この記事には広告を含む場合があります。
記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。
元治元年7月「禁門の変」で御所に発砲したことにより、長州藩が朝敵となり追討令が出されました。第一次長州征伐は講和しましたが、その後長州藩の中で倒幕派たちが保守派を一掃すると再び倒幕に向けて動き出します。その動きをみて幕府は第二次長州征伐を開始します。
しかし、薩長同盟が締結されていたことにより長州藩は洋式の武器を多数手にしていた点、幕府軍の指揮命令系統がうまく機能していなかった点、地理的に不案内だった点などで幕府軍は各地で大敗北を喫することになり、幕府の権威は大きく失墜したのでした。最前線で戦っていた高田藩や彦根藩は倒幕派の激しい勢いを感じたと思います。この戦いで高田藩は35名が亡くなっています。
高田藩士の庄田直道は高田に帰る途中の大坂で、第二次長州征伐の小瀬川での敗北を『高田藩の大恥辱』とし、自らを「敗軍者ノ罪人」といい「幕府の末路」であると記し大変悔しがったといわれています。
慶応3年10月 徳川慶喜が大政を奉還します。
慶応4年1月3日 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍に勝利し、薩摩、長州のいる新政府軍が江戸に進軍します。
高田藩は藩として「勤皇」か「佐幕」かの判断を迫られることになりました。藩論は二分しますが、重臣会議を開き、朝廷には徳川家の存続を願う『哀訴状』と徳川慶喜に対しては、朝廷に謝罪し、恭順・謹慎されることが徳川存続の道であるといった『諌諍状』を行うことが藩の方針として決まりました。
日本の国難、外交の危機という非常なときに国内で争っているときではない、というのが慶喜の考えだったと思います。まして慶喜が討たれたり、徹底抗戦を呼びかけた場合は全国の恭順といっていた藩も戦いに参加してまさに国を二分する長い内乱の恐れがありました。内乱が起きると民は疲弊し、国力は低下してしまいます。そんなとき外国から攻められたらあっという間に植民地になっていたと思います。これについて、外国は攻めてくるはずがなかった、という方もいますが、外国は開国を求めにきて、開国をしないのなら大砲で江戸を総攻撃すると脅していた人達です。朝廷より、薩摩・長州よりも国のトップとして諸外国の情報を持っていた慶喜が欧米列強の脅威を感じた結果、何よりも『国家を優先』し内戦を回避したのだと思います。慶喜がフランスからの軍事支援を断っていることからも誰よりも国家を考えていたのではないでしょうか。
武士として戦って討たれた方がはるかに本望という時代に『朝敵』の汚名を着せられ『逃げた将軍』などという屈辱に耐えなけれなならなかった慶喜の心はどのようなものだったのでしょうか。
高田藩は『哀訴諌諍』のため動き出します。慶応4年2月8日に徳川慶喜に対し謹慎・恭順
を促す『諌諍状』を出し慶喜から榊原家は『諫書は至極尤で流石の家柄』だと伝えられました。
2月23日 朝廷方に対し『哀訴状』が提出されましたが、高田藩は「不審藩」ということで却下されてしまいます。
朝廷は各藩を「勤皇」「朝敵」「不審」に分けていました。榊原家高田藩は徳川四天王とよばれた譜代で越後の旧幕府領の管理を会津藩、桑名藩と共に命じられていたことが不審藩の筆頭に挙げられた原因です
慶応4年2月3日 高田藩に新政府に協力するかどうかを問う勅書が新政府から届きました。
高田藩は、慶応4年1月24日に重臣会議において「徳川慶喜の赦免、天皇に忠勤を励む」とし、翌日 全藩士を集めた上で「哀訴諌諍」を藩是として決定しています。
その後、高田藩は恭順の誓書を出し「不審藩」の解消に努めつつ、徳川慶喜追討令が出されると東征軍の進行の中止と『哀訴状』を再び提出し、慶喜への寛大な処置を懇願しますが受け入れられません(4月22日(江戸無血開城の後)になり、ようやく朝廷方が『哀訴状』と『再哀訴状』を受理しました)
慶応4年4月11日 江戸城を明け渡し、徳川慶喜は水戸での謹慎となります。
慶応4年閏4月29日 徳川家の家名存続が認められ田安亀之助(駿河70万石を与えられた)が徳川宗家を相続しました。
明治2年4月 高田藩は東京城からほど近い場所にある小川町の上屋敷を静岡藩に譲渡しています。この藩邸には一時天璋院らも居住していました。
しかし、無血開城が行われ、将軍であった慶喜が恭順して謹慎しても旧幕臣たちは納得せず上野戦争やその後の戊辰戦争へと戦いが広がっていくことになります。
慶応4年5月 孝明天皇から一番信頼されていた会津藩主松平容保が孝明天皇が崩御され朝廷が薩長中心の政となったことで、『朝敵』となってしまいました。このことで新政府に対して対決の姿勢をとった東北・北越の諸藩によって『奥羽越列藩同盟』が結成されました。
古屋隊
幕府歩兵隊だった古屋 作左衛門が幕府軍を脱走した者たちを集め結成した組織で江戸を奪還すべく各地を転戦しました。
強い佐幕の志をもつ古屋作左衛門と旧幕府軍歩兵隊が越後にやってきました。(一説によると勝海舟が徳川家を守るために血の気の多い元幕臣たちを大量に江戸から追い出したともいわれています)
古屋隊は鳥羽・伏見の戦いで敗北してから、下野(足利市)で新政府軍と戦い敗走、会津経由で越後にやってきます。4月16日高田藩領を通過して松本(長野県)まで行軍すると先触れしてきました。高田藩は御用人を派遣して古屋隊に対し『粗暴之義一切不仕旨』(粗暴な行為はしない)との誓書をとり、宿泊地を高田宿から新井宿へと変更させましたが、通行を許可してしまいます。やはり根底には同じ「佐幕」の志があるので、古屋隊を迎え撃つということはしませんでした。
しかし、4月20日 古屋隊は高田藩に通告もなく新井から飯山街道へ進路を変えて飯山領内に入り陣を構えてしまいます。高田藩は目付を送り誓約違反を咎めて武器を放棄するように通告しますが当然のように聞き入れません。
4月24日 新井宿に留まっていた古屋から『軽挙暴行』はしないといった文章を提出させますが、翌4月25日に飯山藩の救援にかけつけた尾張・松代藩が古屋隊を砲撃(飯山戦争)したため古屋隊は新井宿に引き返してきます。尾張・松代藩が古屋隊を追って高田藩堺まで迫ってきてしまいました。このまま古屋隊を藩内に留めていたら、朝敵の汚名、高田藩はお家の断滅、藩の存亡にかかわることになり、苦渋の決断をしなければならなくなりました。
高田藩は古屋隊を川浦代官所まで移動させ、4月26日に砲撃を開始しました。
『強い佐幕』の志で動いていた古屋隊への対応について、高田藩は迎え撃たずに領内を通行させるなどしたことについて不信を抱いた新政府軍は悪名高いあの軍艦 岩村精一郎を新井宿に派遣してきました。
岩村精一郎
土佐藩出身
慈眼寺(新潟県小千谷市)で長岡藩軍事総督である河合継之助と談判したことで有名。交渉相手が岩村精一郎でなければ長岡は戊辰戦争に巻き込まれずに済んだといわれた人物で、大政奉還が行われ江戸が無血開城した今、戦う必要はなく、各藩が恭順すれば平和裏に解決できる、とした西郷隆盛の考えを理解していませんでした。
継之助の「中立」といった嘆願を聞き入れず、30分で会談は終了したといわれ、長岡討伐が決まったといわれています。河合継之助率いる長岡藩が奥羽越列藩同盟に加わったことで新政府が戊辰戦争の中でも最大の苦戦を強いられることになりました。北越戊辰戦争では、新政府軍1040人、奥羽越列藩同盟軍1180人余りが亡くなっています(高田藩は激戦地で最前線で戦ったので103名が亡くなりました) その他 上野・函館・会津若松などで旧幕府軍として戦って39名が亡くなっています。
しかし、実は河合継之助は中立の立場ではなく、恭順の立場をとっていた藩士たちを追い出し、長岡藩は佐幕に統一されていました。また一方の岩村精一郎に関してですが、感情的で傲慢であったといわれていた岩村をわざわざ軍艦として新政府が送り込んだのは戦をけしかける意図があったのではないかともいわれています。(江戸城が無血開城され、血気盛んな薩長の兵をもてあましていたとの説も有ります)
岩村は新政府軍の代表者を集め協議を行い高田藩が謝罪しない場合は武力討伐することが決定されました。高田藩の家老 竹田勘太郎、中老 瀧見九郎兵衛、御用人 川上藤太夫 が呼び出され諸藩から詰問され弁明することになります。
何度も呼びだされましたが藩の存亡がかかる高田藩なので必死に弁明します。岩村精一郎が高田藩の態度に不信を抱き審問にやってきて、そのときの高田藩の傲慢な態度に腹を立てたといわれていますが、実際は反対で、岩村は強大な武力をちらつかせて高田藩に傲慢な態度で謝罪と恭順を迫りました。 高田藩の重臣たちは岩村との会談のあとあまりにも悔しい思いをしたために帰って座敷の奥に閉じこもり一晩中泣いていたとの話が残されています。
しかし高田藩は謝罪するとともに以後 新政府の先鋒となり戦うことを誓約させられたので激戦地の最前線で戦うことになるのでした。