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江戸藩邸にいた藩士86名は新政府への恭順を拒否
高田藩榊原家の江戸詰めの藩士たちの中には新政府軍への恭順を拒否し脱藩、*『神木隊』を結成して彰義隊(旧幕府軍)と合流し、江戸上野の寛永寺に立てこもり新政府軍と戦った人たちがいました。
*神木隊というのは、榊原家の榊 → 木と神の組み合わせから名付けられました
高田藩主 榊原政敬は江戸の『神木隊』に何度も使者を送り説得しますが、神木隊は強い佐幕の志からこれを拒否して旧幕府軍と行動を共にすることになります。
この江戸詰めの藩士達は慶応四年(1868年)5月15日*上野戦争において激戦に参加していますが、武器の違いから半日あまりで大敗を喫す結果となりました。
*上野戦争 上野(現在の東京上野)において新政府軍(薩摩藩・長州藩を中心)と旧幕府軍が戦った激戦地の一つ
神木隊の中で生き残った人の中には、函館戦争に参加し最後まで旧幕府軍と行動を共にして志半ばで亡くなった人や、その後の明治という時代を生き抜いた人もいました。
橋本直義(楊州周延・ようしゅう ちかのぶ)
(生没年 1838年~1912年)
江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師
歌川国芳、三代 歌川豊国、豊原国周の門人
上野戦争に神木隊として戦い、その後捕らえられた人の中に橋本直義という人がいました。薩摩藩の桐野利秋の尋問に対して、「自分は錦絵師である」といい、版元に確認をとったところ、実は気鋭の版画家として知られた人だったので、たしかにこの人は錦絵師ですと証言したところ釈放されました。
しかしこの方、釈放されてからすぐに榎本武揚の軍艦に乗り込んで戦いに参加したりするなど大胆な行動をとる人でした。
宮古湾海戦で奇襲作戦に参加し負傷、その後泳いで陸に這い上がったとのご遺族の話も残されているようです。また、その後の函館戦争にも参加しています。(この方すごいです)戊辰戦争が終わり、江戸に送られ高田で謹慎した後、東京に戻り明治8年頃から再び作画に精進します。
↓ 橋本直義(楊州周延)画
その後に西南戦争の錦絵、赤の色が鮮やかな美人画、千代田大奥の風俗画など明治期に活躍した浮世絵師として優れた作品を多数残しています。
大正元年に75歳で病気で亡くなるのですが、「坊主は呼ぶな。神田お囃子いり葬儀にしてくれ」と直義の性格を表した遺言だったようで、その遺言どおり大勢の人が集まり神田囃のお囃で盛り上がったといわれています。
亡くなった2か月後に「神木隊戊辰戦死之碑」が建立され、その建設者名の最初に橋本直義と刻まれています。
旧幕府軍と最後まで行動を共にした神木隊でしたが、21名の方が戦いで亡くなっています。
高田藩榊原家には越後以外に飛び地があり、その場所が現在の福島県白河市東釜子にあった釜子陣屋です。
この陣屋は激動の時代の波にのまれた歴史があります。
戊辰戦争期、本藩は新政府軍に恭順しましたが、越後高田から遠く離れた釜子陣屋へはその意向が伝わらず(伝わっていても新政府軍に恭順することを拒否した可能性もあります)本藩の指示とは違い参戦する道を選びました。
陣屋は新政府軍の攻撃の前に奉行が陣屋に火を放って焼き払い、釜子の30名以上の藩士が奥羽越列藩同盟軍と共に戦い、最終的に会津若松城下の激戦にも参加していました。
この戦いで17名が亡くなっています。生き残った藩士はその後本藩のある越後高田まで徒歩で帰還しましたが、本藩の指示に従わなかったとの理由から謹慎処分が言い渡されました。
その会津若松城の降伏に伴い約1742名の会津藩士が明治2年1月に陸路高田に護送されてきました。
会津籠城戦
京都守護職を拝命し孝明天皇からも最も信頼が厚かったとされる会津藩主 松平容保は時代の流れにより「朝敵」とされてしまいました。
新政府軍 対 旧幕府軍との間で1868年1月27日の鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まります。
会津若松城下での激戦の際には家臣の子供や婦女子なども戦いに加わり武士の家族として最後まで戦い抜いたことでも知られています。
1868年11月6日 会津藩は1か月に及ぶ籠城戦の末、降伏し開城しました。
会津~安田~新潟~三条~寺泊~柏崎~黒井~稲田~各寺院に移送されてきました。(新潟はコレラが蔓延していた地域だったのでこれで病気になる方が大勢いたといわれています)この中に新撰組三番隊隊長の斎藤一もいました。
高田藩は家茂の上洛に供奉、その後長州征伐、戊辰戦争従軍など莫大な費用がかかり藩の財政は破綻寸前だったといわれています。
その上、この年は『巳年の困窮』といわれるほどの大凶作で米価も高騰していたので『会津藩士のお預かり』は再三辞退を願い出ましたが、高田藩は「不審藩」とみなされていたので新政府に却下されてしまいました。
1年半の蟄居・謹慎生活を高田で送ることになった会津藩士ですが、極寒の季節に陸路高田までの旅の疲れやストレス、病気(コレラなど)脚気などが原因で67名の方が亡くなり53名の方が脱走したと記録されています。
脚気・・
貧乏だった高田藩士だけど、自分たちは麦飯を食べて会津藩士の方達には白米を食べてもらっていたんだって
ふむふむ
でもね、運動もせずにお寺に籠っていたわけで、それで白米を食べ続けたから脚気にさせてしまったっていう冗談のような話もあるよ
なんと・・・・
財政難だった高田藩でしたが、時代の流れで賊軍という汚名を着せられてしまった会津藩士に同情する人が多くいたらしく、様々なことをしたようです。
高田藩は善道寺に会議所を設置、来迎寺に病院を設立、各寺には藩からの助成で炊事場、お風呂、トイレなどの増改築、食器、布団など生活用品の準備などで6億7千万円ほどかかったそうです。また、1日にかかる食事代、病人のための医師の手配などもあわせるとかなり出費がかさんだといわれています。
でね、新政府が約束した預かり手当金も不支給だったから大変だったみたい
やっぱりね
火鉢(暖房用火鉢)を与えて暖をとってもらっていた(新政府に禁止されていた)
祝日になるとお酒も差し入れていた(新政府に禁止されていた)
一応、謹慎中だからね
内陸の会津藩の方に好評だったのが鱈の煮付け、イカなどの海鮮物などでした。
会津藩お預かり 明治2年1月21日の東京深川謹慎所と高田藩浄光寺のメニュー
東京深川謹慎所
昼食 記載なし
夕食 干し魚1枚 ・丼飯・手桶にみそ汁(柄杓)
高田藩 浄光寺
昼食 米飯・皿(香ニモノ・数ノコ)・汁(豆腐・フシ)
夕食 米飯・平(カマボコ・菜・結コンブ・コンニャク・干モノ)・汁(ダイコン)・皿(生イカ・煮シメ)お酒付
時が経つにつれて、求めに応じて書籍を探して届けたり、茶会や俳句の会に会津藩士、高田藩士、町人などが参加して楽しんだようです。
南摩羽峯(なんまうほう)という会津でも名高い学者が浄興寺中の正光寺にいると聞いて、(会津藩士もいました)高田藩士、のちに上越を代表する政治家や文化人が教えを請うて交流したなどいろいろな話が残されています。(高田藩としては、羽峯は謹慎生活中でしたが、講釈を許したというより推奨していたといわれています)
*南摩羽峯
高田藩に謹慎ののち旧淀藩の学校総裁、京都府中学校、太政官、文部省、東京帝国大学教授を歴任、明治期の教育振興に尽力
羽峯の教育立国論は「不学の徒をなくす事こそ肝要」というもので、これに感銘を受けた人たちが会津藩士の謹慎が解かれこの地を去ることになった際に羽峯に学校を開くためこの地にとどまってほしいと懇願したといわれています。
そして羽峯はその願いを聞いて上越地域で最初の学校である「正心学舎」の設立に尽力、板倉区に設立された「有恒学舎」も羽峯の教えに感銘を受けてつくられたもので、高田藩士の子弟で教員を志す方が多いのはそのためだといわれています。また、政財界で活躍する方、医学の道に進んだ方など多くの人材を輩出しています。
このほかの会津藩士の方が謹慎解除後も高田の地に残っていたようで、現在の高田裁判所近くには「会津風呂」とよばれたお風呂屋さんがあって、大変盛況だったようです。その他にも高田にある会津塗といわれる塗物は会津の人達によって広められたといわれ、多くの交流や文化が生まれていて、現在でも会津藩士と高田藩士の末裔たちによる交流はつづいているようです。
会津藩降伏人は3回に分かれて(上越市史では6回)護送されてきました。その際高田藩が沿道筋に配布したといわれている御触書です。
罪人であっても、士道に従って戦った人々である。いやしくも二階から見下ろすことがあってはならない
関谷清治 聞きかじりふるさと昔ばなしより
金谷山の麓にある会津藩の方達の墓地です。高田に謹慎中に亡くなった方が眠っています。
この墓地は高田に謹慎後も高田に残った会津藩士や地域の人達の手で管理されています。
新潟県上越市大貫会津墓地
新選組 斎藤一が謹慎していた寺 惣持寺(現在は廃寺となっています)
新潟県上越市寺町1-7-22