スイーツ大好き将軍、徳川家茂が好きだったお菓子たちを紹介

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代々の徳川将軍の中でもスイーツが大好きなことで知られる徳川家茂をご存じでしょうか。この将軍、甘いお菓子が大好き過ぎて虫歯だらけになったことでも有名な方です。

  

そんなエピソードを交えながら、家茂が好んだスイーツをご紹介します。

  

この記事では、徳川家茂が愛したお菓子たちを紹介しつつ、どんな将軍だったのかについても触れていきます。

  

徳川家茂ってどんな将軍?

家茂が将軍となったのは13歳のときで、一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)と将軍継承をめぐる争いの中、大老の井伊の推挙により徳川家茂が継嗣となりました。

  

家茂、皇女和宮と結婚

和宮は仁孝天皇の皇女として誕生し、6歳で有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、公武合体のため将軍家茂に降嫁することになります。

  

そのときに和宮が詠んだ歌が

  

住みなれし都路出でて今日いく日 いそぐもつらき東路の旅

  

といったもので、兄の孝明天皇に頼まれ「天下の為」に辛いけど東路(江戸)に行きますといった歌を詠んでいます。

  

アダム
アダム

ものすごく嫌~って伝わってくるね・・・

    

  

こばん店長
こばん店長

・・・

  

しかし、家茂は穏やかで優しい将軍として知られていて、和宮にかんざしを贈ったりと二人は大変仲が良かったと伝わっています。

  

アダム
アダム

良かった 良かった

  


家茂の時代は激動と呼ばれる幕末で、「尊王攘夷」「尊王倒幕」といった世論の高まりや、イギリス公使館焼き討ち、生麦事件、長州藩による外国船への砲撃などで外国から莫大な賠償を求められるなど、問題が次から次へとやってきた時代の将軍でした。

  

13歳で将軍となり、21歳で脚気で亡くなるまでストレスのたまる毎日だっただろうなと考えると甘いものが食べたくなるのも頷けます。

  

自分の好きなお菓子を見つけることで、ちょっとしたひとときを楽しんでいたのかもしれませんが、31本中30本が虫歯という「お菓子、食べ過ぎだった?」と思わずにはいられない有名なエピソードもあります。      


徳川家茂が食べたお菓子たち

そんな甘いものが大好きなスイーツ将軍家茂の好きだったお菓子をご紹介します。

  

くらわんか餅

   

文久3年2月に家茂は上洛しますが、これは徳川3代将軍 家光以来約230年ぶりのことでした。家茂は生涯で3回上洛しますが、その上洛途中で各地から献上されたお菓子などを食べていたといわれています。

  

京都伏見と大坂の間は淀川を通る三十石船とよばれる船が行き来しており、旅人はこれに乗って移動していました。枚方のあたりで旅客船に小舟が近づき「酒くらわんか、餅くらわんか」といって半ば強引に売りつけるという手法で多くの旅人がくらわんか餅を食べたそうです。

  

上りで12時間、下りでも6時間かかる船旅だったようでお腹が空いたときには嬉しいサービスかもしれません。

    

江戸時代の初めから「くらわんか舟」と「くらわんか餅」は枚方の名物として知られ、家茂にも献上されたといわれています。

   

      


創業1829年・本間屋の柚餅子(ゆべし)

      

こちらの柚餅子は柚子ともち米、蜜を混ぜ合わせて蒸したもので、家茂にも長岡藩主(新潟県)にも献上され、家茂からはお墨付きを貰っているという伝統の和菓子です。

  

  

長岡藩からは家紋の使用許可と御用菓子にも任命されたお菓子で、生の柚子を使用しているため、柚子の芳醇な香が広がり、食感はモチモチとしていて美味しい柚餅子です。

  

まだ若い将軍がこの柚餅子を食べていた時間はほっとできる時間だったのかな?と想像しながら食べると感慨深いものがあります。

  

スイーツ将軍家茂がお墨付きを与えるほど美味しかった柚餅子は保存料や着色料無添加で安全安心のお菓子です。

  

  

   


家茂が実際に食べたと伝わるお菓子たちですが、激務に追われる毎日ながらも、お菓子の甘さは家茂にとって心を和ませる特別な時間だったのかもしれません。

  

虫歯だらけになりながらも甘いものが大好きだったという、まさにスイーツ大好き将軍といえます。

  

家茂と和宮のその後のエピソード

1866年 江戸にいる和宮のもとに家茂死去という悲しい知らせとともにお土産に頼んでおいた西陣織が届けられます。

  

家茂が上洛の際に、お土産は何がいいのか聞いていたようです。

  

しかしそれは、病に伏した家茂が和宮にした最後の贈り物でした。

  

和宮が詠んだ歌は

  

空蝉の唐織り衣なにかせん 綾も錦も君ありてこそ

   

というもので、あなたが(家茂が)いなくなってしまったら、どんなに綺麗で美しい織物を頂いても意味がありませんといった歌を詠んでいます。

  

降嫁する際の歌とこの歌とで和宮の心情の変化を伺い知ることができます。この西陣織は「空蝉の袈裟」に仕立て増上寺に奉納され、お二人の寂しくも愛に満ちた別れの品として歴史に色を添えています。

  

1877年 和宮は箱根で療養していましたが、脚気により亡くなったと伝わります。32歳の若さでした。