将軍家茂の警護・大坂城を出発し伏見奉行屋敷へ(大坂表~伏見編)その6

この記事には広告を含む場合があります。

記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。

文久4年の1月に将軍 徳川家茂が二度目に上洛した際の高田藩士が書いた日記があります。文久3年12月に高田(現 上越市)を出発して元治元年7月に高田に戻るまでの記録です。

虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています

  

訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります

  

時間に関しては江戸時代の時刻換算サイトを使用(不定時法)しています

  

翻刻文の縦書きを横書きにして訳しています


将軍家茂の警護について高田藩の御触れの写し

家茂は文久3年12月27日に江戸を出発し、軍艦翔鶴丸に乗船し、文久4年1月8日に大坂城へ入りました。そして高田藩は、家茂が1月14日に大坂を出発して伏見へ到着、伏見から二条城まで御先供(先頭の供)することになり、それについての御触れ書きがまわったようです。   

同日御触れの写し

  

公方様 来る14日大坂表へ御発輿につき、

殿様(榊原政敬)明日の13日 暁七ツ時(午前3時50分くらい)御供揃(供を揃えること)に出発

  

お供のものは刻限を見計らって混雑のないように出立すること

   

右の↑御触れは大老中お達しにつき、このことを承知しておくように 以上

  

正月13日 御目付中

追啓 枚方御昼 伏見で泊り このことを承知しておくように 以上

   

アダム
アダム

枚方でお昼~、伏見で泊り~ワクワク

  

こばん店長
こばん店長

将軍家茂さんの警護だからね

  

公方様 来る14日伏見へ御着きになったときに(高田藩は)淀小橋 伏見今留橋 御旅館の裏通りのお固めを仰せ付けられたので、

右 ↑ 御行列帳と伏見駅より二条城まで御先供の御行列帳を今日中に御目付方で読んでおくように

  

正月12日

  

右 ↑ の御触れが廻ってきた

  

家茂が伏見に到着したときに高田藩は淀小橋、今留橋、御旅館の裏通りの警護、15日に伏見から二条城まで御先供をすることになったので、御行列帳(帳面にまとめられた本)を御目付部屋の竹尾半蔵の部屋で読んでおくようにといった内容の御触れ書きです。

  

同13日 快晴

  

殿様 暁七ツ時(午前3時50分頃)御供揃にてご出発された

  

枚方お昼、伏見駅 藤之森西岸寺御本陣

  

1月13日 高田藩主 榊原政敬が御先登のため、家茂が出発する1日前の朝4時頃出発します。伏見駅 藤之森西岸寺を御本陣としたようです。

  

アダム
アダム

朝の4時って早いよね~

    

こばん店長
こばん店長

まだ、真っ暗だったんじゃないかな

  

家茂、大坂城を出発し伏見奉行屋敷へ

同14日 雨 同宿逗留 御触れの通り

淀小橋へ伊藤八郎御一手(隊) 御組頭

榊原左近様、竹内酒造之丞様右

御組下 兵士20人 御物頭 今井新左衛門様、原田権之進様、村上休兵衛様も御発宿

  

鈴木喜太夫様御目付

竹尾半蔵様そのほか懸り諸役人は着御(将軍家茂の到着)につき淀小橋までお出迎え、それより、歩行固め(警護)にて伏見今留橋まで、中根善次郎様御一手、江戸定府の平士

伊藤様の人数同様、今留橋の警護より伊藤隊と交替、それより中根隊の旅館まで歩行固め

旅館裏通りには御前隊がお固め

  

同日夜五ツ時(19時15分頃)伏見奉行屋敷へ(家茂が)お着きになられた

  

1月14日 雨が降っていたようで、それぞれの隊が宿を出発し、警護に向かいます。家茂が大坂を出発し淀川を通り伏見に到着した際に高田藩は淀小橋、伏見今留橋、旅館裏通りを歩行固め(警護)をしました。家茂は大坂を出発して夜の19時15分頃に伏見奉行屋敷に到着したようです。  

高田藩士、将軍家茂の顔を見ることができた?!

殿様(榊原政敬)はすぐにご機嫌伺い(様子や安否を尋ねること)に参られた

  

一、淀小橋白川端通り彦根様御人数ご家老一手(隊) 伊藤一手お固め 

  

伊藤八郎様馬上にて船を二丁ほど(約220m)見計らい先供(先頭に立ち供をすること)

  

彦根(彦根藩・井伊家)御人数 御跡供(行列の後に従う供のこと)

  

拙者は今井新左衛門附きにて淀小橋へ参った 伏見より淀小橋まで五拾丁(約5.4km)

  

一、御軍船に(将軍家茂が)おいでになるところ、伏見駅橋際で下座していたところ、恐れながらお顔を拝すことができた

  

家茂は大坂を出発して船で淀川を通り伏見に到着しました。この大坂から伏見の間の船は上りで12時間ほどかかったといわれています。家茂が伏見奉行屋敷に到着するとすぐに榊原政敬は御機嫌伺いに向かいました。

この「ぼくの上洛日記」を書いた高田藩士は伏見の橋際で、恐れながら家茂のお顔を見ることができたといっています。だいたい、将軍が江戸城から外に出るという機会は少なく、家茂は三代将軍 家光以来229年ぶりの上洛で、今まで地方に住む藩士が将軍の姿を見ることができる機会はなかったので、思い出に残る日になったと思います。しかし下座(平伏)していたとあるので、姿を確認できたくらいだったのでしょうか。 

家茂、伏見を出発し二条城へ

同15日 快晴

  

公方様 暁六ツ半時(朝7時10分くらい)御供揃いにて御発輿(出発)された

  

殿様暁六ツ時(朝6時15分くらい)御供揃にて御発駕された 御行列で京都二条城まで御先登された

  

1月15日 朝7時頃 家茂は伏見を出発し、二条城に向かいます。榊原政敬は朝6時頃御供揃いで出発し、京都二条城まで御先登しました。

榊原家は徳川四天王の一人榊原康政以来 代々徳川家の御先手(先陣)なので幕末のこのころも先陣を勤めています。

こばん店長
こばん店長

つづく