この記事には広告を含む場合があります。
記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。
国内を混乱に陥れたペリー来航から明治維新までがなぜか分かりにくいのでゆる~く解説するページ
幕末に近いころになると、アメリカ、イギリス、ロシアなど外国の船が頻繁に日本にやってきて、開国・開港を迫るようになりました。
1853年 江戸幕府13第将軍に徳川家定が就任しました。家定は病弱であり、また人前に出るのを嫌がっていたので政務は老中の阿部正弘が務めていました。
そんな中、東インド艦隊司令長官のペリーがアメリカ大統領の国書を持って浦賀へやってきました。
当時のほとんどの国民は「開国」しなくてもいいのではないか?と考えていましたが、ペリーは開国しないのなら大砲で江戸を砲撃する(艦隊の大砲は江戸城に向けた)という脅しで開国を要求しました
やめて~雷おこし大好きなの~
そういったこと?
当時から日本はアメリカの軍事力に対抗する力などもっていませんので、脅された結果幕府はアメリカの国書を受理します。ペリーは条約締結のために来年また来るといって帰っていきました。
老中の阿部正弘はオランダからの情報でペリー艦隊が来ることを知っていて、アメリカの武器や軍事力などもおおよそ把握していたので、*攘夷といって騒ぎたて、戦うのは愚かなことだと分かっていました。
*攘夷 夷敵(いてき・野蛮な外国人)を討ち払って鎖国すること
ですから開国を迫られた際には、鎖国政策を廃して外国との貿易や交流を行うべきであるといった判断をしたのでした。国家を第一に考えた場合、そうせざるを得ないという考えの持ち主で、究極のリアリストだったのだと思います。これを開国派といいます。
阿部はこの国書を朝廷や*親藩*外様大名を含む大名達に回覧して幅広く(親藩、外様関係なく有能な者の)意見を募りこの国難をみんなで乗り越えようと考えました。
しかし、これは親藩や外様大名、諸大名や朝廷などが幕政へ参加(誰でも自由に意見が言えるようになった)することを意味しており、このことが幕府が終わる原因になったともいわれています。
*親藩 尾張 紀伊 水戸 など徳川家康の男系男子の系統の藩 (政治に参加できなかった)
*外様大名 関ケ原の戦い後に徳川家の家臣となった大名 (政治に参加できなかった)
なんでみんなに聞いたんだろう?
阿部さんはみんなが考れば最後には開国しかないよね~とみんなが思うはずだと考えて一致団結できると思ったみたいだよ
思わなかったんだね・・・
国書の内容は一般の人(下級武士・町人など)にも伝えられ、幕府に対して意見を提出する人がたくさんいました。(これにより多くの人が政治的な発言をするようになったといわれています)
江戸の人の意見
漆器等を贈って黒船に乗り込んで、酒をたらふく呑ませて油断しているところを鮪包丁で異人をぐさりと・・・・・・といった訳の分からないものもありました
開国とは反対の方向にいっちゃったね~
強硬姿勢のペリーさんの態度に腹が立ったんだね きっと・・
この時、阿部の目にとまる建白書を提出したのが勝麟太郎(のちの勝海舟)です
貿易、外国の兵制導入など国防の有り方について提案しました
阿部は身分関係なく、有能な人材をどんどん登用していきました
幕末の尊王攘夷といって名前が出てくるのは、水戸の「烈公」といわれた徳川斉昭です。ペリーが日本に来る前から国の防衛について危機意識を持っていたといわれています。
2代水戸藩主の徳川光圀の『水戸学』とよばれるものがありますが、これは天皇の臣下に徳川将軍家が位置するという思想です。
天皇を中心に政治を行い(尊王論)、夷狄(野蛮な外国人)を討ち鎖国する(攘夷論)が結び、尊王攘夷論とよばれました。徳川斉昭は強硬な攘夷論者として強烈な存在感を放ちました。
尊皇攘夷とはなんだったのか?!をゆる~く語る
1854年 ペリーが強硬姿勢で再びやってきました。要求を拒否した場合江戸への攻撃を辞さないという態度で、前回の浦賀より江戸に近い神奈川で会談することになりました。
これにより日本は日米和親条約を締結(下田・函館開港 水、食料などの必需品の提供 漂流民の救護 下田にアメリカ人居住地を設置)→ 幕府は貿易、戦争を回避
アメリカ以外の国(イギリス・オランダ・ロシア)とも和親条約を締結しますが、日本国内では外国船に対して危機感をもつ人や、弱腰の幕府に対して不満を抱く人が多くいました。
このころ阿部正弘は体調を崩したため、老中首座には堀田正睦(まさよし)がつきます。
1856年アメリカの外交官であったハリスが日本にやってきて、日米修好通商条約の締結を迫ります。
ハリスはこのとき『フランスやイギリスが日本を侵略しようとしている、だけど、アメリカには日本を侵略する野心はない、日本が貿易をして関税収入を得て国力を付けたらいいのでは・・』と、いっていましたが、日本側が対応について先延ばし・・先延ばししていると、『平和的に接している私に代わって軍艦がやってくるぞ』と脅したのでした。
平和的に接していないよね~・・・
このとき清国では*アロー号事件が起きており、幕府は清国のようになっては大変だとの思いから通商条約締結はやむなし・・となりました。
アロー号事件
広東(中国)で清がイギリス国旗を掲げるアロー号を臨検して乗組員12名を逮捕しました。イギリス側は侮辱されたとして広東市街を砲撃、清国とイギリス・フランスが開戦し、この戦いで清国は半ば植民地となってしまいました。
主席老中であった堀田正睦は通商条約の調印について攘夷派(外国人を討ち払え)(徳川斉昭など)の意見を封じるために、天皇の許可を得ようと考えましたが、失敗してしまいます。なぜなら孝明天皇は大の外国嫌いでしたし、徳川斉昭や近くにいた公家たちから『幕府は天皇を蔑ろにしている、幕府は外国に対して弱腰過ぎだ』などと吹き込まれていたので勅許を拒否したのでした。
三条実美 名門出身のエリート貴族で穏やかなお人柄・・
岩倉具視 下級の公家で、策略、謀略を好み、孝明天皇暗〇疑惑がある人
朝廷の攘夷論
孝明天皇は外国人が日本に近づくのも嫌ったほどの大の外国嫌いで、その相手と貿易することなどがあれば皇祖に対して申し訳がない、というほどでした。
ですから朝廷では、諸大名が手を合わせ外国人の到来を禁止して、条約を拒絶し、戦になった場合は夷狄を討ち払え・・といったもので、諸外国の事情を話しても理解されませんでした
この堀田の行動は、朝廷の許可がないと幕府の政はできないということをハリスや日本全国に知らしめることになり、『禁中並公家諸法度』で朝廷が国政に参加することを禁じたものを幕府自らが壊した瞬間でもありました。
つまりハリスさんは幕府と交渉するのではなく、最高決定権をもつ朝廷と交渉する可能性が出てきてしまいました
確かにその方が話が早いしね~
でもね、そうなった場合、攘夷論が多い朝廷なので、通商条約は拒否するよね~
うんうん
拒否したら軍艦がやってくるよね~(日本が植民地になる可能性が出てくる)
おーまいがー
1857年、日米和親条約の締結や海防などの激務、開国派と攘夷派との間に挟まれ、神経をすり減らした阿部正弘は体調を崩してしまい、39歳という若さで亡くなってしまいました。
穏やかであり、徳川斉昭と相性の良かった阿部が亡くなったことにより、攘夷派の代表ともいえる斉昭と幕府の間を調整する人がいなくなってしまい、開国派と攘夷派の溝はますます深まってしまうことになります。
将軍家定の後継をめぐり、紀州(和歌山)の慶福(家茂)と一橋の慶喜(徳川斉昭の七男)のどちらを14代将軍にするかで争いが起きます。
従来の譜代大名による幕政を主導する井伊直弼が推す紀州の慶福(南紀派)と、幕閣政治を批判している徳川斉昭や島津斉彬が推す慶喜(一橋派)に分かれ激しく対立しました。
島津斉彬 薩摩藩の英明な君主といわれ、清(中国)でアヘン戦争が起こり、清という大国の敗北を知ると、西洋列強の脅威をいち早く察知します。斉彬が藩主になると国防のために西洋の技術を幅広く学び、造船事業や、反射炉、溶鉱炉などの建設に乗り出します。国際情勢を正確に認識しており、早くから「開国」を意識していたといわれています。
国難の時期を乗り越えるため英明とされる徳川斉昭の子である一橋慶喜を擁立するために様々な裏工作をしますが失敗に終わってしまいます。
斉昭さんも斉彬さんも早い時期から国防に対しての意識が高かったんだね~
どうしてなの?
薩摩は宝島事件というのがあって、水戸は大津浜事件というのがあったから国防に関しては敏感になったといわれているよ~
水戸藩 大津浜事件 イギリスの捕鯨船員が水戸藩の領内にある野菜を求めて浜に上陸した事件
薩摩藩 宝島事件 イギリスの捕鯨船員が牛を強奪しようとして宝島に上陸した事件
牛を強奪・・・
こういった事件があり、今回のペリー来航にしても前年にオランダから情報を得ていたにも関わらず幕府は何の対策もしなかったことに失望や焦りがあったといわれています。
だから、従来の政治を行うことについては反対だったと思うんだ
なるほど~
外交では条約の調印の期日を延ばしに延ばし、内政では朝廷から勅許をもらえないという、国にとって最大の危機といったときに 安政5年4月23日(1858年6月4日) 譜代大名の井伊直弼(44歳)が大老に就任しました。
大老といった役職は老中より上の地位であり、幕政を主導し強権を発動できる職位でした。
直弼は朝廷からの勅許を得てからハリスとの条約の調印を行いたかったのですが、延ばしに延ばしていた調印期日のためハリスの顔がどんどん険しくなり、これ以上の延期は難しくなっていました。
朝廷から勅許を得られなかったので
条約の調印はできないといった場合 → 戦争になり、防衛が不十分なので、負けて占領される
朝廷から勅許を得られなかったが
アメリカと条約を締結した場合 → 戦争を回避でき占領されることはないが、ある程度の外国の要求をきかなくてはならず、朝廷の勅許がないのに調印したということで攘夷論者が激怒する
井伊さん、みんなに嫌われちゃうけど、条約を締結したんだね
うぅぅぅぅっ
朝廷からの勅許は得られないまま 安政5年6月19日(1858年7月29日) 「日米修好通商条約」に調印します。
条約内容は日本は関税自主権を持たない、治外法権など日本にとって不利な条件になってしまいました。貿易がはじまると米・麦・生糸などがたくさん輸出されるようになり、国内では品薄になったため価格が高騰、経済が混乱した結果民衆の人々の反幕感情が高まっていきました。
直弼の独断的な政治決定(勅許なしの調印)を糾弾するために、徳川斉昭、慶篤(水戸)と徳川慶勝(尾張)、一橋慶喜(後の15代将軍)、松平春嶽(越前)などの大名が決められた登城日ではない日に江戸城に押しかけました。
決められた日ではない日に登城したとして処分されます。
徳川斉昭 → 謹慎
徳川慶勝、松平春嶽 → 隠居
徳川慶篤、一橋慶喜 → 登城停止
大混乱の中、14代将軍は慶福
島津斉彬の養女で次期将軍を慶喜にするため、13代将軍家定の正室としておくりこまれた篤姫でしたが、慶喜の父は徳川斉昭で、何かと幕府の政治に対して口を出し過ぎることと、大奥に嫌われているせいもあってか、家定が後継に選んだのは大老の井伊が推している南紀派の慶福(家茂)でした。13歳で14代将軍となり慶福改め家茂となりました。
ここが大きなポイントとなるんだけど、譜代大名による幕閣政治といった従来の政権の権限を守るために井伊大老が推す家茂さんが将軍になったんだよね
それはだめなの?
いままでの外国との対応で幕府の威信と信頼がなくなってしまっているのに、改革をしないという選択をしたのはまずかったかもしれない・・
安政5年7月6日 13代将軍徳川家定が急逝します
その10日後、薩摩の島津斉彬が亡くなりました(病気でコレラであったといわれています)
短期間に2人が亡くなり、しかも島津斉彬は兵を引き連れて上洛を計画していたともいわれ、暗〇説がささやかれています
島津斉彬公が長生きしたら幕末が大きく変わっていたとよくいわれるけど・・
よく聞くよね~
ずばり!変わっていたと思う
それは何で~?
斉彬公がいたら西郷さんも大久保さんも勝手に動けなかったと思うから~
ほ~
あぁぁぁぁぁ斉彬公だったら慶喜公とどんな政治をしたんだろうね~
さぁ・・・
孝明天皇が 大老の井伊直弼が独断で行った条約調印について激怒します。そこで水戸藩に戊午(ぼご)の密勅を出しました。
戊午の密勅の内容
勅許がなく条約に調印したことを糾弾しなさい
御三家、諸大名は攘夷(夷敵を打ち払うこと)を決行しなさい
このことを全国の諸大名に伝達しなさい
朝廷では幕府ではなく、水戸藩に密勅を出し攘夷決行を促しているので、このことは幕府の威信を著しく失墜させる行為でした。
この行為に激怒した直弼は水戸藩に対して密勅の返納を求めました。しかし水戸藩の尊王攘夷の激派とよばれるひとたちは、密勅の返納に強く反発しました。
これにより直弼は戊午の密勅に関わった尊攘派の志士たちの弾圧(安政の大獄)をはじめたのです。
安政7年3月3日(1860年3月24日) 登城のため彦根藩邸を出た大老 井伊直弼は江戸城桜田門外に差し掛かったところで、水戸の激派といわれた脱藩浪士たちと薩摩藩の脱藩浪士たちにより襲撃され命を落としてしまいました。
大老が命を落とすという事件は幕府の権威をさらに失墜させることになり、尊攘派の勢力が一段と増すことになります。
その約半年後、水戸で蟄居中だった徳川斉昭は突然亡くなってしまいます。(発作とも暗〇ともいわれていますが真相は不明です)
大老 井伊直弼の事件のあと、尊王論者たちは天皇の意見を無視して開国をした幕府に対してより一層批判を強めていました。
そしていつのまにか尊王攘夷から尊王倒幕運動へと変化していきます。
幕府は朝廷との対立を回避するため、協調路線を画策し、皇女和宮の降嫁を朝廷に求めました。
しかし、公家と武家が公武一和という政略結婚の話がもちあがったとき、和宮は有栖川宮と婚約していました。
孝明天皇が岩倉具視の意見を聞き、幕府に対し、外国との通商条約の破棄を命じ、攘夷を決行し、それを了承するなら和宮を降嫁させるといった実現不可能な条件を出します。権威が失墜しきっていた幕府はその条件を了承します。
ん??外国との通商条約を破棄したら大砲が飛んできちゃうよね・・
そうなんだよ~だから条約は破棄できないんだよね~
うんうん
でも朝廷は大の外国嫌いだから、攘夷(外国人を討ち払う)もしなければならないんだ
すっごい矛盾だ・・・
これにより和宮は1862年 徳川家茂のもとに降嫁することになりました。
しかしこの公武合体は、幕府が権威を回復するために朝廷の権威を借りたと解釈する人達が多く、幕府の思惑は大きく外れてしまうことになりました。
どんどん混乱の度合いが高くなっている気がする
島津斉彬の異母弟で、幕政改革を迫るため大砲を備えた1000人ほどの薩摩藩兵を率いて軍事力を見せつける形で上洛します。
寺田屋事件
このころ京都では「尊王攘夷」という名のもとにテロ行為が頻発(幕府寄りの公家を襲撃したり、富豪の家屋に浸入して強盗、京都所司代でさえ命の危険がありました)しており、治安が著しく悪化していました。
そんな中、久光は薩摩藩の中でも過激な尊攘派の藩士たちの取り締まりを始めます。公家などの襲撃を計画し寺田屋に集まっていた者たちの粛清をはじめ、6名が亡くなります。
これは薩摩藩士同士が斬り合うことになったのですが、尊攘派の過激な行動を未然に防いだとして、久光の評価が高まり、朝廷から京都の警護を任されることになりました。
さらに朝廷は幕政改革と将軍家茂の上洛をもとめるため島津久光を護衛につけて勅使を江戸へ派遣しました。文久2年6月(1862年7月)このときの幕府には勅許を拒むという力はなく、徳川慶喜、松平春嶽の復権を認めることになります。
大名が朝廷と接近することは固く禁じられていたんだけど・・
本当だ 気が付かなかった・・
このことでも幕府が弱体化しているということが分かるよね~
そのころ京都では尊攘派の志士たちが要人たちを襲撃するテロが横行しており、そこで幕府は京都守護職として会津藩主 松平容保を任命しました。
文久2年8月21日(1862年9月14日) 久光が江戸から帰る途中の東海道、生麦村を通りかかったところ 行列を乱したとしてイギリス人4名を薩摩藩士が斬りつける事件が発生し、1名が亡くなり、2名が重傷を負ってしまいました。
文久3年2月13日(1863年3月31日)出発14代将軍 徳川家茂は家光以来229年ぶりに朝廷の攘夷実行の求めに応じるために上洛することになりますが、この2月にイギリスの軍艦12隻が横浜に入港し幕府に賠償金を求めてきました。拒否した場合報復攻撃され開戦の危機だったのです。
攘夷実行の求めというのは~・・・?
幕府が外国人を追い出さないことに対して朝廷が「家茂さん、説明しにいらっしゃって」という感じだと思うよ~
幕府は、朝廷に攘夷(外国人を打ち払え)決行を迫られているので、イギリスに対して幕府が賠償するわけにもいかず、文久3年5月9日に老中の小笠原長行の独断で偶発的な事故として賠償金を支払い、一時イギリスとの間で緊張状態となり一触即発の危機という事態になっていましたが、戦争を回避することができました。
が、この翌日 文久3年5月10日(幕府は攘夷の期限としていた)に長州藩は下関海峡を航行していた外国船に対し砲撃を行います。幕府は専守防衛原則を出していたのですが、それを無視しての攻撃でした。
話は戻り、イギリスは薩摩藩に犯人の処分と賠償金を要求しますが、支払いを拒否したため薩英戦争が勃発するという事態に陥ることになります。
1863年8月15日 薩英(薩摩藩 対 イギリス)戦争がはじまりましたが、イギリスの強力な軍事力で3日という短い期間で薩摩藩の砲台は破壊され、城下町は攻撃により焼けてしまい、大きな被害を出すことになります。
この薩英戦争により欧米列強の強さを知り、攘夷は難しいと悟ったとされています。
攘夷実行の求めに応じて上洛していた将軍 家茂が江戸に帰ったあと、京都は再び攘夷倒幕一色になり、突如、「大和行幸の詔」が出されました(文久3年8月13日)。
しかし、これは孝明天皇の御意思ではなく、尊攘夷派の公卿 三条実美らが長州藩と組んで幕府討伐をしようとしているとして孝明天皇御自ら名言されました。そして、三条実美に対しては「国賊」であるとまで怒りを表したといわれています。
国賊って強いお怒りだね~
三条さんは穏やかなお公家様だから利用されてしまったのではないかと・・・
そしてついに8月18日 御所の警備をしていた会津藩と薩摩藩は御所の門を閉め、尊攘派の公家たちの参内を阻止し、長州藩も警備の任務を解除され、過激な尊攘派といわれる人たちを御所から追放しました。三条実美ら七名が西国に下って(七卿落ち)いき、京における尊攘派の勢力は著しく低下することになりました。
1864年 1月に家茂は軍艦で大坂に入り、再び上洛し参内します。
このときの高田藩士の上洛日記が残されています
家茂が大阪城に入城する様子など当時の記録が残されている日記です
過激な尊王攘夷派たちがいなくなり、公武合体派の一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、松平容保(かたもり)、伊達宗城(むねなり)、島津久光などからなる合議制会議で、朝廷から参与に任命されますが、長州藩の問題と横浜鎖港問題などの意見の違いにより参与会議は数カ月で解散となってしまいました。(文久3年12月末からわずかの時間で崩壊)
理由として、朝廷が強固に横浜港を閉鎖させるべきとの攘夷姿勢を崩さなかったので、慶喜はあえて横浜港の閉鎖を提案します。これに対し薩摩は横浜港の閉鎖は不可であるとして反対します。
慶喜は初めから横浜港の閉鎖は不可であることは知っていましたが、慶喜は生粋の尊王であることと、攘夷派が多い朝廷内で主導権を握るためこの提案をしたといわれており、久光と感情的な口論となり解散したといわれています。
池田屋事件とは?
新撰組(会津藩管轄の将軍警護、京都治安維持などを担う組織)により、怪しい商人がいることをつきとめます。商売をしていないのに、暮らしぶりは困っておらず、しかも長州人が集まっているようだ、ということで不審に思った新撰組は古高俊太郎を捕縛し尋問します。
そして武器や弾薬などを発見したので拷問して問い詰めるとこのような計画を企てていることが分かりました。
拷問・・ぶるぶるぶる
元治元年(1864年) 6月のとある風の強い日を狙い御所に放火し、公武合体派の大名を始末して孝明天皇を長州藩(山口県)に連れ去り攘夷を決行する
この計画を知った新撰組は、元治元年6月5日(1864年7月8日)尊攘派の志士たちが集まる池田屋に突入し、11名を斬り、20名余を捕縛しました。
八月十八日の政変と池田屋事件により、長州藩主である毛利敬親と定広の京都への立ち入りを禁止されます。これに怒った長州藩の尊攘激派たちは藩主の復権を求めるために京都へ進軍します。
元治元年7月19日(1864年8月20日) 長州藩の急進派が猛反発して幕府諸藩が守る京都御所(蛤御門で戦った)を攻撃する『禁門の変』が起きてしまいます。この戦いでは幕府軍が勝利することになりますが、京都の市街地のほぼ半分が焼けてしまいました。
7月23日、長州藩は御所に向けて発砲したことにより、朝敵となり長州藩追討令が出されます。
しかし、8月5日 長州藩に対し四国連合艦隊(アメリカ・イギリス・オランダ・フランス)の軍艦17隻が下関で砲撃を開始します。これは下関海峡を通過する外国船(アメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦)に対し長州藩の攘夷派たちが砲撃したのに対する報復攻撃でした。
この攻撃により3日で長州は壊滅状態となり降伏することになりました。長州藩も連合艦隊と戦い攘夷の難しさを知り開国へと方針を変えたといっています。
長州藩はまだ危機的状況にいました。なぜなら幕府に長州藩追討令が出されており総攻撃が予定されていたからです。
しかし、総攻撃が始まる少し前に西郷隆盛が独断で長州藩と講和したことで第一次征長軍は解散することになりました。このときの征長総督は徳川慶勝でしたが、西郷隆盛に対し責任を取らせることもなく、撤兵させました。
元治元年12月 高杉晋作は功山寺で決起します。そして長州藩の保守派との戦いに勝利すると長州は倒幕派に統一されます。
慶応2年6月(1866年) 幕府が第二次長州征伐を開始しますが、各地で敗戦しました。というのも慶応2年の1月には薩(薩摩藩)長(長州藩)同盟が締結しており、薩摩藩はイギリスから洋式武器を密輸入していて、その武器が長州藩に渡っていたためでした。ですから初めから薩摩はこの戦いに参加しないと拒否しています。
慶応2年7月20日(1866年8月29日) 将軍家茂が大阪城で亡くなり、朝廷から征伐の中止の勅命が下りました。
慶応2年12月 5日(1867年1月10日)将軍職を固辞していた慶喜が征夷大将軍(徳川15代将軍)に就任します。
慶喜が将軍に就任すると、ただちに製鉄所と造船所の工事が開始されたり議会制を取り入れ、幕閣政治の改革に取り組んだり、フランスから軍事顧問が来て訓練を行ったり、徳川幕府としてどんどん力を増幅させていきました。討幕派はそれに大きな危機感を抱きました。
慶応2年12月25日(1867年1月30日) そんな中で攘夷論者でしたが、極めて幕府寄りの孝明天皇が崩御されました。(病気説、暗〇説が濃厚 岩倉具視、大久保利通、伊藤博文説有り)これにより朝廷内の力関係の激変が起こります。
孝明天皇が崩御され、幕府の最大の庇護者がいなくなったことにより薩摩藩や長州藩は倒幕のために朝廷から勅許を得ようとしていました。そして倒幕の許可が出され、これが慶応3年10月14日でした。
しかし同日、慶応3年10月14日(1867年11月9日) 徳川慶喜は大政奉還を行い政権を朝廷に返したため、討幕派のいう政権を返さないと武力攻撃する、という大義名分をなくしてしまいました。
慶応3年12月9日(1868年1月3日) 政権を返上しても朝廷に政治を行う能力はなく、このまま慶喜が主導権を握る可能性が高くなってきました。しかし、慶喜がいると主導権を握れないと焦る討幕派(西郷、大久保、岩倉、木戸たち)は明治天皇のもと*王政復古の大号令というクーデターで対抗します。
王政復古 徳川幕府にあった政権を王政に戻すこと
王政復古という天皇中心の新政府樹立を宣言したことで、徳川を政治から追い出すことにしたのですが、その後 尾張、土佐、越前などの意見により慶喜の朝議の参加という話がでてきました。慶喜側の朝廷内工作がうまくいき、新政府にあと少しで参加でき、慶喜が再び主導権を握るというところまできていました。
そこで慶喜に主導権を握られては困る西郷隆盛と大久保利通は江戸市内で放火、強盗、略奪、〇人、乱暴狼藉(テロ活動)を働きわざと幕府を怒らせ、薩摩藩邸に襲い掛かるのを待つという作戦に出ます。
西郷さんって犬を連れた穏やかな人だと思っていた・・
たぶんいつも犬を連れているわけじゃないと思うよ・・
しかし警戒していた慶喜ですが、幕府も我慢の限界だったのでしょう。薩摩藩の乱暴狼藉にたまりかねて邸を焼き討ちにしてしまい、その後 幕軍が進軍しているとの情報が入り、ついに倒幕の口実を与えてしまいました。ここでどうしても武力で幕府を倒したい薩長を中心とする勢力 対 徳川幕府との戦いが始まってしまいました。
鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争に討幕派は勝利します。
250年以上続いた徳川幕府が完全に終わり、新政府になり江戸を東京と改称し、版籍奉還(大名が治めていた土地と領民を朝廷に返す)、廃藩置県(藩をなくして、県を配置)が断行され、中央政権国家(政治の権限が中央政府にあること)となります。急激な近代国家へと変革していく明治という時代になり、このありとあらゆる新しい政治変革を明治維新といいます。
おわり
以上ゆる~い「国内を混乱に陥れたペリー来航から明治維新まで」でした
なんとなくゆる~く分かった