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なぜ榊原家が高田に転封となったのか?!
榊原家8代目当主となった姫路藩主、榊原政岑が倹約令を無視して高尾太夫を身請けしたり豪華な生活をしていたため、徳川吉宗の逆鱗に触れ蟄居、謹慎となってしまいました。幕府は榊原政岑の子である政永(7歳)に家督相続を申し渡します。
吉宗に対する反逆という意味ではお取り潰しにあってもおかしくはなかったのですが、榊原家の藩祖である康政の功績と2代将軍徳川秀忠による*「徳川の世がある限り子々孫々まで(榊原家を)忘れることはない」といった書状によりお取り潰しは免れたといわれています。
お家のお取り潰しはかろうじて避けられましたが、姫路から高田へ転封となりこれが財政難の始まりとなりました。
1743年、政岑が亡くなり、翌年嫡子まで亡くなってしまいお家断絶の危機が訪れます。
1741年 榊原政岑は不行跡で蟄居になります。政永は7歳で家督相続しました。
1742年 榊原政岑は対面所(*現榊神社)にて謹慎。
*榊神社 新潟県上越市大手町4-12
1743年 榊原政岑は29歳で病気で亡くなってしまいました。
1744年 政岑の子、政永が亡くなってしまいました。
えっ?!政永さんって家督相続したばっかりじゃ・・・
そうなんだよ~。当時榊原家では大騒動だったんじゃないかな~
榊原家では、政岑は蟄居・謹慎(1743年に亡くなる)、嫡子は1744年に亡くなってしまい、お家断絶の危機に陥ります。
榊原家の江戸詰めの家臣たちと榊原家の親戚たちが集まり相談の結果、1歳年下の富次郎とすり替え、亡くなったのは弟だと幕府に届け出ました。8代将軍の黙認により断絶の危機は免れたといいます。
藩主政岑の蟄居・謹慎に嫡子が亡くなってしまうというお家断絶の危機を回避した藩士たちは大変な時代を乗り越えてきたのでした。
1742年、榊原家の家臣たちは姫路から高田城下へと向かいました。藩士の中には姫路から墓石を持って移動したという人もいたようです。お取り潰しはなかったものの、政岑の不行跡による転封なのでやはり過酷な場所になりました。というのも、表高15万石あっても実収は姫路時代と比べると半分程だったようです。
なぜ どんどん貧乏になったのかというと・・こちらをご覧ください
姫路時代にも幕命による出費があったので大変だったのですが、高田にきて絶望的に貧乏になってしまいました。
高田領、奥州浅川領が分領となっており、また高田領(頸城領)の肥沃な土地は幕府直轄領となっていたため藩財政は初めから脆弱だった。
姫路時代に幕府から命じられた役務費用と借金
・村上から姫路への転封費用
・駿府城石垣普請費
・芝増上寺宝普請費
・日光山普請費(2回)
・姫路、京、大坂の借金
・朝鮮使節接待費
・高田転封の費用など 現在の価格で、合計400億円くらい
姫路から高田への転封に伴う費用は34億3千万円程であったといわれていて、高田に来て さらに財政悪化に苦しむ時代となりました。
お家が取り潰されないだけよかったね・・・・
まあ・・ね
・1741年 大雪 積雪4.5m
・1742年 大雨 洪水 橋損壊、流失
・1744年 大雪 積雪4m
・1747年 大暴風雨 稲田橋流失 倒壊家屋多数(高田築城以来の最大水害)
・1749年 大雪 積雪約5m
・1750年 旱ばつ 凶作 飢饉
・1751年 大雪 積雪4.5m 宝暦の地震 マグニチュード7~7.4(液化現象)城郭の一部、門等、土塁一部倒壊、倒壊家屋多数 家中、侍長屋、町屋、倒壊、焼失 領内潰家、焼失、行方不明者多数 寺町釣鐘大半落下 壊滅的な被害
・1752年 季節外れの大雪 凶作
・1753年 大火
・1760年 寺町大火
・1766年 大雨 稲田橋一部損壊 流失
・1777年 米価高騰 窮民増加
・1781年 大雨 川筋家屋流失
・1782年 天明の飢饉 凶作
・1783年 大雨 冷害 凶作 米価高騰 貧窮民増加
・1785年 大雨 関川、矢代川、青田川氾濫 流失橋多数
・1786年 最悪の大凶作 米価 物価高騰 難民多数
・1791年 大雨 洪水 瀬違橋損壊
・1797年 大火 善光寺、長門、下職人町など延焼 武家屋敷、長屋、民家、土蔵、寺院など焼失
・1798年 大雨
・1802年 高田城全焼
・1810年 今町、波崩れにより町屋倒壊
・1814年 大雪 積雪 4.5m
・1816年 武家屋敷町大火 現榊神社より出火、江戸長屋など類焼
・1825年 大火 寺院、家中、町屋など焼失
・1830年 長雨 冷害
・1834年 大雪 積雪4.2m
・1836年 大雨 洪水
・1842年 大雪 積雪4.5m以上
・1845年 大旱ばつ 凶作
・1847年 弘化の大地震 マグニチュード7.4 門、番所、金蔵、米蔵、寺院、家屋多数倒壊、橋、土塁、水門など崩落
・1852年 大風雨 洪水 複数の橋損壊、流失 家屋流失多数
・1856年 大雨 稲田橋崩落
・1864年 大火 寺社、武家屋敷、長屋、町屋、家屋等類焼 大雨 洪水 稲田橋崩落 関川、矢代川流域家屋多数損壊
・1866年 大火 町屋類焼 低温、長雨、凶作、米価物価高騰
災害の多さにビックリ・・
上記でも記しましたが、越後高田領、奥州浅川領が分領となっており、高田領の肥沃な土地は幕府直轄領となっていたため藩財政は初めから脆弱だったのに加え、大地震や冷害、旱ばつ、自然災害が多発し、大火事といった災害も頻繁に起こっていたために藩財政は困難を極めていました。
藩は支出を削減するためにこんなことをしました。
勤番人数の削減(人件費節減)
勤務時間の短縮(人件費節減)
9代藩主政永は初めてのお国入りの際に家臣の数を前例の十分の一にした
公式行事以外は高田城ではなく対面所(現榊神社)で政務をした
11代藩主政令はお国入りの際に駕籠に乗らずに徒歩で高田に入った
質素倹約を徹底的にして、藩士は内職をしました。
祝儀は出さない
身分関係なく衣類は木綿以外禁止(役所勤めのときも木綿)
許可なく住居を修理できない
障子替えは年に1回
食事は一汁一菜
藩士が竹籠・盆提灯・凧などをつくって高田の特産品として売っていた
屋敷に梅・柿・栗・桐・お茶の栽培をさせて現金収入策を講じたり自給自足を促した
細かいよ~
藩士が内職するほど大変な時代だったんだね~
藩は徹底した質素倹約に加えて給禄の減額を求めました。その過酷すぎる減額に藩を離れて僧になったり浪人になったりした藩士もいたようです。
年収が1000万円だったら230万円か・・・・
あれ?年収が500万円の場合115万円しかもらえないの?
年収が300万円だったら69万円しかもらえないよね~
え?!それは生活できないよね?
収入が少ない藩士にはその分多く手当米を支給したんだって
上に薄く下に厚い政策
藩はお盆と暮れの2回手当米を支給しましたが、収入の高い藩士は手当てを少なく、収入の少ない藩士には多く支給するなど量を分けていました。
藩は財政を安定させるためにハマグリやしじみの稚貝を取り寄せて養殖をしたり、梅や柿などの植林をしたりして赤字を克服しようとしましたが、あまりにも頻繁に起きる災害の支出によって赤字は解消されませんでした。
異常なほど災害が多かったもんね
大地震に大雪・大雨・大風雨・大火事だからね~
特に姫路から来たから雪は大変だったんじゃないかな~
財政破綻を避けるべく、領民に税を科したり、有力商人には調達金、庄屋からは先納金など税の取り立てをしましたが、幕府からの課役の賊課や江戸屋敷の再建費を捻出するために京都の御用達商人や方々に多額の借金をするなどしたために財政は一向に好転しませんでした。
1782年(天明2年)高田藩存続のために最後の手段として 金三万両を拝借してほしいと幕府に嘆願しました。
それでどうなったの?!
幕府からは無利子で一万三千両(10億円)を借用できたみたいだけど・・・・
返済期間を20年間として借用することができましたが嘆願交渉は容易ではなかったようです。また、幕府からは財政を立て直すまで五万石の格とする格下げ措置がなされ、拝借金の用途を指示されたそうです。(1789年 政永が隠居して家督を継いだ政敦のときに15万石格に戻りました)
幕府からの指示(苦言)
財政を立て直すまでは五万石の格とする
荒れ地の開墾に力を入れること
質素倹約をして無駄遣いをしないこと
家中の宛行(禄)も減じること
着衣も分限相応に改めること
1782年は天明の飢饉と呼ばれる最大規模の飢饉があり、1783年には浅間山の大噴火があった年で2万人以上が熱泥流で亡くなっています。また、降灰のために奥羽・関東地方などが冷害のため未曾有の凶作となり数十万人の方が飢餓のために亡くなってしまいました。
1786年 江戸では開府以来の大雨・洪水となり、農作物は全国的に大凶作となった年でした。米価は通常の5倍にまで高騰したようです。翌年になると最悪の大飢饉となり、江戸や大坂などで富商など打ち壊しが頻発しました。
高田藩でも幕府からの借用金の一部(三千両)を分領である奥州浅川領に送って凶作のため逃散農民が続出して荒廃しきっていた浅川領を再建していましたが1798年に農民数千人の一揆が起こってしまいます。
一方江戸では、1787年に11代将軍に就任した徳川家斉の世でした。松平定信を老中首座として寛政の改革を断行させましたが厳しすぎる改革が失敗、1818年水野忠成が老中首座になると賄賂政治が横行して権力は腐敗、家斉自身も豪華な生活を送るようになりました。
豪華な生活・・・?
一方 高田藩は 1791年 大雨洪水 1793年に幕命により、領内海岸警備の遠見番所・大筒砲台築造 1802年 高田城全焼 1814年 大雪(4.5m)1816年 対面所から出火して武家屋敷町(家中)の大火などの自然災害や人災などで、高田藩(榊原)の歴史の中で最も貧窮という時代でした。
1810年 榊原政令が家督相続しました。こちらの殿様は高田藩榊原家中興の祖と称される名君だといわれています。
政令公の逸話として有名なのが、高田入部の際の大名行列で 駕籠には乗らずに 草履を履き徒歩で 高田に入っていました。大名といえばメンツを重んじて参勤交代時には行列を華やかにみせていたのですが、そういったことをしない殿様だったそうです。
また、領民と積極的にコミュニケーションを取っていたために、豆腐・酒の値段や大工さんの技能の評判まで知っていたという殿様らしくない殿様でした。
妙高山地獄谷に湧出している温泉を 竹を使い赤倉温泉地まで引いて 藩営の温泉場を設けて 採算の見通しが立ったところで民間に払い下げました。(ほとんど無償)また、妙高山の山麓にジャガイモ栽培を奨励して葛粉をつくるようにしたところ、良質なものだったので名物になったそうです。(江戸からの注文が相次いだようです)
身分を問わず有能な人材を見出して要職に就けるなどの藩政改革を行いました。また、世襲制度による従来の政策立案を避け、遠慮のない議論を奨励したために藩内に活気がでてきたようです。このときの身分の差がなく闊達な議論をする気風がなかったら高田藩は旧幕府軍として高田の領民をも巻き込む 北越戊辰戦争へと突き進んでいたのではないかと思うのです。
九代 政永、十代 政敦、十一代 政令の主な業績
西中江用水の水量不足解消のため、関川の水を引き入れる工事を推進
頸城区の水田を守るために海岸砂丘に松を植林して(直江津から柿崎まで)飛砂を止めた(現在も8号線沿線にあり)
大潟新田は 砂で流水路の河口が塞がってしまい 収穫ができなかったが、莫大な藩費を投じ新堀川開削を完成させ安定的な増収を得ることができた
笹ヶ峰の原生林を切り開いて牛馬の飼育場とした
また、ひえ・あわ・じゃがいもなどの栽培を支援して山間地領民を助けた
奥州領では三子以下の子供を間引きするといった悪習が残っていたが、大庄屋に命じて頼母子講をつくらせ政令公自らも下付金を与え積み立てさせ利子を養育費にした結果、政令公の時代になり間引きの数が減少したといわれている
1834年に水野忠成が亡くなると、水野忠邦が後任となりました。しかし将軍家斉の側近が幕政を主導したため家斉による腐敗政治が続いてしまったのです。天保の飢饉の際には有効な対策を取れずに各地で一揆や打ち壊しが頻発しました。
徳川家斉
1773年~1841年 将軍在位期間 1787年~1837年の50年間
多くの側室をもち、55人の子女がいることで有名
そのため大奥の豪華な生活費は幕府財政を窮乏させる一因となった
天保の飢饉(1833年~1839年)
大雨・冷害・暴風雨のために全国収穫量が例年の約4割に減少したために餓死者等が20万人から30万人いたとされる大飢饉
1837年には*大塩平八郎の乱など各地で反乱があり、また同時期に*モリソン号事件も起きました。異国船打払令により砲撃をしましたが、およそ1年後に非武装のアメリカの商船であったことが分かり国内で強い反発の声が上がりました。
このように各地で相次ぐ反乱や外国船に対する不安や不満などの声が高まり、有効な対策を取れない幕府の権威は次第に失墜し始め 幕府の崩壊はこのころから始まったといわれています。
*大坂奉行所の与力 大塩平八郎が起こした幕府に対する反乱事件
*モリソン号事件はアメリカの商船(モリソン号)で、日本人漂流民の送還・通商・布教のために来航していたところ、イギリス軍艦と勘違いして砲撃してしまった事件のこと
1833年 高田藩は天保の飢饉の折 幕府に米5千俵献納、秋田・二本松・松代藩に米・種籾貸与(東北に比べると水害が軽微だった為)などの対応をしています。
このあと幕末になり、時代の流れによって朝敵とされた会津藩が新政府軍と戦うことになってしまいます。高田藩は幕府軍か新政府軍につくかといった大きな決断を迫られることになり、北越戊辰戦争に巻き込まれる激動の時代に入ります。高田藩の幕末についてはまた違うページでご紹介します。