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今回は「十返舎一九って何をした人?」について簡単にお話しします。
戯作者である十返舎一九は江戸時代に「東海道中膝栗毛」を執筆した大ベストセラー作家です。
この作品は一九の代表作として広く知られ、今なお多くの人に愛されています。
この記事では一九の生涯をゆる~く紹介し、作品が世に出るまでの道のり、そして一句のエピソードなどについてもゆる~く語ります。
東海道中膝栗毛って旅物語有名だよね~
めちゃくちゃ有名。21年にわたり執筆された大ヒット作だよ~
1765年 駿府(現静岡県)に町奉行所の同心の子として生まれ、本名は重田貞一(しげたさだかつ)で、通称は与七(よしち)といいました。
はじめは江戸に出て武家奉公をしていましたが、向いていないと思ったのか辞めてしまいます。その後一九は大坂で浄瑠璃作者として活動していながら、絵の勉強もしていたようです。
1794年ころ、江戸に出てきた一九は蔦屋重三郎と出会います。
一九は重三郎の家に住み、耕書堂(版元)の裏方の仕事を手伝っていたようです。
山東京伝の滑稽本の挿絵を描いたり、耕書堂から黄表紙の「心学時計草」で挿絵を描き、戯作者としてもスタートしました。
黄表紙、洒落本など多くの作品を刊行し続けますが、意外にも一九の作品はあまり売れなかったようです。
再びというのは、実は一九は以前、材木屋に婿入りしていてそこで離縁しています。
その後日本橋の後家に入り婿していましたが、この結婚も短命で終わります。
理由は吉原に通い過ぎたため離縁されてしまったといわれています。
やはり一九の結婚は波乱がつきものなのでしょうか、このことが作品にどのような影響を与えたのか気になるところです。
この波乱万丈な人生が創作に新たなインスピレーションになったのかもしれません。
この後世に出る本は、この滑稽な人生の一部が作品の数々に色濃く反映されたのではないか?とも思えてきます。
1802年 弥次喜多コンビの滑稽本「東海道中膝栗毛」が大ベストセラーになります。
蔦屋重三郎が亡くなって5年後に刊行され大ヒットとなったので、おそらく雲の上で重三郎は「俺の目に狂いはなかった」といった顔になっていると思います。
さて、この本ですが、弥次喜多というコンビが江戸を出発して伊勢まで旅をするストーリーとなっています。
東海道の道中に繰り広げられる物語は、人情味溢れる登場人物や、旅の道中でのさまざまな出来事を滑稽さを交えて描くことで、ただの旅行記とは一線を画し、読者を引き込み、笑いや共感を呼び起こしました。
また、このころは旅ブームだったこともあって、続編が刊行され続ける大ベストセラーとなり、一九の代表作となりました。
十返舎一九は1831年67歳でこの世を去ります。
一句は遺言で門人に袋を渡して、火葬するときには一緒に入れてほしいと頼み、門人はいわれた通り棺桶に袋を入れて火葬すると、その袋が大爆発して花火が飛び出してきたそうです。
なんと門人に頼んだ袋には大量の花火が入っていたようで、それに火がつき、あちらこちらに花火が飛び出してきて、集まっていた人たちを驚かせたというとんでもないエピソードがあります。
この話はのちに出来た創作だともいわれているようです。
東海道中膝栗毛とは、自分の足(膝)で馬のように東海道を徒歩で歩くことからつけられたといいます。江戸から伊勢までの距離は約460kmで江戸時代の人たちは14日間かかって歩きました。
十返舎一九の代表作であり、一九の才能が存分に発揮された作品で、物語の中には当時の社会や、江戸時代の人たちの姿がいきいきと描かれており、現代においても共感を呼ぶ内容となっていると思います。
この作品の魅力は何よりもキャラクターたちの人情味溢れるユーモアなのではないでしょうか。
物語の舞台である東海道は様々な情景や出会いがあり、読者はまるでその場にいるような感覚を楽しむことができます。
一九の筆致には洒落や独特が言い回しが散りばめられており、文章のリズムも楽しむことができます。そして何よりも弥次喜多コンビの掛け合いやキャラクターの個性がいつの時代でも愛されるのではないでしょうか。
そしてこの滑稽本はただの娯楽文字というだけではなく、当時の風俗や文化を伝える大切な資料ともなっています。
一九の作品は映画や漫画など、時代を超えても楽しめるコンテンツとして再創造されており、才能はいつまで経っても色あせることはありません。
その影響力の大きさは江戸時代、そしてこれからも広く受け継がれていくことになるのではないでしょうか。
以上 十返舎一九のゆる~い紹介でした