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徳川四天王の榊原家の旗印は「無」の文字ですが、その意味が不明になっていて解釈が分かれているようです。

榊原さんの旗印って「無」なんだよ~。

ほうほう

意味は無欲無心の「無」という意味らしい

らしい?

史料がないから想像なんだって~

お人柄から考えると無欲無心であろう ということらしいの

なるほど
また、戦うときには「無」の境地であったから、その「無」ではないのか?などの説もあります。
遠江堀川城攻め(1568年)で先陣をつとめた際、一番に城中に攻め入り多くの敵を討ち城は落とせたのですが、生死をさまよう大けがをしてしまいます。

家康は康政の負傷を聞き邸宅に訪れたのですが、傷の程度をみて、
「もはやこの傷では助からないであろう」と思ったらしく、何か申したいことはあるか?(遺言はないか)と聞き、

康政は伊奈源左衛門と中嶋右衛門作の軍功を家康に伝え、家康は感状を与え領地も与えたといわれています。
しかし、家康の見舞いのあとに康政は奇跡的に回復したのでした。

よくぞ御無事で~

越中帰陣已来者家康不申通
本意外候、内々旧冬至于信・甲雖
可及調儀候、味方中不相調、遂
越山候へ者、家康劬労(くろう)も不休候哉
味方中為可調、当春迄令延
引候、然処、関東之諸士何も属当方候
条、当十八令越山、於西上州可揚
放火候、被遁比時節候者、信・甲(信濃、甲斐)
不可有一切候間、信長江有諷諫、急
度被及手合、被付興亡候様二家康へ
諫言專一候、例式武田四郎計略
名之下二候間、不可過推察候、猶(なお)
巨細村源(村上国清)可演説候、恐々謹言
正月九日 謙信(花押)
榊原小平太殿
急度被及手合、被付興亡候様二家康へ諫言専一候
(勝頼と)戦に及んで勝負をつけなければなりません、このことを信長に伝えるようにと家康に諫言してください。
この書状は1574年正月 上杉謙信が関東に出陣し北条と戦うことになるので、北条と結んでいる武田勝頼の背後を信長と家康に牽制することを求めたものです。
書状のあて先は榊原康政となっており、徳川の中で越後の上杉謙信との交渉は康政が行っていたということになります。
康政は家康に取り次いで、2月に謙信が関東へ出陣したのに呼応して家康は駿河に兵を出しています。

康政くん、家康くんに伝えてねって感じかな?

うん。康政さんから家康さんへ、家康さんから信長さんへ伝えてねって感じ。

上杉謙信さんが 家康さんの家臣である康政さん宛てにお手紙を書いていた、というところが異例だといわれているよ(康政の外交能力がすごかったエピソード)
武田氏が滅亡し、その精鋭の旧臣たちを元服したばかりの 井伊直政に付属させたため(山県昌景の赤備え含む)康政が「直政と刺しちがえる」とまで言って忠次にものすごく怒られたという逸話があります。
家康が徳川の最強部隊を作るために武田の遺臣たちを井伊直政の配下に付け「井伊の赤備え」をつくろうとしたときのことです。
井伊直政の出世は著しいものがあり、多くの人に妬まれたらしいのですが、本人(直政)もそのことを知ってか自分に対しても家臣に対しても非常に厳しかったといわれています。
武功だけではなく、政治の交渉能力にも優れた武将でしたから時間が経つにつれて直政の実力が認められるようになりました。
のちに康政と直政は非常に信頼しあっていたといわれています。
康政は旗印に「無」の一字を使用していて、無欲、無心で家康に仕えるという精神の武将でしたから、本多正信のように策謀を巡らせるような武将を嫌い、「あやつは腸が腐っておる」といったというエピソードがあります。

腸が腐るってすごく強いワードね

康政さんは腸が腐るという言葉がお好きだったみたいでよく使っているんだよね
本多正信は家康に仕えていましたが、三河一向一揆に加わったために家康のもとを離れ、加賀の一向一揆に加わったり、松永久秀に仕えていた などといわれています。
しかし再び家康のもとに戻り行政手腕を発揮して初期の徳川幕府を支えた重要な人物となります。

秀吉 対 家康・織田信雄連合軍の戦いにおいて康政は秀吉側の士気を削ぐため檄文をしたためました。
内容は「信長公の君恩を忘れて信孝公ばかりか生母や娘までも亡き者にした。今また信雄公に兵を向け戦っている。その悪逆さはいうまでもない。これに従う者は義がないものである」というものでした。

また、立て札も書いてそこら中に何本も立てさせました。
これをみた秀吉は激怒して冷静さを失い兵を出してしまいました。(三河中入り)
三河中入り
小牧山に陣を敷いている家康に気付かれないように 背後にまわり徳川の本拠地三河を攻撃する作戦のこと
秀吉は康政の首に三万石(十万石の説も有り)の懸賞金をつけたといわれています。

完璧に怒っちゃったね

秀吉さんは一番言われたくないことをいわれ、冷静さを失ってしまいました
そして、羽柴秀次の軍が白山林にて休息していたところ、大須賀康高、水野忠重らが急襲し、榊原康政の側面攻撃により秀次の軍は壊滅状態になりました。
その後 康政は家康の本体に加わり井伊直政勢、信雄勢らとともに池田恒興の軍を打ち破りました。
ですが、やはり秀吉のすごいところは、小牧長久手の戦は 織田信雄・徳川連合軍の勝利でしたが、秀吉と信雄が家康が知らぬ間に勝手に和睦してしまったので、家康は戦う大義名分を失い秀吉と和議を結ぶことになってしまいました。
そして、秀吉は家康を上洛させるために妹の旭姫をわざわざ離縁させて家康の正室にしています。
この和睦の使者として康政は上洛しています。これは秀吉からの指名で、小牧・長久手の戦いの際に檄文を書いた康政との対面を希望したためだといわれています。
そこで秀吉に会い信任を得て、秀吉の妹の旭姫が家康に嫁ぐ際は道中警護をすることになりました。
秀忠は信濃国(長野県)上田城にいる真田昌幸を攻めましたが、この戦いと大雨による増水で結果として秀忠の軍(3万8千)が関ケ原の戦いに間に合わなくなりました。
家康からの手紙が雨のために遅れて届いたため、秀忠の出発が遅れたことも遅参の原因の一つであったといわれていますが、遅参したことが家康の逆鱗に触れることになります。
秀忠に謹慎を命じて会おうとはしなかったといわれています。
家臣の懸命の説得により対面を許したとか 榊原康政が腹を切る覚悟で家康に弁明にいき、対面がかなったため秀忠は非常に感謝したとか、また、そもそもわざと本隊を遅らせたなどいろいろな説があります。
このように様々な説がありますが実際はどうだったのでしょうか。

どうだったんでしょうか?

実際みてないし分からないよ~

歴史でそれを言う?

でもね、秀忠さんは康政さんのことをとても大切にしたということが分かるんだよ
この後関ケ原の論功行賞として水戸25万石の話があったのですが、康政は江戸で何かあったときに館林からならすぐに行くことができるが、水戸だとそれができないといって断ったそうです。
また、本多正信、正純父子の文治派と康政たち武功派が対立しましたが 老臣が権を争うのは天下大乱、亡国のもとである といって権力から遠ざかり終生、無欲無心の「無」の精神で家康に仕えました。
秀忠から康政に「反逆は別として他の不調法については長く見捨てはしない」といった神文が与えられました。
これがのちに榊原家を救うことになったという神文ですが、詳しくはこちらから

榊原家は藩祖康政から尚武(武事・軍事を尊ぶこと)・勤学が藩是・藩風となっていて、昼は武術、夜は学問を尊んでいました。
そしてそれらが終わるとおにぎりを食べて解散したという「ヘンテツ会」と呼ばれるものがあったそうです。もちろん創設したのは藩祖康政です。

以上、康政さんの面白エピソードでした~

