改易された殿様、高田藩初代藩主「松平忠輝」とは?!

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家康の息子忠輝の系図

     

こばん店長
こばん店長

高田藩歴代藩主はこちらから

  

  

生まれたときに「捨てよ」と言われた殿様

  

徳川家康の6男であった忠輝は生まれたときに、家康に「捨てよ」と言われた殿様でした。

      

双子であり、当時はお家騒動の元になるため忌み嫌われた説や、畜生腹の子であったから、また、いったん捨てる「捨て子」の方が丈夫に育つからという変わった風習で「捨てよ」と言われた、などいろいろな説があります。

  

  

築城命令(天下普請)により驚異のスピードで高田城ができた?!

  

まず高田が関東と北陸を結ぶ交通の要であったことが一因となります。もともと城があった福島城(現在の上越市港町)からわざわざ高田に移転したのは、加賀前田家・米沢の上杉家の(抑え)としての城が必要だったからだと考えられています。

  

忠輝が高田城開府したのは1614年大阪冬の陣があった年であり、徳川と豊臣が対立した年でした。福島城は関川、保倉川の合流した場所にあり、頻繁に水害にあっていざ戦となったときにすぐに出兵できないといった不安要素がありました。

    

1614年家康から築城の命が出され(天下普請)1日10万人規模の大工事が行われました。人件費や資材費など現在の価格で600~800億円と試算されています。

  

天下普請は全国の城と同様に外様大名に対して出されたもので、徳川家への忠誠心や外様大名の財力を大幅に減らすといった目的がありました。忠輝の義理の父、伊達政宗を普請総裁に、上杉(米沢)前田(加賀)蒲生(陸奥)といった外様大名10名と譜代大名3名により築城されたものです。

    

こばん店長
こばん店長

工事開始は1614年3月で、幕府の普請奉行が帰ったのが7月だったんだって。

    

アダム
アダム

工期が4か月か。早いね~

      

 

忠輝の反抗期は間が悪かった

 

生まれた時から「捨てよ」と言われ、忠輝が7歳になってからやっと家康と面会ができ、弟達は徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)に封じられていることなどから、家康にあまり可愛がられているといった印象がなく、先に述べた双子だったから疎んじられたという説も本当かもしれません。

  

アダム
アダム

かわいそうだと思う。

  

こばん店長
こばん店長

でも、福島城に60万石で移封されているよ(75万石とも・・・諸説あります)期待されていたんじゃないかな

  

豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康を総大将とした東軍と毛利輝元を総大将とした西軍とが戦った関ケ原の戦い(1600年)で徳川方が勝利し、徳川家康は事実上の天下人となります。

    

1603年に家康は江戸に幕府を開きましたが、豊臣家は依然力をもっており、豊臣恩顧の大名たちの動きにピリピリしているころでした。家康には急いで政権を整える必要がありました。

 

1615年、大坂夏の陣が起こります。

  

忠輝は、伊達政宗・本多忠政などの大軍を率いての総大将だったが、わざと遅参するような進軍であったこと

  

  

また その際に進軍が遅かったことで、忠輝の軍列を追い越したとして兄である秀忠直属の旗本を無礼討ちにしたこと

  

  

その子細を報告も釈明もしなかったこと

  

  

戦勝報告のため家康との参内を命じられていながら病気といい同行せず、川遊びに興じていたこと

  

また許しを得ないまま高田へ帰ったことなど

  

  

   

このような行動が本当なら不審ありといわれても仕方がないといえます。盤石な徳川体制を整えなければならない重要な時期に徳川の身内で二分するようなことがあってはならなかったのです。

  

アダム
アダム

う~ん・・・・・。なかなかの反抗期ですな・・・。

    

    

こばん店長
こばん店長

この行動が改易・領地没収・流罪につながったんだよ。

     

江戸時代は、交通の要所や江戸に近いところは親藩や譜代大名で固められています。逆に外様大名は江戸から遠くやすやすと攻めてこられないように配置していました。

     

高田という場所は外様の大大名である加賀の前田と米沢にいる上杉のおさえとして重要な場所に位置していました。従って信用のある大名しか配置できませんでした。

    

豊臣恩顧の大名達の動向を見定め、江戸の幕藩体制をゆるぎないものにしなければならないこの時期に忠輝は信用のある大名には見えなかったのです。

   

  

忠輝は実は教養人だった?!

   

まず、義理の父はあの伊達政宗でしたし、妻はその娘の五郎八でキリスト教の熱心な信者です。

     

忠輝自身も何ヶ国語も話せたといわれるくらい異国の文化に通じた人物だったようです。

    

政宗は1613年に家臣である支倉常長をスペイン・ローマ・メキシコに遣欧使節として派遣しているくらい海外に目を向けていた人物です。

     

多くの戦国武将達にとってポルトガルやスペインとの交易は、ただ珍しい西欧文明やキリスト教に関心があっただけでなく、鉄砲の弾薬や火薬の原料などの軍事物資を手に入れたいといった思惑もありました。

    

一方のスペインにはキリスト教を広めキリシタンの力で政権を倒して植民地にするといった隠れた思惑がありました。その思惑に気付いていた家康はキリスト教を徹底的に排除するという方向にむかったのです。  

  

キリシタン大名といって思い浮かぶのは高山右近ですが、隠れていただけで大勢いました。この時代のキリスト教の信者は20万人はいたといわれています。

     

高山右近は、秀吉によりバテレン追放令が出されたあと、1588年加賀の前田利家に庇護を受けましたが、1614年家康によってキリシタン国外追放令が出され、1615年マニラにて亡くなっています。

    

この高山右近が25年も加賀の地にいたのですから当然キリスト教に寛容な藩であったといえます。

    

1605年、忠輝は家康に命じられ、豊臣秀頼が右大臣に昇進した機会に大阪城にて面会しています。それからなのか忠輝と秀頼は親交があったともいわれており、豊臣方に対して非常に同情的であったといわれています。

  

本人達はどんな思惑があったのかはわかりませんが、幕府からみたらものすごく危険な人物であったことは間違いないと思います。しかも秀頼もまたキリシタンに寛容でした。

  

  

誰の目からみても不審あり

兄の目からも父の目から見ても「不審有」と見られてしまった忠輝を、高田に置くことはもはや出来ないでしょう。おさえどころか強大な敵となってしまう可能性すらあるのですから。

  

1615年 家康から対面の禁止を言い渡されます。

   

父、家康の危篤に際しても面会することもできず、葬儀の参列さえも許されなかった忠輝です。「凶暴な暴君」であったために改易となったという話がありますが、何ヶ国語も話すことのできる教養人で、美しく聡明であったとされる五郎八姫とは仲睦まじかったともいわれていることからも「凶暴なバカ殿」というのは少々違和感があります。本当に凶暴であったならば側にも近寄ることはなかったのではないでしょうか。

  

家康は危篤に陥ったころ野風と呼ばれる銘笛を茶阿局を通じて高田城にいる忠輝に送っています。野風は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと渡った天下人の笛です。どんな思いが込められていたのでしょうか。

  

双子で生まれ、醜かったから家康に嫌われ、凶暴な暴君となったので改易されたのではなく、家康の長男であり、自刃させられた松平信康によく似て、親に対して反抗的であり、ひとたび戦になれば、忠輝と豊臣方とキリシタンとが結び、大きな力となって徳川幕府を倒しかねない人物になりうることを恐れ政治的な思惑によって排除した、というのが真相なのではないでしょうか。