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ゆる~い歴史年表だよ
榊神社 新潟県上越市大手町4-12
御祭神 藩祖 榊原康政公
神器 藩祖 *康政公着用の具足 刀剣
*茶糸素懸威黒塗桶側五枚胴具足・鉢巻型兜(康政公が初陣のときにつけていたもの)榊神社御神体
榊原氏 伊勢国(三重県津市)榊原町で発祥
榊原の名前の由来は、この地に榊が多く自生していて、その榊が伊勢神宮の祭祀に利用されたことから名付けられました。(榊が原→榊原)
榊原康政の5代前 仁木利長 の時代にこの地に城を構えて榊原の姓を名乗ったのが始まりといわれています。
榊原家はこの地に湯の神様(射山神社)を祀り大きな湯治場を造りました。
また、この地の榊を伊勢神宮に奉納しており伊勢神宮とは深い縁があったようです。
都から伊勢神宮を参拝するときは榊原の温泉に入り、湯ごりをして身を清めるのが正式な参拝だったようです。
その後 清長 の時代に三河国上野に移り榊原長政の次男として誕生したのが 康政 です。
小平太(康政)が大樹寺で勉学に励んでいたところ、桶狭間の戦い(1560年)で家康が大高城を出て引き上げてきたときに出会ったのではないかといわれています。
このとき小平太13歳、家康は18歳でした。
三河で一向一揆が起こる(1563年)
家臣の中にも本願寺派の門徒たちがたくさんおり、上野城の酒井忠尚が家康に反旗を翻すなど、家康(主君)か阿弥陀仏かの選択をせまられたのでした。
小平太は上野城攻めに参陣しており、これが初陣であったとされています。また、そのとき上野城には康政の兄である清政がいたといわれています。
お兄ちゃんがいる城を攻めなきゃならなかったんだね
戦国時代はそういったことが多いよね
徳川の家臣が分裂して戦った一揆は鎮静化して、和議により終わりました。
小平太から康政へ
矢作川の一番槍の功によって知行地を与えられます。
初陣後に元服した際に家康から一字を与えられ、康政となりました。
榊原さんの旗印って「無」なんだよ~。
ほうほう
意味は無欲無心の「無」という意味らしい
らしい?
史料がないから想像なんだって~
お人柄から考えると無欲無心であろう ということらしいの
なるほど
三河一向一揆の平定後
家康は旗本先手役に、大須賀康高(後に康政の舅)植村家存、鳥居元忠、本多忠勝、榊原康政としました。
康政に有力な与力が付属される
伊藤弥惣 伊奈源左衛門 中嶋右衛門作 中根善右衛門
遠江堀川城攻め(1568年)で先陣をつとめた際、一番に城中に攻め入り多くの敵を討ち城は落とせたのですが、生死をさまよう大けがをしてしまいます。
家康は康政の負傷を聞き邸宅に訪れたのですが、傷の程度をみて、
「もはやこの傷では助からないであろう」と思ったらしく、何か申したいことはあるか?(遺言はないか)と聞き、
康政は伊奈源左衛門と中嶋右衛門作の軍功を家康に伝え、家康は感状を与え領地も与えたといわれています。
家康の見舞いのあとに康政は奇跡的に回復します。
よくぞ御無事で~
掛川城攻め(1569年)今川氏真 対 武田・徳川
ようやく傷が癒えた康政はこの戦いで先手となって城を攻めています。
姉川の戦い(1570年)織田・徳川連合軍 対 朝倉義景の戦い
信長さんは、妹 (お市)の嫁ぎ先だった浅井長政に 裏切られてしまいました
あら大変・・
浅井・朝倉との戦い
両軍は姉川(滋賀県)で激突 織田軍は浅井軍に苦戦していました。康政は先頭を切って朝倉軍に凄まじい側面攻撃をしたのです。
これにより朝倉軍は総崩れとなり見方を勝利に導きました。このときに康政は負傷しています。
また、家臣の中嶋右衛門作は討たれてしまいます。
三方ヶ原の戦い(1572年)武田信玄が東三河に3万の大軍を率いて進軍してきました。康政は先鋒となり戦っています。
徳川軍は大敗を喫していますが、酒井忠次と榊原康政は横からの攻撃により武田軍を破っており武田軍に対し一矢報いています。
上杉謙信書状 榊原康政宛
越中帰陣已来者家康不申通
本意外候、内々旧冬至于信・甲雖
可及調儀候、味方中不相調、遂
越山候へ者、家康劬労(くろう)も不休候哉
味方中為可調、当春迄令延
引候、然処、関東之諸士何も属当方候
条、当十八令越山、於西上州可揚
放火候、被遁比時節候者、信・甲(信濃、甲斐)
不可有一切候間、信長江有諷諫、急
度被及手合、被付興亡候様二家康へ
諫言專一候、例式武田四郎計略
名之下二候間、不可過推察候、猶(なお)
巨細村源(村上国清)可演説候、恐々謹言
正月九日 謙信(花押)
榊原小平太殿
急度被及手合、被付興亡候様二家康へ諫言専一候
(勝頼と)戦に及んで勝負をつけなければなりません、このことを信長に伝えるようにと家康に諫言してください。
この書状は1574年正月 上杉謙信が関東に出陣し北条と戦うことになるので、北条と結んでいる武田勝頼の背後を信長と家康に牽制することを求めたものです。
書状のあて先は榊原康政となっており、徳川の中で越後の上杉謙信との交渉は康政が行っていたということになります。
康政は家康に取り次いで、2月に謙信が関東へ出陣したのに呼応して家康は駿河に兵を出しています。
康政くん、家康くんに伝えてねって感じかな?
うん。康政さんから家康さんへ、家康さんから信長さんへ伝えてねって感じ。
上杉謙信さんが 家康さんの家臣である康政さん宛てにお手紙を書いていた、というところが異例だといわれているよ(康政の外交能力がすごかったということ)
長篠の戦い・設楽原の戦い(1575年)
織田・徳川連合軍(3万8千) 対 武田勝頼(1万5千)
康政もこの戦いでは先手となって敵中に突っ込み攻撃をしています。
康政の家臣たちも討たれたり多数の負傷者が出たりしています。
村上弥右衛門、伊藤弥惣、伊奈源左衛門、富田三右衛門、榊原仁兵衛、鈴木半兵衛などが康政の周囲に付き従っていたといわれています。
康政の兄である清政は家康の長男である信康の近習であったため、気苦労が多かったのではないかと思われます。
そんなとき築山殿が武田勝頼と内通しているとして徳姫が父である信長に訴える事件が起き、その後二俣城に幽閉されていた信康は切腹となりました。
清政は信康が亡くなった後 弟の康政の屋敷で蟄居しましたが、家康の命により久能山東照宮城守将となり幕末まで代々総御門番を勤めています。
5月15日 家康と徳川四天王たちは安土城にいました。
また、堺で茶の湯の会などで今井宗久たちと交流し、6月2日 京都の本能寺へ向かうといったときでした。そこで織田信長が明智光秀に本能寺で討たれたことを知ったのです。
そのときに家康の周囲には少数の家臣しかいなかったので敵に見つかった場合全滅していましたが、なんとか堺から急ぎ三河へ帰ることができました。(伊賀を通らなかった説も有り)
武田氏が滅亡し、その旧臣たちを元服したばかりの 井伊直政に付属させたため(山県昌景の赤備え含む)康政が「直政と刺しちがえる」とまで言って忠次にものすごく怒られたという逸話があります。
井伊直政の出世は著しいものがあり、多くの人に妬まれたらしいのですが、本人(直政)もそのことを知ってか自分に対しても家臣に対しても非常に厳しかったといわれています。
武功だけではなく、政治の交渉能力にも優れた武将でしたから時間が経つにつれて直政の実力が認められるようになりました。
のちに康政と直政は非常に信頼しあっていたといわれています。
康政は旗印に「無」の一字を使用していて、無欲、無心で家康に仕えるという精神の武将でしたから、本多正信のように策謀を巡らせるような武将を嫌い、「あやつは腸が腐っておる」といったというエピソードがあります。
腸が腐るってすごく強いワードね
康政さんは腸が腐るという言葉がお好きだったみたいでよく使っているんだよね
本多正信は家康に仕えていましたが、三河一向一揆に加わったために家康のもとを離れ、加賀の一向一揆に加わったり、松永久秀に仕えていた などといわれています。
しかし再び家康のもとに戻り行政手腕を発揮して初期の徳川幕府を支えた重要な人物となります。
本能寺の変のあと、次男信雄と三男信孝で家督争いが起こります。
本能寺の変により信長と嫡子信忠が亡くなり、その後 秀吉がいち早く敵である光秀を討ったことにより、清州会議での発言力は強いものになりました。
それにより後継者は信忠の遺児三法師(三歳)に決まり、その名代を信雄としました。
秀吉は天下の実権を握るべく 三法師の後見という立場になり、信長の三男信孝を擁する織田家筆頭家老だった柴田勝家と賤ケ岳の戦いにおいて勝利しました。(信孝は案養院で切腹)
しかし、賤ケ岳の戦いのあとすぐ 信雄は秀吉に安土城を退去させられてしまい秀吉に反発するようになります。
信雄は徳川家康に協力を要請し、秀吉に通じていた三家老を処刑してしまいます。
これにより秀吉が激怒して挙兵、小牧長久手の戦いになります。
家康は信雄の応援要請をうけ、清州城にて信雄軍と合流しました。家康が清州城に入ると池田恒興は秀吉方に寝返り犬山城を占拠してしまいます。
森長可は羽黒に着陣しましたがこの動きを徳川方は知っており、酒井忠次の兵らの奇襲により森勢は敗走しました。
この敗北を聞き秀吉は大坂城を出発、信雄・家康との戦いのために尾張犬山城に入りました。
家康は康政に小牧山城の改修を命じ、わずか5日で 土塁や堀などの砦を築いたといわれています。
康政さんはお仕事が早いのです
1584年3月 家康は小牧山に本陣を構え、秀吉は楽田に陣を構えましたが両軍とも大きな動きはありませんでした。
秀吉 対 家康・織田信雄連合軍の戦いにおいて康政は秀吉側の士気を削ぐため檄文をしたためました。
内容は「信長公の君恩を忘れて信孝公ばかりか生母や娘までも亡き者にした。今また信雄公に兵を向け戦っている。その悪逆さはいうまでもない。これに従う者は義がないものである」というものでした。
また、立て札も書いてそこら中に何本も立てさせました。
これをみた秀吉は激怒して冷静さを失い兵を出してしまいました。(三河中入り)
また、康政の首に三万石(十万石の説も有り)の懸賞金をつけたといわれています。
三河中入り
小牧山に陣を敷いている家康に気付かれないように 背後にまわり徳川の本拠地三河を攻撃する作戦のこと
羽柴秀次の軍が白山林にて休息していたところ、大須賀康高、水野忠重らが急襲し、榊原康政の側面攻撃により秀次の軍は壊滅状態になりました。
その後 康政は家康の本体に加わり井伊直政勢、信雄勢らとともに池田恒興の軍を打ち破りました。
小牧長久手の戦は 織田信雄・徳川連合軍の勝利でしたが、秀吉と信雄が家康が知らぬ間に勝手に和睦してしまったので、家康は戦う大義名分を失い秀吉と和議を結ぶことになりました。
秀吉は家康を上洛させるために妹の旭姫をわざわざ離縁させて家康の正室にしています。
この和睦の使者として康政は上洛しています。これは秀吉からの指名であり、小牧・長久手の戦いの折に檄文を書いた康政との対面を希望したためだといわれています。
そこで秀吉に会い信任を得て、秀吉の妹の旭姫が家康に嫁ぐ際は道中警護をしています。
康政 従五位下式部大輔に叙任されます。
1589年 大須賀康高(康政の舅)が亡くなったため長男の忠政が大須賀家の養子になりました。
1590年 小田原征伐で秀吉軍に参戦しています。
康勝(二代藩主)が小田原で生まれました。(康政43歳)
康政は上野の国(群馬県)館林十万石を領しました。館林の初代藩主です。
豊臣秀吉が亡くなると、幼い秀頼の代わりに政務を五大老が取ることになり、その筆頭が徳川家康でした。
関東に転封していた康政ですが本多忠勝、井伊直政たちと交代で伏見の勤番を勤めていました。
上洛途中で 石田三成の不穏な動きを聞き、策を講じて いち早く家康のもとに馳せ参じました。
1600年 家康から康政に 会津の上杉景勝攻めに際し 南蛮胴具足を与えられています。
石田三成が上方で挙兵し、関ケ原の戦いとなります。
康政は秀忠(家康の三男)に従い中山道を西上しました。
秀忠は信濃国(長野県)上田城にいる真田昌幸を攻めましたが、この戦いと大雨による増水で結果として秀忠の軍(3万8千)が関ケ原の戦いに間に合わなくなりました。
家康からの手紙が雨のために遅れて届いたため、秀忠の出発が遅れたことも遅参の原因の一つであったといわれていますが、遅参したことが家康の逆鱗に触れることになります。
秀忠に謹慎を命じて会おうとはしなかったといわれています。
家臣の懸命の説得により対面を許したとか 榊原康政が腹を切る覚悟で家康に弁明にいき、対面がかなったため秀忠は非常に感謝したとか、また、そもそもわざと本隊を遅らせたなどいろいろな説があります。
このように様々な説がありますが実際はどうだったのでしょうか。
どうだったんでしょうか?
実際みてないし分からないよ~
歴史でそれを言う?
でもね、秀忠さんは康政さんのことをとても大切にしたということが分かるんだよ
この後関ケ原の論功行賞として水戸25万石の話があったのですが、康政は江戸で何かあったときに館林からならすぐに行くことができるが、水戸だとそれができないといって断ったそうです。
また、本多正信、正純父子の文治派と康政たち武功派が対立しましたが 老臣が権を争うのは天下大乱、亡国のもとである といって権力から遠ざかり終生、無欲無心の「無」の精神で家康に仕えました。
秀忠から康政に「反逆は別として他の不調法については長く見捨てはしない」といった神文が与えられました。
これがのちに榊原家を救うことになったといわれており、このことからも秀忠は康政に対して非常に感謝の気持ちを持っていたのだということが分かります。
まとめ
1592年から康政は秀忠に付いて補佐をしていました。
1600年の関ケ原の戦いにおいて秀忠が遅参したことに家康は激怒して会おうとはしなかったといわれています。
それを命懸けで家康をなだめ、ようやく秀忠は許されたといわれています。
そのことから徳川家のある限り子々孫々に至るまで(恩を)忘れることはないと秀忠から(神文)が与えられたと考えられています。
二代将軍秀忠から康政のもとに「その方の煩いは心もとなく候」といった病状を案ずる手紙が届いています。
其方煩無心
元候て 重而使
者を遣候 養
生無油断様二
專一候 委細
者大久保与一郎可
申候 謹言
八月六日 秀忠 花押
榊原式部太輔殿
1606年 秀忠に病状を案じられていましたが、榊原康政は館林にて59歳で亡くなります。
墓所は群馬県館林 善導寺境内にあります。
これは榊原家の中でもミステリ~といわれているらしいよ~
なんでないのかな?
それが、不思議な話で江戸時代から すでに行方不明なんだって
ミステリ~
康政さんの正室である 大須賀康高の娘さんのお墓はどこ?!
榊原康政の正室は大須賀康高の娘ですが、長男で生まれた子(忠政)を 母親の実家である大須賀家へ養子に出しています。
康政さんの長男を養子に出すくらい大須賀さんは大事だったんだね
大須賀康高は康政とともに数多くの戦で戦功をあげる武将でした。
1581年 忠政(康政長男)が生まれ、1589年に大須賀康高が亡くなると養子になり大須賀家を継承しています。
1604年 康政次男の忠長(19歳)が亡くなります。
1606年 榊原康政が亡くなったため(59歳)側室である花房氏の子で 三男の康勝(17歳)が家督相続しました。
1607年 大須賀忠政(康政長男 27歳)が亡くなったため、長男の忠次(3歳)が家督相続して大須賀家を継承しています。
しかし、1615年 5月27日、花房氏の息子である2代藩主 康勝は大阪の陣の帰還途中で突然腫物の悪化により京都片原で亡くなります。(享年26歳)
康政さんの跡を継いだ 2代藩主の康勝さんが急に亡くなってしまったんだよ
そして康勝の正室 古屋(加藤清正娘)には子がいなかったので(古屋の侍女が産んだ子がいましたが、幼かったことが関係してか 家老たちによって秘匿されてしまいました)廃絶の危機に陥りました。
家康、秀忠異例の措置で榊原家を継承させた
大須賀家へ養子に出ていた大須賀忠政の長男、忠次を榊原家へ戻し榊原家を継承させることにしました。(大須賀家は廃絶)
家康さんと秀忠さんが、榊原家を廃絶させるわけにはいかない との理由から異例の措置をとったみたいだよ
ところで、このように息子や孫たちは分かりますが、大須賀康高の娘がいつどこで亡くなったのか、まったく分かっていません。
康政には側室に花房氏がおり、2代藩主 康勝の生母となっています。花房氏は系譜関係は不明となっていますが、花房職之(宇喜多秀家の家臣)と系譜関係があるのでは・・・?とされています。
この花房氏って人も謎
いろいろな説があるよね
一応、花房職之の妹と推定されているんだけどね
へ~
康政は館林市善導寺に葬られましたが、あるのは側室である花房氏の藩主康政とほぼ同じ大きさの宝篋印塔で、正室の墓がありません。
1649年に榊原家は姫路に移封となっています。
花房氏の没年は1653年ですので姫路で亡くなり当時姫路藩主であった忠次によって善導寺の康政の側近くに墓所を建立したとみられています。(調査によると遺骨が僅かしか残っていなかったので分骨ではないかといわれています)
1722年 に姫路藩主であった榊原政祐が善導寺に康政の正室について 問い合わせたところ、没年も墓所も分からなかったために、家譜に康政と同じ命日としたと記載されているらしく、江戸時代から正室の没年や墓が行方不明となっていることが分かります。
康政が館林に入封する前に亡くなっていた場合、実家である大須賀家の墓所にあるとも考えられますが、未だ墓所すら見つからないことから、意図的に隠された可能性も考えられます。
例えばキリシタンだった場合などです。徳川政権ではキリシタンを徹底的に排除し、キリスト教の禁止令まで出ていた時期ですので考えられなくはないと思います。
大名の正室がキリシタンだとして周囲に知られたら大変なことになってしまうので、正室の名前や没年、墓所までも徹底的に隠したというのもあり得ます。
お辻伝説とは
榊原康政に お辻 という愛妾がいて康政の寵愛を一身に受けたため他の側室などから嫌がらせを受け、耐えかねたお辻は侍女であるお松と城沼に身を投げてしまいます。
それを悲しんだ康政がお辻を偲んでツツジを植えたそうです。
それが県立つつじが丘公園の始まりとなったといわれています。
この伝説のすごいところは康政さんの側室たちにいじめられて入水したっていっているところ
他の側室って花房氏のこと?
う~ん・・・・
この伝説のお辻と侍女のお松の墓所が群馬県館林の善長寺にあります。
まず、この伝説には 時代がはっきりとしないものから、年号まではっきりと分かるものまであります。
また、お辻が榊原康政の愛妾であるとするものから全然関係のない龍神伝説まで様々でした。(伝説だから当然ですが信憑性は低いことをご了承ください)
伝説の年号が分かる場合1605年~1610年の間に城沼に身を沈めたという説ですが、その場合、榊原康政と二代藩主である康勝の側室が該当します。
康政は1606年に59歳で館林で亡くなっています。
康政の三男である康勝が17歳で家督相続しました。
二代藩主康勝の正室は加藤清正の娘の古屋姫でした。仲の良さが窺えるような古屋姫宛ての手紙も残っているようです。
その康勝には側室(覚心院)がいましたが、詳しくは分かっていません。
二代藩主康勝の側室であった覚心院は勝政を産んだあとすぐに亡くなってしまっているらしいのですが、側室としか書かれていない資料も多く、情報がありません。
ちなみに覚心院が勝政を産んだのは1613年です。(1605年から1610年には該当しませんが年代が近いですね。)
康勝は1615年大阪の陣の直後に亡くなっています。
生まれたばかりの子であることと、正室である古屋姫(加藤清正の娘)の子ではなかったことなどから、養子に出ていた大須賀忠次が榊原家を継承することになり内部ではお家騒動が起きていました。
古屋姫についていた侍女が康勝の子(勝政)を生みましたが、康勝が亡くなるとお家騒動に巻き込まれるとの思いから実家である加藤家へ連れて逃げました。
幕府には康勝には子がいないと 家老たちは嘘の届け出をしていますが、古屋姫が再嫁することになったときに勝政の存在を幕府に届け出ました。
このことにより榊原の家老は処分されていますが、榊原家は秀忠からの神文もありましたから穏便に済まされたとのことです。
その後 加藤家は改易となったため、勝政は高野山に行って修行し、晩年は伯母の鶴子(池田利隆室)を頼り岡山にいたといわれています。
この勝政の孫が榊原家六代目の当主になっています。
名前も没年も、お墓まで分からないとなると隠してるよね~
隠す理由は何だったんだろう
榊原康政の正室の墓がないのはキリシタンだったために意図的に隠されたとする説が濃厚な気がします。
お家の重大な秘密を知ってしまったとか、敵と通じていたために命を奪われたといった場合でも墓所はあると思うのですが・・・。
康政さんの正室も謎だし(お墓どこ?)、花房氏も謎だし(系譜関係が謎)、お辻さんも謎(どちら様?)だし覚心院さんも謎だし(ほとんど情報がない)、ミステリ~
分からないことだらけだね
これはミステリーのまま?
解けていないからミステリーなんだよ~
誰か解いてください
今後の研究で何か発見があるかもしれません。
以上康政さんの紹介でした