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第二次長州征伐の慶応元年5月に高田藩士 麦倉助太郎は17歳で父の造酒之助とともに高田を出発、大坂に到着し将軍家茂の警護にあたります。慶応2年6月、高田藩は芸州口の先鋒を命じられます。
6月14日 安芸(広島)と周防(山口)の国境 小瀬川の戦いでは、長州勢の夜襲を受け大敗。
8月7日 早朝 濃霧と豪雨の中、長州勢が急襲してきました。助太郎は家伝の一刀を持ち敵陣深くに切り込んでいきます。長州勢の勢いで高田藩は多数の被害が出て兵を退かせることにしました。
兵が戻って勢揃いしたときに助太郎の姿はありませんでした。
元治元年7月19日 長州藩が京都御所に発砲した『禁門の変』が起こります。これにより長州藩は『朝敵』となり長州藩追討令が出されました。元治元年と慶応元年に幕府軍の征討軍が起こされますが、1回目では西郷隆盛が独断で長州藩と講和したことにより第一次征討軍は解散しました。
慶応元年5月 第二次長州征伐 藩主 榊原政敬が4500人を率いて大阪に着陣しますが、将軍家茂からは進発命令がなく諸藩も討伐には消極的といった状況でした。そして将軍警護で大坂に滞在し、11月になりやっと彦根藩とともに芸州口の先鋒を命じられますが(榊原家と井伊家は代々先鋒)さらに半年 安芸国海田に滞陣となります。1年近く長逗留したので戦意は喪失し、なおかつ安芸の人達に、
『戦うのは無謀で命を落としに行くようなものだからやめておけ』
と何回も止められたとの話も残されています。というのも慶応2年1月には薩長同盟が締結されており、薩摩藩からイギリスの洋式の武器が長州藩に大量に渡っていたため志気も高く、初めから戦いにならないと思っていたのだと考えられます。
しかし幕府からの命令なので退くわけにはいきません。慶応2年6月出撃命令が出されますが、高田藩の旧式の装備に武器は刀と槍が中心といった兵備の差、地理的に不案内に加え作戦面の失敗もあったことが敗戦の原因となりました。その後8月7日早朝 豪雨と濃霧の中、長洲勢に急襲され高田藩は大敗を喫しました。各地で幕府軍が敗戦し家茂が亡くなると朝廷による休戦命令により終わりました。この戦いで亡くなった高田藩士は35名でした。
高田藩の兵が敗走した後、残していった銃をみた長州藩が「およそ使用に耐えないものばかり」と記録しているようで、高田藩の使用していた銃が旧式過ぎたことが窺われるものです。

そんなに貧〇だったの?

〇乏だったんだね~
家茂の度々の上洛の御先登、第一次長州征伐、第二次長州征伐に加え、自然災害の多発により藩財政は窮乏していました
この長州戦争の敗北により幕府の権威は限りなく失墜しました。
榊原家高田藩が洋式の武器を持った長州藩と最前線で戦って歴然とした兵備の差を知り、かつ、指揮命令系統の幕府方の混乱からくる作戦の失敗もあり、幕府の力の衰えなどはっきりと時代の変化を感じ取ったと思います。
時が流れ、明治11年9月11日 明治天皇の北陸への行幸が行われ高田(現 新潟県上越市)の地も訪問されました。その際、随行してきた中に元長州藩士の宍戸隼人がいました。麦倉助太郎の父の造酒之助に面会を求めてやってきたといいます。
あの日の戦い(第二次征討の8月7日の戦い)で戦場に一人取り残された若者がいて、長州の兵たちに囲まれ若い命を取るのは惜しいので、刀を引くように勧めましたが、これを断って兵刃を交えることになりました。
倒れた際に『この太刀を国元に』と言い残し切腹して果てられたと語り、これが助太郎殿の形見の品です、改められてお納めくださいと渡されました。
父の造酒之助は驚きのあまり声が出なかったそうです。
戦いがすべて終わり明治の時代になりやっと故郷に戻ってきたのでした。
長州征討で亡くなった高田藩士の墓は安芸国海田市(現広島県安芸郡海田町)明顕寺にあり、墓石には『越後高田之藩』とあり、大老 原田帯刀以下34名の名前が刻まれています。
新潟県上越市金谷山には高田藩士『慶応丙寅戦死の碑』があり長州再征で戦った人の名前が刻まれています。その中に麦倉助太郎の名も刻まれています。
法号 賢心院忠義居士

新潟県上越市大貫2丁目18-1 戊辰戦争官軍墓地の近くにあります。