傾国の美女高尾太夫とお取り潰しの危機を招いた殿様榊原政岑とは?!

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こばん店長
こばん店長

榊原家8代目の政岑(まさみね)さんを知っている?

 

アダム
アダム

高尾太夫を身請けしたり、豪華な生活をして将軍吉宗の逆鱗に触れた殿様でしょ~

     

    

こばん店長
こばん店長

そう、その面白い殿様。でも姫路から転封になって家臣たちは大変だったみたいだよ~

   

      

アダム
アダム

姫路から高田へ墓石を運んだ家臣もいたみたいだよ

  

泣く高尾ちゃん

 

こばん店長
こばん店長

はっ!!高尾ちゃん・・・

      

お取り潰しの危機を招いた殿様、榊原政岑とは?

  

榊原政岑

1715年 榊原家支族 榊原勝治(旗本一千石)の次男として生まれました。

  

しかし政岑の兄 勝久が亡くなり、家督を継ぐことになりますが、榊原宗家の7代目当主、政祐が亡くなると宗家8代目となり15万石を継ぐことになります。

  

1732年 榊原政岑は榊原宗家を継いで姫路藩主になりました(18歳)

    

政岑さんの服装 派手好み 

政岑が江戸城の大手門番をしていた時の服装は、もえるような萌黄色の琥珀織の裃白糸で源氏車の家紋を縫いだしたものを着て、白柄の刀脇差をしていようです。

質素倹約を励行していた吉宗(将軍)は、普段なら門番を務めている大名に声をかけるようですが、政岑の華美な恰好をみて無視して通り過ぎたそうです。

このように華美な恰好で将軍を警備していたので、吉宗の享保の改革における緊縮財政への不満や批判を服装で表現したかのように映ったのではないでしょうか。  

  

アダム
アダム

きっと吉宗さん怒ってるね

     

こばん店長
こばん店長

うん・・・・こういった行動が榊原家お取り潰しの危機になっていくんだ。

   

政岑さんの趣味

  

お香、お茶、能楽、音曲、謡、芝居、笛、三味線、小唄などで、それらは素人の域を超えたものだったといわれています。

    

  

政岑さんの豪遊好き

  

吉原で4億円~6億円つかい豪遊していたという話もあります。

    

飛鳥山で贅沢三昧のお花見を開催  

       


殿様がなぜ豪遊するようになってしまったのか?!

     

政岑には、正室である久姫(白河藩主松平基知 養女)がいましたが、女児を出産して急逝してしまいました。政岑が23歳のころです。

嘆き悲しむ政岑をみて、若殿を慰めるために能役者が吉原へ誘ったことが政岑の放蕩人生のはじまりとなってしまいました。

 

アダム
アダム

そこで高尾太夫に出会ったんだね

  

こばん店長
こばん店長

誘う所が吉原じゃなかったらよかったのに・・・・

         

また、8代目の徳川将軍職をめぐり、尾張の徳川宗春と紀伊の吉宗とが争い紀伊の吉宗が将軍となりました。

しかし、徳川宗家に世継ぎがいない場合は、尾張、紀伊、水戸の順番になっているので尾張の宗春になるはずですが、なぜか紀伊の吉宗になっています。(幕末の将軍も尾張からではなく、紀伊の家茂が将軍となっています。)

吉宗の緊縮財政に対し、宗春は積極財政政策を推進して贅沢三昧な豪遊をして吉宗の政策に真っ向から逆の姿勢をとっていました。 

この態度が吉宗に対抗するような振る舞いとみられ、宗春は1736年に謹慎、隠居を命じられてしまうのでした。

  

こばん店長
こばん店長

吉宗がキレたみたいです

  

榊原政岑もこの尾張の殿様と同じく緊縮財政には反対だったようで吉宗の質素倹約を無視して吉原で豪遊してしまいます。 

この放蕩三昧をみて、6代目の当主正邦の正室(鍋島綱茂の娘)からは戒められたり、家臣の大田原儀兵衛も命懸けで諫め状をおくるなどして行動を改めるように訴えましたが政岑の行動は変わりませんでした。

    

大田原儀兵衛 諫め状

  

高尾太夫のために新築したとされる「市の橋御私宅(姫路城 西屋敷)」が藩財政を圧迫するものであること

  

女物を着用したりするのはあまり品がよくない それというのも以前から風紀の乱れた場所に出入りしているからで、そういった噂というものは広まりやすく家の存亡にかかわることになるので行動を改めるべきであるといった訴え

   

傾国の美女といわれた高尾太夫とはどんな女性なの?!

高尾太夫

 

太夫とは最高級の遊女のことで一見のお客さんは姿を見ることもできなかったようです。

  

高尾太夫とは個人名ではなく、吉原の三浦屋に伝わっている大名跡でその名にふさわしいとされた女性のみが襲名できました。

  

茶道・書道・古典・三味線・詩歌・琴などの芸事や、その他にも教養などを徹底的に教え込まれるようです。

  

榊原高尾は13歳で太夫になるなど、才色兼備の女性だったといわれています。 

  

高尾太夫を身請けしてしまった

政岑は三浦屋の高尾太夫を身請けします(1741年6月4日)政岑27歳でした。

このときの身請け総額(雑費込み)が約5億円ほどだったといわれています。  

同年9月21日参勤交代で高尾と姫路にいた政岑のもとに江戸藩邸から幕府からの呼び出しがあったことを知らせる早馬が届きました。

 

アダム
アダム

このパターンは吉宗さんに怒られるね

    

  

こばん店長
こばん店長

怒られるだけならよかったのかも・・

  

吉宗の政策である質素倹約の緊縮財政政策の最中、それに逆らうように豪遊し、高尾太夫まで身請けした政岑です。吉宗の政策への反逆とみなされ榊原家のお家お取り潰しがあってもおかしくはない状況でした。

幕府からは「不行跡」のために隠居・謹慎を命じられました。即日政岑は江戸藩邸の奥の間に閉じ込められました。 

しかし藩祖 康政による功績や2代将軍秀忠から与えられた神文があったため、お家のお取り潰しを免れ、嫡子小平太が家を継ぐことを許されました。そして播磨姫路から越後高田へ転封となりました。

神文とは、徳川秀忠が榊原康政の功労に報い渡したとされる神誓証文のこと

 

家督は政岑の子である政永となり、1741年姫路から高田へ入府しています。

1742年 政岑は高田に移送され、対面処(現榊神社)で謹慎しました。(高尾太夫も一緒)  

しかし、政岑は高田に移ってからすぐ体調を崩してしまいます。

1743年 政岑は29歳で亡くなってしまいました。(心臓病とも糖尿病ともいわれています)  

高田に来てから10カ月ほどしか経っていなかったようです。その後林泉寺に葬られました。

      

姫路のゆかた祭りと榊原政岑

        

毎年6月の下旬に 姫路のゆかた祭りが開催されていますが、その起源が榊原政岑であるといわれています。

  

姫路浴衣祭り

  

  

姫山の鎮守神として長壁神社がありましたが、豊臣秀吉などの戦国大名たちがこの場所に築城してからは武士以外は入ることができなくなってしまいました。

    

  

長壁神社の祭礼に武家とその家族だけが参加していたそうなんですが、榊原政岑は武士でなくとも気軽に参拝できるように社を移しました。

  

    

夏至の日に遷座祭を開催しましたが、着物(式服)がないので参加することを躊躇していた領民に対し農民や町人も一緒に楽しもう、着物がなければ ゆかた(公の場で着るのはマナー違反)でいいじゃないか として政岑の言葉で始まった伝統行事だといわれています。

  

  

それ以来毎年姫路では6月の夏至の頃にゆかた祭りが開催されています。    

      

また、姫路の人々は榊原家の転封を阻止するために大阪の奉行所に訴状を提出するなどしましたが、返事がないため江戸まで行き奉行所に訴状を提出したといわれています。

  

アダム
アダム

姫路の人に好かれていたんだね

      

  

こばん店長
こばん店長

気前がいい殿様がいなくなったら大変というのもあったみたい あと借金とか・・・・

    

   

アダム
アダム

好かれていたんだってば

    

こばん店長
こばん店長

確かに好かれていたみたい 

    

  

こばん店長
こばん店長

気取らないところや 茶目っ気があったところなんかは 領民から人気があったみたいだよ 

    

  

実際に榊原政岑の転封と一緒に姫路城下の人もたくさん高田に移動しているようで、そのときの姫路の人口が減っているそうです。

また、姫路の人々からは「風流なお人」と呼ばれていたようです。 

さて、その後の高尾太夫ですが、政岑が亡くなると髪を落とし、蓮昌院と号しました。  

高田にいましたが、後に江戸の屋敷で政岑の菩提を弔い 静かに暮らしたそうで 68歳の生涯だったそうです。

遊女であった高尾が大名の側室にまで上り詰めたとはいえ、幸せであったかといえば疑問符がついてしまいます。 

また、政岑は幼年の政永に代わって政務を行っている重臣を補佐し、自ら設計した灌漑工事・新田の開拓、開墾などまた、農民を集めて竹細工の講習会などをしたといった話もあるのですが・・真偽不明とのことです。

     

林泉寺に政岑の墓所、宝物館に高尾太夫の打敷

 

先ほども申しましたが、林泉寺に政岑の墓所があります。そこには 全国からファンの方々が参拝に訪れているといいます。

ちなみに林泉寺の宝物館には、高尾太夫(蓮昌院)が奉納した”打敷”があります。これは政岑から贈られた打掛を仏具の下に敷く打敷に縫い直して林泉寺に奉納したものです。 

裏面には、南無阿弥陀仏 善教院供養の為 蓮昌院 奉納す と書かれています。

            

政岑さんに 会いに行くには こちらから

春日山林泉寺

    

林泉寺

  

↓ 門を入って真っすぐに進むと本堂があります。

  

林泉寺本堂

   

↓ 本堂の左をみると階段があります。

      

林泉寺階段

  

↓ 階段を登ったら、ここを左へ行きます。

    

階段を左

  

↓ ここを右へ進みます。

     

榊原家は右

   

↓ この道を進みます。

     

山道

  

↓ こちらの看板が見えてきます。

    

榊原政岑の看板

    

↓ 榊原政岑公墓所です。

      

榊原政岑墓所

  

こばん店長
こばん店長

新潟県は雪国なので冬は雪で道が塞がれているよ お出かけは 春から秋がいいかも

    

林泉寺

  

住所 新潟県上越市中門前1丁目1-1

  

営業時間 10時~16時

  

定休日 水曜日

  

駐車場 有り

   

冬季は休業