で亡くなります。(享年26歳)

康政さんの跡を継いだ 2代藩主の康勝さんが急に亡くなってしまいました
そして康勝の正室 古屋(加藤清正娘)には子がいなかったので(古屋の侍女が産んだ子がいましたが、幼かったことが関係してか 家老たちによって秘匿されてしまいました)廃絶の危機に陥りました。
大須賀家へ養子に出ていた大須賀忠政の長男、忠次を榊原家へ戻し榊原家を継承させることにしました。(大須賀家は廃絶)


家康さんと秀忠さんが、榊原家を廃絶させるわけにはいかない との理由から異例の措置をとったみたいだよ
ところで、このように息子や孫たちは分かりますが、大須賀康高の娘がいつどこで亡くなったのか、まったく分かっていません。
康政には側室に花房氏がおり、2代藩主 康勝の生母となっています。花房氏は系譜関係は不明となっていますが、花房職之(宇喜多秀家の家臣)と系譜関係があるのでは・・・?とされています。

この花房氏って人も謎

いろいろな説があるよね

一応、花房職之の妹と推定されているんだけどね

へ~
康政は館林市善導寺に葬られましたが、あるのは側室である花房氏の藩主康政とほぼ同じ大きさの宝篋印塔で、正室の墓がありません。
1649年に榊原家は姫路に移封となっています。
花房氏の没年は1653年ですので姫路で亡くなり当時姫路藩主であった忠次によって善導寺の康政の側近くに墓所を建立したとみられています。(調査によると遺骨が僅かしか残っていなかったので分骨ではないかといわれています)
1722年 に姫路藩主であった榊原政祐が善導寺に康政の正室について 問い合わせたところ、没年も墓所も分からなかったために、家譜に康政と同じ命日としたと記載されているらしく、江戸時代から正室の没年や墓が行方不明となっていることが分かります。
康政が館林に入封する前に亡くなっていた場合、実家である大須賀家の墓所にあるとも考えられますが、未だ墓所すら見つからないことから、意図的に隠された可能性も考えられます。
例えばキリシタンだった場合などです。徳川政権ではキリシタンを徹底的に排除し、キリスト教の禁止令まで出ていた時期ですので考えられなくはないと思います。
お辻伝説とは
榊原康政に お辻 という愛妾がいて康政の寵愛を一身に受けたため他の側室などから嫌がらせを受け、耐えかねたお辻は侍女であるお松と城沼に身を投げてしまいます。
それを悲しんだ康政がお辻を偲んでツツジを植えたそうです。
それが県立つつじが丘公園の始まりとなったといわれています。

この伝説のすごいところは康政さんの側室にいじめられて入水したっていっているところ

他の側室って花房氏のこと?

う~ん・・・・
この伝説のお辻と侍女のお松の墓所が群馬県館林の善長寺にあります。
まず、この伝説には 時代がはっきりとしないものから、年号まではっきりと分かるものまであります。
また、お辻が榊原康政の愛妾であるとするものから全然関係のない龍神伝説まで様々でした。(伝説だから当然ですが信憑性は低いことをご了承ください)
伝説の年号が分かる場合1605年~1610年の間に城沼に身を沈めたという説ですが、その場合、榊原康政と二代藩主である康勝の側室が該当します。
康政は1606年に59歳で館林で亡くなっています。
康政の三男である康勝が17歳で家督相続しました。
二代藩主康勝の正室は加藤清正の娘の古屋姫でした。仲の良さが窺えるような古屋姫宛ての手紙も残っています。
その康勝には側室(覚心院)がいましたが、詳しくは分かっていません。
二代藩主康勝の側室であった覚心院は勝政を産んだあとすぐに亡くなってしまっているらしいのですが、側室としか書かれていない資料も多く、情報がありません。
ちなみに覚心院が勝政を産んだのは1613年です。(1605年から1610年には該当しませんが年代が近いですね。)
康勝は1615年大阪の陣の直後に亡くなっています。
生まれたばかりの子であることと、正室である古屋姫(加藤清正の娘)の子ではなかったことなどから、養子に出ていた大須賀忠次が榊原家を継承することになり内部ではお家騒動が起きていました。
古屋姫についていた侍女が康勝の子(勝政)を生みましたが、康勝が亡くなるとお家騒動に巻き込まれるとの思いから実家である加藤家へ連れて逃げました。
幕府には康勝には子がいないと 家老たちは嘘の届け出をしていますが、古屋姫が再嫁することになった際に勝政の存在を幕府に届け出ました。
このことにより榊原の家老は処分されていますが、榊原家は秀忠からの神文もありましたから穏便に済まされたとのことです。
その後 加藤家は改易となったため、勝政は高野山に行って修行し、晩年は伯母の鶴子(池田利隆室)を頼り岡山にいたといわれています。
この勝政の孫が榊原家六代目の当主になっています。


素朴な疑問なんだけど・・

なんでしょう

榊原の皆さん、短期間に亡くなり過ぎじゃない・・かな・・
1604年 康政次男の忠長(19歳)が亡くなる
1606年 榊原康政が亡くなる(59歳)
1607年 大須賀忠政(康政長男 27歳)が亡くなる
1615年 2代藩主 康勝(花房氏の息子 26歳)が亡くなる
2代藩主 康勝の側室であった覚心院は勝政を産んだあとすぐに亡くなる

そして、康政さんの正室がいつ亡くなったか分からない・・と

お墓もない

不思議だ・・

名前も没年も、お墓まで分からないとなると隠してるよね~

隠す理由は何だったんだろう
榊原康政の正室の墓がないのは意図的に隠されたとする説が濃厚な気がします。
お家の重大な秘密を知ってしまったとか、敵と通じていたために命を奪われたといった場合でも墓所はあると思うのですが・・・。

康政さんの正室も謎だし(お墓どこ?)、花房氏も謎だし(系譜関係が謎)、お辻さんも謎(どちら様?)だし覚心院さんも謎だし(ほとんど情報がない)、ミステリ~

分からないことだらけだね

これはミステリーのまま?

解けていないからミステリーなんだよ~

誰か解いてください
今後の研究で何か発見があるかもしれません。

以上康政さんの正室のお墓がない?!でした
