尊王攘夷という名に隠れた倒幕の思惑があった?!

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こばん店長
こばん店長

ゆる~い歴史ブログなのでゆる~く読んでくださいね~

        

 

アダム
アダム

だから今更・・

       

  

明治維新とは何だったのかを分かりやすくゆる~く解説しています 

   


    

ペリーが来航し、今まで外国に対し何の対策もしなかった幕府に対し失望や不満の声が出てきました。また、もとから政治に参加できなかった親藩や外様や下級武士など不満をもっている人達が、夷狄を打ち払えという朝廷側を支持し、国内で急激な尊王攘夷の風が吹き始めたのです。ですから尊王倒幕というのは自然な流れでした。

  

  

日本の国難ともいえる大事な時期にあらゆる人の意見を聞いたり従来の政権の権限を守るために行動してしまい、幕府は自ら弱体化します。そして弱体化している幕府を反幕府側(反政府側)が外国の支援により政権を奪取することに成功しますが、慶喜が徹底抗戦を呼びかけた場合、国を二分する長い内乱が起きる恐れがありました。そこを外国から攻撃された場合ひとたまりもなく非常に危険だった時代ともいえます。

  


吉田松陰とは?!

  

吉田松陰の「松下村塾」には、幕末で有名な高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋などの他大勢の教え子がいました。

      

  

  

松陰が少年のころに、大国であった清国がアヘン戦争でイギリスに敗北したのを知ると西洋列強に対し脅威を募らせます。そして軍事力の違いに危機感を抱き西洋のことを学ぼうと佐久間象山に教えを請うたり防衛施設を見に行ったりしたようです。

  

  

  

まず驚くのが、松陰はオランダ船に乗り込んだり、ペリー来航時には軍艦に近づいて外国に連れて行ってほしいと頼んだりと、衝動性の強い行動がみられる人物です。

  

  

  

当時密航は重罪とされていて見つかった場合ただでは済みません。その後牢屋に入れられ、実家に幽閉となっている間に塾を開き幕末の革命家たちを育てたといわれています。

  

  

  

さて、ぺりーが来航したときに幕府の老中だったのは阿部正弘ですが、アメリカの軍事力をある程度把握していたので、無謀に戦わず、外国と貿易や交流をして国力、軍事力を高めるべきという考えの持ち主でした(開国派)。一方、吉田松陰は日米修好通商条約が締結されると激怒して、老中の暗〇を企てたり、教え子たちには決起を促したりするなど過激で強い倒幕の思想がありました。

  


倒幕しなければならない理由

    

  

ペリーが来航してからいきなり幕府が弱体化したのではなく、飢饉や災害の多発などで飢餓が起こり大塩平八郎の乱なども起きて幕府はこれといった対策を打ち出せず、徐々に幕府の政治にも陰りがみえてきました。

  

  

そしてペリーが来航すると日米和親条約を締結したり、日米修好通商条約を締結したりと外国に対して弱腰に見えてしまい、こんな弱い幕府に政治を任せていては危ないと幕府ではなく、天皇を中心とした政治を行い、外国人を討ち払うべきだという思想が生まれました。これを尊王攘夷派といいます。そして、尊皇攘夷のために手段を選ばないありとあらゆる(テロ行為ともいえる)行動をし始めるのです。

  

  

水戸の尊王攘夷論の本質とは?!

 

尊王攘夷の代表ともいえるのが水戸藩の徳川斉昭です。 水戸藩には水戸学があり、それは天皇の臣下として徳川幕府があるというもので、幕末の思想はここから始まります。

  

斉昭の師匠といわれる会沢正志斎の著書『新論』とは、どんな内容だったのかというと ↓ 

  

西洋は攻めては来ないという人がいるが、攻めてこないと思って国の防備を疎かにして もし攻めて来た場合どうするのか

  

  

  

国難において、今こそ天皇を尊び(精神的な支え)国力をつけ、国民が団結して(各藩協力して)攘夷をしなければならない(外交や軍事について対応していこう)

  

  

  

国民みんなが一致団結しなければ外国と対峙できない といった思想

  

  

日本全国が天皇を尊び、この国難を一致団結して乗り越えていかなくてはならないとした教えでしたが、その考えを曲解して、天皇を中心とした政をするべきで、弱腰の幕府のいうことなど聞くことはない、夷狄はもちろん、開国派の奴らも討ち払え、とした過激な尊王攘夷論が生まれてしまいました。

  

  

このため、会沢正志斎のいう尊王攘夷とはかけ離れた思想をもつ過激派の志士たちが藩を脱藩して暴走をはじめてしまいました。

    


長州の革命家たちも外国好きだった?!

   

幕末の京都にはテロリストともいう尊攘派が集まり、開国派には「天誅を加える」といった脅迫行為が横行していました。無差別ともいえるテロもあり、(凄惨過ぎてここでは書けません)治安が悪化していました。

   

  

このような過激な思想に孝明天皇は強い危機感をもたれたといわれています。しかし、尊王攘夷といってもみんなが本当に「尊王」だったわけではなく、また「攘夷派」といっても本当は開国派もいました。

    

     

1863年1月31日 長州の井上馨、伊藤博文、高杉晋作、久坂玄瑞は攘夷(外国人を討ち払え)と叫んでイギリス公使館を全焼させるなどテロ行為を続けて行います(攘夷行動)。生麦事件に次ぐ事件が起こり幕府はイギリスに対し、より一層不利な立場に陥ることになりました(幕府を弱体化させる倒幕行動)。

  

  

  

1863年6月25日( 文久3年5月10日)長州藩は攘夷と叫んで下関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃しました(攘夷行動)。翌々日 1863年6月27日(文久3年5月12日)、井上馨や伊藤博文などがイギリス船に乗ってロンドンに渡り海外の知識を学んでいたりします(開国派行動)。7月8日フランス軍艦砲撃、7月11日オランダ軍艦砲撃(攘夷行動・幕府を弱体化させる倒幕行動)。

   

  

この砲撃をしたのに対して長州藩は四国連合艦隊から報復攻撃を受けてしまい、3日で壊滅状態となってしまい降伏します。

  

  

イギリスから長州藩に対しての講和条件

    

外国船の下関海峡を通過するときの安全を確保

  

石炭 食料 水などの確保

  

海難にあった際の外国船の上陸

  

台場の新設を禁止

  

賠償金三百万ドル 

  

  

この講和交渉をしたのが、長州の高杉晋作で、到底払える金額ではなかったので交渉は難航しますが、高杉がこの戦争の発端は幕府が約束した攘夷決行をしただけなので、賠償金は幕府に請求するべきだとの大分強引な責任転嫁に成功します。

  

  

アダム
アダム

三百万ドルってどのくらい?

  

  

生麦事件の2万5千ポンド(60億3330万円)が10万ドルとのことなので、1809億9900万円になります。

     

  

アダム
アダム

あわわわわわわ

  

  

ちなみに、この時代はあちらこちらで賠償金を払っていますが、幕府が払ったもう一つは、薩摩の島津久光が江戸の帰り道の生麦村で、馬に乗って横切ったイギリス人を行列を乱したとして藩士が殺傷した事件です。

    

  

生麦事件のイギリス側の要求

① イギリスは幕府に対し謝罪と11万ポンド(265億4650万円)の支払いを要求

  

このうち一万ポンドは東禅寺事件(イギリス公使館が置かれた東禅寺を襲撃した事件)の賠償金

  

② 薩摩藩に対し、犯人の処分と2万5千ポンド(60億3330万円)の支払いを要求

  

③ この要求を拒否した場合イギリス艦隊は報復攻撃を開始する

  

  

薩摩藩は賠償金2万5千ポンドを6万333両を幕府から借用して支払ったとのことなので、それをもとに1両10万円で計算しています。

  

*1両10万円  幕末武士の京都グルメ日記 山村竜也氏著を参考

 

イギリスと講和交渉が終わると両者は友好関係になり、イギリスから支援も得られ、この後に起きる倒幕ではその近代的な武器により勝利を得ることになります。

  

  

こばん店長
こばん店長

この話の凄い所は幕府から賠償金をもらって、薩摩藩に倒幕の為の武器を売っているところ

    

    

  

アダム
アダム

幕府はもうお金がないもんねぇ 薩摩藩はあったの?

    

    

  

こばん店長
こばん店長

薩摩藩は密貿易でお金をたくさん持っていたから大量の武器が買えたといわれているよ~

    

  

  

薩摩藩は密貿易や奄美のサトウキビでつくる黒糖の専売制を始めて莫大な利益があり、藩の財政を支えていたといわれています。

  

     


  

尊王攘夷とは幕府を倒すための口実

  

  

薩摩の西郷隆盛が尊王攘夷というのは幕府を倒すための口実である、今更?といって鳥羽伏見の戦いの前に 岩倉具視や薩摩藩士 有馬藤太が聞いて驚いたというエピソードがあります。

  

  

西郷隆盛と岩倉具視

    

  

アダム
アダム

あれ?じゃあ、みんな騙されていたってこと?

    

  

  

こばん店長
こばん店長

う~ん・・ねぇ~・・騙していたというか、黙っていたというか・・・

    

  

  

アダム
アダム

攘夷といっていても開国派もいたんだね~

    

  

攘夷派もいましたが、裏では開国派もいたといわれ、倒幕のために「尊王攘夷」といって幕府を外国からも国内からも窮地に陥らせて、弱体化させていたといわれています。

  

 

アダム
アダム

ほうほう 作戦だったのね

  

  

そもそもにおいて、『尊王攘夷』がなければ倒幕する火種はないはずで、老中 阿部正弘の『無謀に戦わず、外国と貿易や交流をして国力、軍事力を高めるべき』という考えでよかったということになります。実際、倒幕後の新政府は「文明開化」といって攘夷とはかけ離れた政策を行っていることからも幕府の考えと大体同じであったのだと思います。

   

  

  

また、薩摩と長州は薩英戦争や下関戦争で外国と戦い攘夷の難しさを知って、「開国」と大きく考えを変えたとされているので、その後に開国路線の幕府を倒幕というのはどうして必要だったのかが不明です。

  

  

  

では、なぜ倒幕をしなければならなかったのか?についてですが、徳川慶喜が将軍に就任してからは、製鉄所と造船所の建設工事が始まり、横浜の伝習所が設立されたり、軍事顧問が来て訓練も開始されています。また、慶喜は内閣制度も取り入れ幕閣政治の改革も行っています。ということは、従来にいわれてきた幕府政治に対し改革するべきだとの声ももうないはずです。

  

  

  

不満がある点として、徳川幕府による開国というのが困る、という点です。開国となれば幕府領となっているところが開港して幕府のみが潤うという仕組みが出来上がります。言葉は悪いですが、せっかく幕府が弱体化しているのに貿易により強大な軍備を手にして力を巻き返してしまったら、外様や親藩や下級武士たちはまた政治に参加することができなくなります。そして、その後慶喜は雄藩の力を徹底的に削ぐという手段に出たと思われます。

  

  

  

島津斉彬が藩主だったころは、徳川慶喜を次期将軍にするべく活動していましたが、斉彬が亡くなり異母弟の久光が藩の主導を握るころになると、幕府の力は弱りきっていました。

  

  

  

公武合体派として雄藩連合で国政を行うという路線でしたが、参預会議も不調に終わり、幕府中心の政治を行うべく動いた慶喜のもとでは薩摩が中央政権にいること自体難しいと感じた大久保と西郷が倒幕へと突き進んだと考えられます。

   


廃藩置県で久光激怒

   

1871年 *廃藩置県が行われた日に久光怒りのあまり一晩中花火を打ち上げて抗議の意を示したといわれています。

  

  

廃藩置県 明治政府が江戸幕府以来の藩を廃止して県を置き中央集権国家とする行政改革

  

  

  

アダム
アダム

久光さんはなんで怒ったの?

     

    

   

こばん店長
こばん店長

え~っと、廃藩をすることがないように、と西郷さんに釘を刺したんだけど完全に無視して廃藩置県を断行したことに腹が立ったんだと思うよ

  

    

  

アダム
アダム

ほうほう

    

    

  

こばん店長
こばん店長

久光さんは、その~お兄様と違って権力欲があったといわれていて・・・・

  

  

薩摩藩は石高は高く優秀な殿様が多かったのですが、外様ということで幕政には参加できませんでした。島津久光は幕政改革をして自分が中央政権に入るという強い思惑があったらしく、自分が中心になって政治を行えると思っていましたが、それを大久保利通と西郷隆盛に横取りされてしまった形になったので大激怒したといわれています。

  

        

アダム
アダム

あら~

      

  

大久保利通と西郷隆盛は、久光のもつ薩摩藩の財力と薩摩藩兵をつかい倒幕に成功します。その後版籍奉還廃藩置県により殿様たちの権利を奪うという形になってしまい久光は大激怒したのでした

      

  

版籍奉還 藩主のもっている先祖代々の土地を朝廷に返還すること

廃藩置県 藩がなくなり、県になった → 殿様という身分ではなくなった

  

  

こばん店長
こばん店長

だからね、久光さんの晩年の口癖は「余は西郷と大久保に騙された」でした

    

  

アダム
アダム

へぇ・・

   

  

こばん店長
こばん店長

以上ゆる~い尊皇攘夷とは何だった?でした