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北国街道はどこからどこまでをいうのかが明白ではないらしいのです。
中山道の追分~高田宿までが北国街道(厳密には追分から高田宿までといわれています)
中山道の追分~出雲崎までも北国街道(一般的には追分から出雲崎までと本には書いてあります・・・)佐渡の金銀を江戸へ運ぶために延長されました。
出雲崎~新潟湊までも北国街道(さらに津軽半島までも含まれるという説もあります)
高田~加賀~さらに滋賀県まで北国街道(または北陸道)と呼んでいました。(滋賀県鳥居本で中山道と合流)
以上のように様々な説がありますが、厳密には追分から高田宿まで、一般的にいわれているのは、追分から出雲崎までを北国街道と呼ぶようです・・・がその後いろいろな要因があって道が延長されたとの解釈になっています。
つまり、高田(上越市)から旅をするときはみんな北国街道となってしまいます。
そこで、善光寺(長野県)に行く道を善光寺街道、出雲崎まで行く道(出雲崎から新潟湊までも)を奥州街道へ、加賀・越前への道を加賀街道と呼んでいました。
その3つの街道の交差するところがこちらの分岐点です。場所は新潟県上越市本町七丁目です。
現在はコンビニ(加賀方面)と大谷文具店(新潟方面)があります。
まず街道ってなんなの?
ずばり道路!!
江戸日本橋はすべての道のスタート地点で、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道の起点なんだよ。
北国街道はないの?
北国街道は脇往還と呼ばれていて、佐渡の金銀を江戸へ輸送する重要な道だったんだ。
北国街道は参勤交代にも利用されたのよね。
そう。高田藩や加賀の前田のお殿様、北陸の大名が参勤交代に利用したんだよ。
五街道は有名ですが、北国街道は脇街道と呼ばれ、越後の大名や北陸の大名が参勤交代時に利用しており、また佐渡の金銀を江戸に輸送するなど重要な道でした。
ところで宿ってなに?旅館みたいなもの?
旅人が泊まるところでもあるんだけど、宿駅といって荷物を次の宿へ継ぎおくることが主な業務だったんだ。
東海道53次というのは、荷物を次の宿場へ継ぐ(次)という意味なので、53宿ではなく、53次と呼んでいました。
北国街道の分岐点は中山道の追分
中山道で一番高所にある宿 中山道と北国街道の分岐点(分去れの碑有り)
こちらは江戸時代初期に旅籠として開業したという『つるや旅館』さんです。大正時代には芥川龍之介、室生犀星、永井荷風、谷崎潤一郎などの文人たちが執筆を行ったとされる宿です。江戸時代、越後高田藩もこちらの宿を利用していたようです。
浅間神社 大山津見神(オオヤマツミノカミ) 石長比売命(イワナガヒメノミコト)の二神が祀られています。
浅間山の火山噴出物によるシラス台地 小諸城跡は桜の名所百選
小諸宿の脇本陣、「粂屋」さんです。江戸時代には、加賀藩、越後高田藩も利用していたようです。こちらはカフェも併設された宿屋さんで、なんと泊まることができます。カフェにはお抹茶や珈琲、うどん、そばなどがあります。
布引観音の観音堂(御牧ヶ原台地の崖の中にある観音堂 国の重要文化財となっています)
布引観音
住所 長野県小諸市大久保2250
断崖絶壁にある観音堂の観音様が牛に化身して強欲で信心の薄い御婆さんを長野の善光寺まで連れて行き改心させたと伝わる
御婆さんが川で布を洗濯をしていると、どこからか牛が現れその布を角にかけて走り出した
御婆さんは布を取り戻すべく、追いかけて野を超え山を越えやっと牛に追いついた
気付くとそこは善光寺だった
しかし牛はそこで姿を消してしまった
日も落ちて疲れ果てた御婆さんは善光寺の本堂で夜を明かすことにした
すると夢枕で如来様が御婆さんの強欲さと不信心を諭した
朝になり目が覚めた御婆さんは今までの行いを悔いて改心した という話
牛に引かれて善光寺参り
思わぬことが縁になり物事が良い方向に向かうといったことわざ
白鳥神社(海野氏の氏神である日本武尊を祀っています)
海野宿の街道の中央を堰(せき)が流れ宿場本来の景観が見事 重要伝統的建造物群保護地区に選定されています
国分寺 三重塔は国の重要文化財
真田氏が造った城下町で六文銭があちらこちらに見られます
関ケ原の戦いで徳川秀忠を上田で止め関ケ原に遅参させたことで有名な真田幸村と父の昌幸
上田城 真田昌幸が築城
上田城 住所 長野県上田市二の丸
上田紬 日本三大紬の産地
芳泉寺 本多忠勝の長女 小松姫(真田信之 信濃上田藩、松代藩初代藩主正室)の墓所があります
満泉寺 村上義清の居舘跡に建っています
村上義清供養塔 武田信玄の信濃侵略を二度撃退した村上義清の供養塔 (長谷川利次が江戸時代に建てたもの)
長谷川井戸(長谷川利次が井戸を3か所掘り、街道の中央に用水を流しザクロ並木を植え、その井戸が一か所残っています)
長谷川利次・・・高田藩主松平光長の家臣でしたが、高田領坂木宿の代官になり、三十七年間の任期を終えたあとも領民からの信望があつく留任運動があった人物です
長泉寺の観音像 戸隠神社の奥院にあった御本尊が安置されています
葛尾城跡 難攻不落といわれた山城 土塁 堀切が有ります
北国街道松代道と善光寺を通る北国街道との分岐点
森将軍塚古墳 三角縁神獣鏡の破片が出土しています
丹波島の渡し跡 犀川を渡るための渡し場 北国街道の整備によって丹波島の渡しが主要な渡しとなりました
急流であったので船頭が網をたぐって舟を渡していたといいます
松平忠輝が高田藩主となり川中島を領有した際、家臣の花井吉成、義雄父子は海津城城代(後の松代城)になりました
北国街道を整備し、丹波島宿など宿駅を定め 裾花川の瀬直し(善光寺宿を守るため東へ流れていた川を南へ瀬替えしました)水田開発など様々な善政をしたことから領民から感謝され、花井神社として祀られています
第四次川中島の戦いの合戦場 武田信玄の軍師であった山本勘助が討たれた地です
言わずと知れた善光寺です 善光寺の門前には門前町と宿場町があり、全国からきた善光寺詣での人で年中賑わっています
善光寺宿 旧御本陣 藤屋旅館 江戸の中期ころから藤井家が御本陣を勤めており『ふじや平五郎』の看板が掛けられています
こちらの御本陣は1648年創業とされ、江戸時代には加賀藩主が参勤交代時に利用していたといわれています。
*御本陣 大名や公家が宿泊する格式の高い宿のこと
八幡屋磯五郎
藤屋旅館の隣には善光寺名物の唐辛子のお店八幡屋磯五郎があります。江戸の中期ころに境内の高札場前で創業し、その後昭和の中頃になって旧藤屋旅館の隣に移りました。
大正時代にカラフルなデザインのブリキ缶に入った七味唐辛子が販売され現在では三大七味唐辛子の一つとなっています。
長野天神 長野の地名発祥の地
江戸時代に、神社周辺を長野町と通称していたことから北側に県庁ができると長野県庁と呼ぶようになったといいます
時丸寺(じがんじ)善光寺縁起に登場する三輪時丸が開いた寺です
加賀藩小休所 加賀藩主が参勤交代のおりに休憩した場所(小玉の豪農黒柳家)
武州加州道中堺碑 江戸と金沢の中間地点に建てられた碑
證念寺 善光寺地震で大きな被害を受けましたが、富くじの資金で本堂が再建されました 抽選箱 木札有り
小玉坂 碓氷峠に並ぶ難所といわれていますが、当時と変わらない姿で残る北国街道に、「美しい日本の歩きたくなる道500選」に選ばれています
鳥居川を境にした合宿 小林一茶の故郷
落影立場茶屋 坂中道の分岐点にあり、坂中峠を越える道は善光寺への近道です
戸隠山へ参拝する道(戸隠神社へと続く戸隠参道の分岐有り)
ナウマンゾウの化石発掘地
野尻湖 ナウマンゾウの化石や旧石器時代のものが出土する湖 最大水深約40メートル
野尻湖にある琵琶島に宇賀神社があり宇佐美定行の墓所が有ります
宇佐美定行(琵琶島城主) 上杉景勝の実父 長尾政景に謀反の疑いを持ち 野尻湖に誘い出して湖でともに溺死したといわれています
越後と信濃の国境 関川関所 佐渡から金銀を運ぶ重要な街道だったので重き関所になっていました
関川の関所・道の資料館 当時のままで復元された御門や御番所が有ります
関山の関所(冬季休館)
関所の隣には食事処『御宿せきがわ』があり、4月末から11月中頃(定休日・水曜)まで営業(11時~15時まで)しています。特産の手打ちそばがあります。
関川の関所 道の歴史館
住所 新潟県妙高市関川272
電話番号 0255-86-3280
開館期間 4月中頃~11月30日
開館時間 9時~17時(入館は16時30分まで)
高田藩主 榊原政令の命により赤倉温泉開発 殿様が造った温泉といわれています
白田切川 妙高山から流れてきているため水は温泉成分により白濁しています
関山宿 自然崇拝の霊山 妙高山の山岳信仰(山頂には極楽西方浄土があると考えられていました)
妙高堂 江戸時代まで妙高山の頂上に祀られていた阿弥陀三尊像を安置する御堂(善光寺式三尊)
上杉謙信公も出陣の折に妙高山頂の妙高堂で戦勝祈願をしたといわれています(明治の神仏分離令によって現在の妙高堂は関山神社の境内に移されています)。
関山神社社殿 関山権現(関山の地主神を祀る社殿)
関山神社
住所 新潟県妙高市関山4804
御祭神は三柱
国常立尊 本地仏は 聖観音菩薩
伊弉冉命 本地仏は 十一面観音菩薩
素戔嗚尊 本地仏は 文殊菩薩
聖観音菩薩像は飛鳥時代のもので、6世紀後半に百済で制作されたとみられているそうです
善光寺と関山は飛鳥時代の百済仏の信仰という共通点があります。
関山宝蔵院がありましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、関山宝蔵院庭園だけが残っています。
この庭園は妙高山信仰の庭園となっており、妙高山が正面に見え、5月中旬から下旬頃になると、妙高山に「山」という字が浮かび上がる雪形を見ることができます。
この雪形はこの関山周辺でしか見ることができない大変珍しい現象なので、もし近くに寄ることがあればぜひご覧ください。
また、現在では江戸期の庭園が復元されており、妙高山を疑似登山することができます。
妙高山麓には縄文人の生活跡多数有り
小出雲坂 この坂を最後に高田から離れることから越後見納めの坂と呼ばれました
加茂神社 祭神は加茂別雷命
照光寺 上杉謙信時代に信濃町古海にあったものがこの地に移りました 十二光仏名号本尊有り
北国街道と飯山街道が合流
君の井酒造
↑ 1842年創業の酒蔵ですが、新井宿は火災が多く過去の記録が消失してしまい正確な創業年は不明となっています。(住所 新潟県妙高市下町3-11)
ただ、高田藩主(榊原)の酒造り128石の許可証があり、そこに天保13年となっていたことから、その年を創業年としたようです。
鮫ヶ尾城跡 小田原城主北条氏康の七男上杉景虎(上杉謙信は自分の名前を与えています)が上杉景勝と対立し小田原へ逃れる途中、城主の裏切りにあい自刃した地です。
弘法の清水 弘法大師が清水を掘り当てたと伝わる井戸有り 碑と標識有り
高田宿 北国街道の分岐点( 加賀街道 善光寺街道 奥州街道 )
日本でも有数の雪深い宿のため日本一の雁木通りが有ります
北国街道高田宿編はこちらから
高田城
家康の六男忠輝が北陸の要塞として築城した高田城です。
忠輝の義父である伊達政宗が普請総裁になり天下普請によって進められた大工事です。
高田城は、(三重櫓と極楽橋が再建されています)本丸を中心に、4重の防衛線があり(内堀・外堀・青田川、関川、柳堤などの堤防、土塁・外側に神社、仏閣など)町全体が要塞となっています。
高田城址公園の周辺には約4000本の桜が咲き、日本三大夜桜の地として知られています
また、高田城外堀には東洋一と称される蓮もあります
埼玉県行田市から寄贈された蓮です。映画「のぼうの城」で有名になった甲斐姫という名前の蓮です。
こちらの蓮は本丸近くの極楽橋を渡ったところにあります。夏に見頃です。
ここまでが追分から高田宿までの北国街道だよ。
続いては、北国街道(奥州道)
出雲崎までいく街道も北国街道です。(奥州道)その先の新潟湊から津軽半島までを含む説も有り
高田宿
福島城下の春日神社に隣接していることから春日新田宿といいました
越後三大馬市が有り春日新田宿が繁栄 馬市跡碑有り
福島城跡 掘秀治が築城 松平忠輝が高田城に移ったため廃城となります
北国街道(奥州街道)で初めて海が見える場所
御台場跡 江戸後期 高田藩が台場を築き大砲を設置(円蔵寺裏の砂丘に台場がありました)
順徳天皇碑 承久の乱で敗れた後鳥羽天皇の第三皇子が佐渡に流される途中、荒原で休憩されたといわれています
長峰城跡 牧野氏が長峰5万石で入封しましたが、築城途中で長岡へ国替えとなり未完成のまま廃城となりました
柿崎城跡 柿崎景家は上杉謙信の第一の重臣 川中島で山本勘助を討ち取ったとされています
鉢崎関所跡 江戸時代は高田藩が街道を取り締まりました
全国を測量していた伊能忠敬は米山三里(上り下りが激しい交通の難所)を測量して疲れ果てて手形も見せずに関所を通ろうとした鉢崎関所事件がありました
忠敬が幕府御用の旗をしているのに、関所の役人が大事な測量機器を触り取り調べたので、無礼な扱いを受けたといって怒ったという事件です
御金蔵跡 佐渡からの金荷が最初に泊まる地で土蔵に厳重に保管されました 現在は何も残されていません
ナウマンゾウ化石出土地(臼歯と切歯)柏崎市立博物館にて展示
鯨波戦争激戦の地 戊辰戦争において新政府軍と旧幕府軍とが交戦した地
日蓮聖人着岸の地(番神岬) 佐渡に流刑となった日蓮聖人が罪を解かれ寺泊に向かう途中、暴風のために遭難し必死の思いでたどり着いたのが番神岬とされています
桑名藩陣屋跡 戊辰戦争が始まり 藩主 定敬の意に背き桑名藩の留守を預かっていた家老が新政府への恭順をしたことから定敬は帰る城を失ってしまいました
そこで桑名藩の飛び地であった柏崎 勝願寺に陣を張りました
松平定敬(伊勢国 桑名藩主 兄は尾張藩主 徳川慶勝 会津藩主 松平容保)
琵琶嶋城跡 宇佐美定満(上杉謙信の忠臣)の居城
宮川の清水 湧水と池が有り 清水不動尊を祀っています
椎谷陣屋跡 戊辰戦争により焼失
椎谷藩(堀直之を藩祖とする藩 参勤交代のない江戸に定住する定府大名)一万石の陣屋町 兼 宿場町
椎谷観音 810年~823年頃開山したとされています 越後屈指の観音霊場
大庄屋長屋門 日本石油を創業した内藤久寛の生家
勝見鉱泉 明治時代に日本石油が掘削時に出たガスを利用してお湯を沸かし石地鉱泉場として大正時代に開湯しました
一般的に北国街道の終着の宿といわれています
新潟湊が発展すると街道が延長され出雲崎の先も北国街道と呼ばれるようになりました(北国街道はどこからどこまでをいうのかが不明となっていますが当ブログでは新潟湊までとします)
出雲崎代官所跡 佐渡からきた金銀の陸揚地 戊辰戦争で消失
出雲崎は大国主命によって開拓された伝承があり、出雲の国の大国主にちなみ出雲崎の地名となったといわれています
石井(いわい)神社 出雲崎を訪れてた大国主命が佐渡を平定しようとしましたが、船がありませんでした。そこで石の井戸の水を汲み撒いたところ一夜にして12株の大樹になったそうで、その木で船を造り佐渡を平定したとの伝承があります。
そして、その12株の木があったところ(出雲崎町井鼻)に宮をつくって祀っていたそうですが、その後現在の石井町に移されたそうです。
御祭神は大国主命
良寛堂 良寛生誕の地 江戸時代後期の曹洞宗の僧、歌人、書家
三国街道の分岐点
寺泊湊 本土と佐渡を結ぶ
弥彦神社 御祭神 天之香具山命(あめのかぐやまのみこと)「おやひこさま」と呼ばれ人々に親しまれています
弥彦山の頂上には御神廟があり、天之香具山命と妃神 熟穂屋姫命を祀っています
岩室温泉 開湯300年以上の歴史をもつ温泉地
稲島薬師堂 虚空蔵尊を祀っています
角田山の麓にある宿
赤塚神社 創建年は不明 御祭神 伊弉諾尊
北前船の寄港地として栄えました 花街も有名
湊稲荷神社 江戸時代に船乗り達に信仰されました
船乗り相手の遊女たちは”願掛け高麗犬”に 船乗り達が出港できないよう荒天になるように高麗犬を回して祈願したといわれています
こらこらこら
分かるわ~
北前船 江戸中期から明治まで大阪と北海道を日本海周りで商品を売買しながら航行する商船のことをいいます
北国街道(北陸道)は
追分~高田~鳥居本
北国街道(北陸道)はここまでです。(*資料によって変わります)
鳥居本で中山道と合流するよ。
昔の人は新幹線や車、飛行機がないため歩くしかなく、しかも1日40キロ近く歩くという過酷なものでした。
しかし乗り物が発達した今でも東海道や中山道といった主要な街道を歩く方が多くいます。昔の旅人の気分になって景色を眺めてみるのもいいかもしれませんね。