\徳川四天王/榊原康政とは?生涯をわかりやすく解説

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こばん店長
こばん店長

康政さんのゆる~い歴史年表だよ

榊原康政・・徳川家康に仕えた名将で徳川四天王の一人

徳川四天王とは、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政の4人

康政は、1548年 三河国(愛知県)上野に生まれます。

こばん店長
こばん店長

康政さんの幼名は於亀(おかめ)です 家康さんの小姓になり小平太となりました


      

榊原康政の系図

康政は、長政の二男として生まれました。


康政、家康と大樹寺で出会う

小平太(康政)が大樹寺で勉学に励んでいたところ、桶狭間の戦い(1560年)で家康が大高城を出て引き上げてきたときに出会ったのではないかといわれています。

このとき小平太13歳、家康は18歳でした。

徳川の家臣が分裂した三河一向一揆

三河で一向一揆が起こる(1563年)

家臣の中にも本願寺派の門徒たちがたくさんおり、上野城の酒井忠尚が家康に反旗を翻すなど、家康(主君)か阿弥陀仏かの選択をせまられたのでした。

小平太は上野城攻めに参陣しており、これが初陣であったとされています。また、そのとき上野城には康政の兄である清政がいたといわれています。

アダム
アダム

お兄ちゃんがいる城を攻めなきゃならなかったんだね

こばん店長
こばん店長

戦国時代はそういったことが多いよね

徳川の家臣が分裂して戦った一揆は鎮静化して、和議により終わりました。

小平太から康政へ   

矢作川の一番槍の功によって知行地を与えられます。

初陣後に元服した際に家康から一字を与えられ、康政となりました。

三河一向一揆の平定後

榊原康政は旗本先手役なっています。

康政に有力な与力が付属されました

伊藤弥惣 伊奈源左衛門 中嶋右衛門作


遠江堀川城攻め(1568年)で先陣をつとめた際、一番に城中に攻め入り多くの敵を討ち城は落とせたのですが、生死をさまよう大けがをしてしまいます。

姉川の戦い(1570年)織田・徳川連合軍 対 朝倉義景の戦い

こばん店長
こばん店長

信長さんは、妹 (お市)の嫁ぎ先だった浅井長政に 裏切られてしまいました

高尾ちゃん
高尾ちゃん

あら大変・・

浅井・朝倉との戦い

両軍は姉川(滋賀県)で激突 織田軍は浅井軍に苦戦していました。康政は先頭を切って朝倉軍に凄まじい側面攻撃をしたのです。

これにより朝倉軍は総崩れとなり見方を勝利に導きました。このときに康政は負傷しています。

負傷した康政

また、家臣の中嶋右衛門作は討たれてしまいます。


武田信玄は強い

三方ヶ原の戦い(1572年)武田信玄が東三河に3万の大軍を率いて進軍してきました。康政は先鋒となり戦っています。

徳川軍は大敗を喫していますが、酒井忠次と榊原康政は横からの攻撃により武田軍を破っており武田軍に対し一矢報いています。

長篠の戦い・設楽原の戦い(1575年)

織田・徳川連合軍(3万8千) 対 武田勝頼(1万5千)

康政もこの戦いでは先手となって敵中に突っ込み攻撃をしています。

康政の家臣たちも討たれたり多数の負傷者が出たりしています。

村上弥右衛門、伊藤弥惣、伊奈源左衛門、富田三右衛門、榊原仁兵衛、鈴木半兵衛などが康政の周囲に付き従っていたといわれています。


信康が切腹、康政の兄の清政は信康の近習

康政の兄である清政は家康の長男である信康の近習であったため、気苦労が多かったのではないかと思われます。

そんなとき築山殿が武田勝頼と内通しているとして徳姫が父である信長に訴える事件が起き、その後二俣城に幽閉されていた信康は切腹となりました。

清政は信康が亡くなった後 弟の康政の屋敷で蟄居しましたが、家康の命により久能山東照宮城守将となり幕末まで代々総御門番を勤めています。


信長が討たれピンチ?!

5月15日 家康と徳川四天王たちは安土城にいました。

また、堺で茶の湯の会などで今井宗久たちと交流し、6月2日 京都の本能寺へ向かうといったときでした。そこで織田信長が明智光秀に本能寺で討たれたことを知ったのです。

徳川家康

そのときに家康の周囲には少数の家臣しかいなかったので敵に見つかった場合全滅していましたが、なんとか堺から急ぎ三河へ帰ることができました。(伊賀を通らなかった説も有り)


小牧山城に5日で砦をつくった

本能寺の変のあと、次男信雄と三男信孝で家督争いが起こります。

本能寺の変により信長と嫡子信忠が亡くなり、その後 秀吉がいち早く敵である光秀を討ったことにより、清州会議での発言力は強いものになりました。

それにより後継者は信忠の遺児三法師(三歳)に決まり、その名代を信雄としました。

秀吉は天下の実権を握るべく 三法師の後見という立場になり、信長の三男信孝を擁する織田家筆頭家老だった柴田勝家と賤ケ岳の戦いにおいて勝利しました。(信孝は案養院で切腹)

しかし、賤ケ岳の戦いのあとすぐ 信雄は秀吉に安土城を退去させられてしまい秀吉に反発するようになります。

信雄は徳川家康に協力を要請し、秀吉に通じていた三家老を処刑してしまいます。

これにより秀吉が激怒して挙兵、小牧長久手の戦いになります。

家康は信雄の応援要請をうけ、清州城にて信雄軍と合流しました。家康が清州城に入ると池田恒興は秀吉方に寝返り犬山城を占拠してしまいます。

森長可は羽黒に着陣しましたがこの動きを徳川方は知っており、酒井忠次の兵らの奇襲により森勢は敗走しました。

この敗北を聞き秀吉は大坂城を出発、信雄・家康との戦いのために尾張犬山城に入りました。

家康は康政に小牧山城の改修を命じ、わずか5日で 土塁や堀などの砦を築いたといわれています。

こばん店長
こばん店長

康政さんはお仕事が早いのです

1584年3月 家康は小牧山に本陣を構え、秀吉は楽田に陣を構えましたが両軍とも大きな動きはありませんでした。


檄文を書いてばらまいた?!

秀吉 対 家康・織田信雄連合軍の戦いにおいて康政は秀吉側の士気を削ぐため檄文をしたためました。

内容は「信長公の君恩を忘れて信孝公ばかりか生母や娘までも亡き者にした。今また信雄公に兵を向け戦っている。その悪逆さはいうまでもない。これに従う者は義がないものである」というものでした。

榊原康政が小牧山の陣にて檄文をかいている図

↑ 小牧長久手の大絵巻「小牧山の陣」を描いたのは最後の錦絵師といわれた高田藩士、橋本直義・揚州周延(ようしゅうちかのぶ)です。幕末の上野戦争で神木隊として戦い捕らえられますが、釈放されます。が、なぜかその後の箱館戦争にも参加しています。

橋本直義・揚州周延(ようしゅうちかのぶ)について、詳しくはこちらから ↓

また、立て札も書いてそこら中に何本も立てさせました。

これをみた秀吉は激怒して冷静さを失い兵を出してしまいました。(三河中入り)

また、秀吉は康政の首に三万石(十万石の説も有り)の懸賞金をつけたといわれています。

三河中入り

 

小牧山に陣を敷いている家康に気付かれないように 背後にまわり徳川の本拠地三河を攻撃する作戦のこと

羽柴秀次の軍が白山林にて休息していたところ、大須賀康高、水野忠重らが急襲し、榊原康政の側面攻撃により秀次の軍は壊滅状態になりました。

その後 康政は家康の本体に加わり井伊直政勢、信雄勢らとともに池田恒興の軍を打ち破りました。

小牧長久手の戦は 織田信雄・徳川連合軍の勝利でしたが、秀吉と信雄が家康が知らぬ間に勝手に和睦してしまったので、家康は戦う大義名分を失い秀吉と和議を結ぶことになりました。

榊原の家臣たちは猛者だらけ

綏定録(榊原家の公式な記録)によると、10月秀吉は美濃大垣城へ、家康は岡崎城へと帰還しました。家康は小牧山城を誰に任せるか考え、本多忠勝に打診しましたが、家臣たちは要害の悪い小牧山城で秀吉の大軍を迎え撃つのは無理だとして断ったといいます。

榊原家と本多家

そこで家康が榊原康政に声をかけると、康政の家臣たちは「秀吉ほどの大軍を引き受け城を枕に討ち死にするとは末代までの誉である」といったといわれています。これを聞いた家康は「康政には良い家臣をつけてあるからな」と誇らしげに微笑んだといわれています。


康政 従五位下式部大輔に叙任されます。

1589年 大須賀康高(康政の舅)が亡くなったため長男の忠政が大須賀家の養子になりました。

1590年 小田原征伐で秀吉軍に参戦しています。

康勝(二代藩主)が小田原で生まれました。(康政43歳)

康政は上野の国(群馬県)館林十万石を領しました。館林の初代藩主です。

豊臣秀吉が亡くなると、幼い秀頼の代わりに政務を五大老が取ることになり、その筆頭が徳川家康でした。

関東に転封していた康政ですが本多忠勝、井伊直政たちと交代で伏見の勤番を勤めていました。

上洛途中で 石田三成の不穏な動きを聞き、策を講じて いち早く家康のもとに馳せ参じました。

1600年 家康から康政に 会津の上杉景勝攻めに際し 南蛮胴具足を与えられています。

石田三成が上方で挙兵し、関ケ原の戦いとなります。

康政は秀忠(家康の三男)に従い中山道を西上しました。 しかし、ご存じのようにこの戦いに遅参してしまい、家康に大激怒されます。


1592年から康政は秀忠に付いて補佐をしていました。

1600年の関ケ原の戦いにおいて秀忠が遅参したことに家康は激怒して対面すら拒みました。それを康政は遅参の原因は自分にあると申し出て、秀忠は徳川家の将来を担う後継者であり、親子の不和を世に示すことは徳川の威信を損なうと命がけで諫言したと伝えられます。

また、家康から水戸への加増・転封の話があった際には館林からの方が江戸で変事があった場合駆けつけやすいことなどを理由に断ります。その忠義と覚悟を受けて家康が徳川家のある限り子々孫々に至るまで(恩を)忘れることはないと(神文)が与えられたと考えられています。


病の際に秀忠からの手紙

二代将軍秀忠から康政のもとに「その方の煩いは心もとなく候」といった病状を案ずる手紙が届いています。さらに秀忠は使者を派遣して、養生に努めるよう気遣っています。関ケ原の遅参をめぐって命懸けで秀忠をかばった恩を忘れずに病床の康政を案じる姿がうかがえます。

将軍秀忠から康政への手紙

其方煩無心

元候て 重而使

者を遣候 養

生無油断様二

專一候 委細

者大久保与一郎可

申候 謹言

八月六日 秀忠 花押

榊原式部太輔殿

意訳

あなたの病気を大変心配しています

(見舞いのため)重ねて使いの者を派遣します。

何よりも油断しないで養生することを第一にしてください。

詳しい事情については、大久保与一郎(忠隣)から伝えさせます。敬白

八月六日 秀忠 (花押)

榊原式部大輔(康政)殿

1606年 秀忠に病状を案じられていましたが、榊原康政は館林にて59歳で亡くなります。

墓所は群馬県館林 善導寺境内にあり、静かに眠っています。


榊原の発祥の地

榊原氏 伊勢国(三重県津市)榊原町で発祥

榊原の名前の由来は、この地に榊が多く自生していて、その榊が伊勢神宮の祭祀に利用されたことから名付けられました。(榊が原→榊原)

榊原康政の5代前 仁木利長 の時代にこの地に城を構えて榊原の姓を名乗ったのが始まりといわれています。

榊原家はこの地に湯の神様(射山神社)を祀り大きな湯治場を造りました。

また、この地の榊を伊勢神宮に奉納しており伊勢神宮とは深い縁があったようです。

都から伊勢神宮を参拝するときは榊原の温泉に入り、湯ごりをして身を清めるのが正式な参拝だったようです。

その後 清長 の時代に三河国上野に移り榊原長政の次男として誕生したのが 康政 です。

  


上越市にある「榊神社」

こばん店長
こばん店長

なんだかんだあって館林とか白河とか姫路→村上→姫路とか高田とかに転封になったようです

榊原家が姫路から高田に転封した理由とは?!は、こちらから ↓

高田に転封となった榊原家の苦難はこちらから ↓

榊原家は姫路から高田に転封になり明治の時代を迎えます。1876年に榊原家代々の藩主たちの生活した対面所跡地に榊神社が創建されました。御祭神は、榊原康政・忠次・政令・政敬となっています。

榊神社 新潟県上越市大手町4-12

御祭神 藩祖 榊原康政公

神器 藩祖 *康政公着用の具足 刀剣

*茶糸素懸威黒塗桶側五枚胴具足・鉢巻型兜(康政公が初陣のときにつけていたもの)榊神社御神体