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田沼意次って何をした人?と聞かれて多くの方はピンと来ないかもしれません。しかし彼は江戸時代の日本において非常に重要な役割を果たした政治家なのです。今回の記事では、田沼意次の生涯や、彼がどのような人物でありどのような影響を江戸時代の経済や文化に与えたのかをゆる~く紹介します。
意次は老中という位に登りつめ、江戸の経済改革に尽力しました。彼の重商主義政策がもたらした影響は大きく、平和な時代の中で経済や文化が発展する礎を築きました。しかし、意次の政治には彼自身の波乱万丈な人生が影を落とすことになります。
さらに、田沼意次と松平定信の二人の政治家の政策の違いにも注目し、それぞれ江戸の人々にどのような影響を与えたのか、その点も掘り下げていきます。
田沼意次は将軍徳川家治の時代に老中となり重商主義政策を行ったことで江戸の経済と文化が栄えた時代でした。しかし一方では賄賂政治を行うなど少々ダークなイメージもあり、江戸庶民からは汚職政治に対しての不満もありました。
幕府の収益を増やすために商人たちに特権を与える代わりに税を納めさせたんだよ~
田沼意次は1710年に江戸で生まれました。父、田沼意行は紀伊の徳川吉宗の側近となっており吉宗が将軍になると江戸に同行しました。もともとは足軽の家柄だったといわれています。
意次は8代将軍 徳川吉宗の嫡男である家重の小姓となりました。この家重は後に9代将軍となりますが、障害があったといわれ、体が非常に弱く周囲の人が家重の言葉を聞き取ることもできないほどだったといわれています。吉宗は家重の補佐として意次を側近としました。
吉宗さんが抜擢したくらいだから超優秀だったんだろうね~
1758年 意次は大名となり、1760年 家重の嫡子、家治が10代将軍になると側用人となり、その後 老中を兼任することになります。足軽の家柄から老中まで登り詰めます。
家重さんが家治さんに「意次を重用するように」と遺言したそうな~
意次の重商主義政策で商業の振興を図り江戸の経済が活発化しました。このころ江戸の文化も活性化して蔦屋重三郎などがプロデュースした多様な文化人が活躍する時代となりました。
天明の飢饉により各地で数万人規模の餓死者が出ます。その後追い打ちをかけるように浅間山が噴火、そのことで被害が拡大し各地で一揆が起こりました。この不安定な時代に怒りと不満が幕府の政治に対して向けられていきます。
若年寄を務めていた意次の嫡男、意知が旗本の佐野政言に江戸城内で斬りつけられ、その傷がもとで亡くなってしまいます。詳しい理由は分かっていませんが、意知に賄賂を贈ったけれど役職につけてもらえなかったためとも、系図の粉飾をしようとしてトラブルになっていたともいわれていますが、本当のことは分かっていません。
政言は「乱心」したということで切腹になっています。しかし、この時代の江戸の人々は飢饉や浅間山の噴火で米価が高騰するなど物価高で疲弊していたので、田沼政治に対して良い印象をもっていませんでした。ですから、嫡男の意知の不幸を権力者を討ち取ったとして「佐野大明神」といい讃えたともいわれています。
なんと・・・・
政言さんのお墓に花を供える人もいたそうな・・・・
嫡男が亡くなった2年後に意次の後ろ盾となっていた将軍家治が亡くなると蟄居謹慎を命じられました。
1788年 意次は70歳でその生涯を閉じました。
田沼意次といえば賄賂政治をした老中という悪い印象がありますが、最近では政治手腕が再評価され、以前とは違う人物像だったのではないのかとの見方もでてきています。そもそもにおいて江戸時代においては賄賂というものは「必要悪」とされていたものだったようで、どうしてここまで悪いイメージがついてしまったのかというと、政敵による印象操作だったのではないか?との意見が多いようです。
意次が亡くなり、松平定信が幕府の老中首座となり「寛政の改革」に着手します。定信が行った改革は緊縮財政、綱紀粛正といったもので、江戸の人々が楽しみにしている出版物にまで規制がかけられるようになってしまい江戸の人々の不満を引き起こします。徹底的な贅沢の禁止、風紀を是正しようとする定信の方針で商業活動や江戸の経済に影響を及ぼし人々の怒りが爆発する結果となります。意次の重商主義の時代とは対照的な展開となりました。結局定信は就任してから6年で失脚することになります。
江戸の人達たちは、意次さんの賄賂政治を嫌がっていなかったっけ?
清廉潔白な人でも厳しすぎると嫌がられたんだね~・・
白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼恋しき
と江戸の人たちにこんな狂歌を詠まれました。
*白河・・ 白河藩主 松平定信のこと(御三卿 田安家)
賄賂政治で汚職まみれでも田沼さんがよかったわ~・・てこと?
だいたいそんな感じ・・
松平定信の時代の将軍は11代 徳川家斉でした。将軍としての在位期間は1787年から1837年の50年間で、多くの側室がいて55人の子女がいることでも知られています。その50年もの間、政治に対して無関心で大奥で豪華な生活を送っていたため幕府財政を窮乏させた将軍としても知られています。各地で相次ぐ反乱や一揆など、この時代から幕府の権威は失墜し始め幕府の崩壊を招いた将軍ともいわれています。
意次の政策は江戸の文化と経済両方を繁栄させましたが、商人たちに恩恵を与えた一方で賄賂や不正も横行し、権力の乱用が疑われ、評価については賛否が分かれています。しかし、近年では意次の改革の意義を見直し、歴史的な観点から見るとこの時代における江戸の繁栄には欠かせない存在だったとして再評価する方向にあります。