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江戸の出版王としての地位を築いた人、蔦屋重三郎。
吉原の本屋の店主からスタートし、そこでの人脈を活かして様々な才能あふれる絵師や戯作者たちと関わりを持ち、その手腕により数々の優れた作品を生み出します。
蔦屋重三郎とは、多くのスターを生み出し江戸を代表する版元「出版王」になった人物です。
蔦屋重三郎の生涯をゆる~く紹介します。生まれたのは「江戸時代」8代将軍 徳川吉宗の嫡男 家重が将軍の時代です。
そして重三郎の全盛期ともいわれるのが家重の嫡男で10代将軍となった徳川家治の時代です。
家治の時代は田沼意次が老中となり、文化・経済が活発な時代でした。
しかし、天明の飢饉、浅間山の噴火などにより一揆が多発し、家治が亡くなると意次は失脚してしまいます。
この意次が失脚したことにより、重三郎の運命も大きく変わることになります。
寛延3年1月7日 蔦屋重三郎は江戸の*吉原で丸山重助と津与との間に生まれます。
*この吉原は元は日本橋(東京都中央区日本橋人形町)にありましたが、明暦の大火により浅草(東京都台東区)に移転しており、重三郎が生まれたのは新吉原(浅草)の方です。
しかし、重三郎が7歳のときに両親が離別して蔦屋(喜多川家)の養子となりました。
江戸の文化と商業が融合した吉原で生まれ育った環境が、重三郎の人生、のちに出版業界での成功につながる基盤を築くことになります。
1772年 重三郎は23歳で新吉原大門口の五十間道で書店「耕書堂」を開業します。
義理の兄である蔦屋次郎兵衛の軒先を間借りしての小さなお店でした。鱗形屋孫兵衛が出す遊女の名前や店などを紹介する吉原のガイドブック「吉原細見」の販売代理や、貸本業を営んでいました。
耕書堂跡 東京都台東区千束4-11の辺り
吉原の遊女たちを花に見立てて紹介する遊女評判記を編集、販売したところ、大きな話題となりました。
1774年に思わぬことで転機が訪れます。鱗形屋孫兵衛が独占出版していた「吉原細見」が大坂の版元との間で訴訟問題が起き鱗形屋は一時的に出版できなくなっていました。
鱗形屋孫兵衛の手代が大坂の版元が出版した本を勝手に改題してしまいそれを売り出したことから処罰され「吉原細見」を出版できなくなってしまいました
この隙に重三郎は「吉原細見」の編集、出版に乗り出しました。
吉原で生まれ育った人脈から吉原の正確な情報を手に入れることができたので、次から次へと新しい情報を更新して出版することができたのです。
そして、重三郎は人脈だけではなく、優れた編集者としての手腕も持っていました。
それまでの「吉原細見」の紙面からいらない装飾などを取り除いたり、著名な文化人に挿絵を依頼するなど「見やすさ・使いやすさ」にこだわってつくられました。
これで瞬く間に江戸の人たちの間で話題となり大ヒットとなります。重三郎は「吉原細見」の独占販売をするようになりました。
「狂歌連」という文化サロンに飛び込み、自らを蔦唐丸と名乗り売れっ子文化人との人脈をつくっていました。
このサロンで多才な狂歌師と出会うことで新たな書籍を生み出していくことになります。
大ヒット後、重三郎は店舗を日本橋へ移し、活動をさらに活性化させます。
日本橋は当時の商業と文化の中心であり、規模を拡大し続ける耕書堂の礎を築き上げました。
耕書堂本店跡 東京都中央区日本橋大伝馬町13
田沼意次の失脚により、幕府の体制が変わり松平定信の時代になると、緊縮財政や出版物の禁止など幕府からの弾圧を受け、出版物が風紀を乱すと判断された結果、財産が半減するという処罰を受けてしまいます。
重三郎はこの逆境を乗り越える方法を模索し、喜多川歌麿の美人大首絵を出版するなど浮世絵に活路を見出します。また、後に世界的に有名になる「写楽」なども出版されます。
蔦屋重三郎は1797年に48歳という若さでこの世を去ります。
死因は(江戸患い)と呼ばれるもので、白米を食べ続けビタミンB1が欠乏するといった、いわゆる「脚気」というものでしたが、当時は原因が特定されていないものだったので、これが原因で亡くなった方が多くいました。
重三郎の短い生涯にもかかわらず、浮世絵や狂歌など多くの文化を後世に残したという功績は江戸時代の文化発展にとって重要なものでした。
重三郎の死後もその精神と業績は「耕書堂」を託した番頭や後進の版元、出版業界また重三郎が目をかけた新進気鋭の文化人たちに受け継がれていくことになります。
重三郎は多くの才能あふれる仲間たちと活動していました。その仲間を少しご紹介します。
重三郎は歌麿の才能を見出し、お抱えの絵師として多くの作品を世に送り出しました。
歌麿の美人画が大ヒットしましたが、寛政の改革により豊臣秀吉の醍醐の花見を描いたために幕府から処罰されてしまい50日間の手鎖の刑に処せられます。
「富嶽三十六景」を描いた浮世絵師葛飾北斎。しかし、このこの作品は北斎が70歳を過ぎたころに描かれたもので、重三郎が亡くなった後のことでした。
葛飾北斎が若いころは人気がなかなか出ませんでしたが、重三郎は彼の才能を見抜き若き才能を売り出すために積極的に支持し続けました。
「東海道中膝栗毛」という大ヒット作を生み出した十返舎一九。
重三郎は一九を自宅に住ませながら天才を育成しました。しかし、この大ヒット作が世に出されたのは、重三郎が亡くなってから5年後のことでした。
恋川春町もまた蔦屋重三郎に縁のある人物です。
この方の面白いところは、小島藩の武士でありながら、絵師・戯作者としても活動しているところです。春町は当時の風俗や世相を巧みに描き出し、その作品は重三郎の出版を通じて広まり、人気を博しました。
しかし寛政の改革を行っている松平定信を風刺した作品を出版してしまい、幕府から出頭命令が出されますが病気により拒否しています。
その年のうちに亡くなっていることから藩に迷惑がかからないようにするための自害であったといわれています。
黄表紙・洒落本の第一人者で蔦屋重三郎の盟友といわれており、京伝は重三郎より11歳年下でした。
重三郎が版元で京伝が洒落本をつくって出版し数々の傑作を生み出しましたが、寛政の改革により風紀を乱すとのことで50日間の手鎖の刑という処罰を受けてしまいます。
このとき版元である重三郎も財産を半減にされるといった処罰を受けています。
江戸吉原は、江戸の文化の発信地ともされ、花魁の髪型などはブームとなったほどでした。喜多川歌麿は遊女たちの作品を多く残しており、「青楼の画家」と称されていました。
蔦屋重三郎がいた時代の吉原松葉屋の5代目瀬川は1775年に盲目の高利貸しの鳥山検校に身請けされますが、この鳥山という人が不法な貸付をしたとして捕まってしまいます。
その後の人生は不明とされていますが、彼女を題材とした洒落本が出版されています。
重三郎の死後、「耕書堂」は番頭の勇助に引き継がれ4代まで続きました。
これにより、耕書堂というブランドは続いていくことになりますが、蔦屋重三郎がいた時代の勢いはなかったといわれています。
日蓮宗の寺で正法寺にありましたが、関東大震災により焼失してしまい現在は石碑が建立されています。
正法寺 東京都台東区浅草1-1-15
江戸の出版王とも呼ばれた重三郎のもとに多くの人が業績を偲んで訪れるといいます。
重三郎の偉業を思い返しながら彼が生きた時代の文化の熱気を感じるのかもしれません。