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1575年 長篠の戦い・設楽原の戦い 織田・徳川連合軍(3万8千) 対 武田勝頼(1万5千)
まず武田勝頼と戦の前に山家三方衆が守る長篠城を攻略しなければなりません。そこで 作手の奥平の調略(奥平貞昌と徳川家康の娘・亀姫との婚姻)という手に出ます。(嫁がせるといった約束はしましたが、実際に亀姫が嫁いだのは貞昌が武田の攻撃から長篠城を守り抜いたあとの1576年のことでした)
この調略が成功し長篠城は落ちました。
奥平貞昌は武田信玄が亡くなり求心力がなくなってしまった武田につくか徳川につくかといった究極の選択を迫られましたが武田を見限り徳川方につくことに決めたのでした。
この奥平貞昌には妻の”おふう”がおり貞昌の弟、仙千代とともに人質として甲府の武田に送られていましたが、貞昌が徳川方へ走ったためにおふうは命を奪われることになってしまいました。
このとき”おふう”は16歳であったといわれています。
ただ、助けようとしたとしても奥平の兵だけでは到底無理でしたし、武田方についたままの場合、家臣を含め滅亡していた可能性もあります。歴史は時として残酷な一面があぶり出されるのですが、戦国時代は判断を間違えると一族家臣を含め全滅してしまうのです。
(*1576年 貞昌は長篠城を妻を捨ててまで守り切ったと信長に絶賛され、信長から一字をもらい信昌と名乗りました。信昌は家康の娘 亀姫を妻にして美濃(岐阜)加納10万石の藩主になっています。)
1575年 長篠設楽原の戦い
武田勝頼は大軍を率いて三河に侵入し徳川に寝返った奥平貞昌のいる長篠城を取り囲みましたが、城からの攻撃などで近づくことができませんでした。しかし長篠城にいる奥平の兵は500ほどで援軍が来なければ兵糧も尽きて落ちてしまいます。
長篠城の中から、こんなことなら武田方につけばよかったといった不安や不満の声が出て、士気が下がりはじめました。奥平貞昌は窮地に陥ります。そこで鳥居強右衛門は奥平を助けるために立ち上がりました。
鳥居強右衛門は窮状を訴えるために武田軍の厳重な包囲網を抜けて岡崎にいる徳川家康と織田信長に援軍を頼みに行きます。その報告を受け、直ちに援軍を出すという答えを聞くと、再び武田軍が取り囲む長篠城へ帰っていきます。
しかし、武田軍に見つかってしまい捕縛されてしまいます。勝頼は長篠城の前で大声で織田軍の援軍は来ない、降参した方が良いと叫べば、武田にて召し抱えるとの条件を出しました。その条件を強右衛門は受け入れ、武田方の兵に連れられ城へ向かいました。
そこで強右衛門は「2、3日のうちに織田、徳川軍は助けにやってくる。それまで城を守り抜いてほしい」と命を投げ打って味方を励ましたといわれています。
これを聞いて城内にいた兵は城を守り抜く気力を得たのでした。
鳥居強右衛門はその場で命を奪われてしまいますが、子孫は代々奥平家において大事にされ、現在もその家系は存続しているそうです。
勝頼は長篠城を取り囲んでいましたが、本国(甲斐)に帰るべきであるという重臣たちの意見を聞かずに長篠城に二千の兵をおいて設楽原に出てきてしまいます。このときの勝頼は父信玄がいなくなり武田の求心力が落ちていることに焦ったとも、敵の数を見誤ったともいわれています。
勝頼が設楽原に出ていくと後方の鳶巣ノ山で織田・徳川連合軍による奇襲攻撃が始まりました。
鳶巣ノ山の武田軍は敗走し、長篠城の救出に成功しました。この奇襲作戦は酒井忠次のものといわれており、4000余りの兵でした。
設楽原では武田の騎馬隊が織田にねらい撃ちにされ、山県昌景、馬場信春、真田信綱、昌輝兄弟などが次々と討たれていきます。
勝頼は本国に逃げ帰りますが、この戦いで武田家の重臣はことごとく討たれてしまいました。
1581年 家康の高天神城攻め 高天神城には武田方の兵が半年以上も籠城していましたが 勝頼からの援軍は来ず、兵糧も尽き、ついに落城してしまいました。
勝頼も援軍を送りたかったのですが、周囲に敵を抱えていたので援軍を出せませんでした。
これは信長の作戦で 勝頼の権威を下げるために高天神城側の降伏を家康に拒否させ籠城を長引かせた といった話もあるようです。
そして信長の思惑通りになります。
このときに援軍を出さなかったことで、勝頼の権威は失墜し、家臣たちは勝頼のもとから次々と去っていってしまいました。
高天神城が落城してから1年後に 勝頼は天目山にて自刃、武田家は滅亡しました。