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1604年 江戸城西の丸で後の徳川幕府三代将軍となる竹千代(家光)が誕生します。この竹千代の乳母こそ大奥で老中をも超える絶大な権力を誇った春日局です。
春日局(かすがのつぼね)は、二代将軍 徳川秀忠の正室お江が生んだ竹千代の乳母として知られる女性です。春日局は歴史上で名前を残すほどの女性なので、ただの乳母ではなかったのです。
徳川家の政治に大きく関わり、将軍継承問題においても家光を将軍にするべく大御所の家康に直訴するために駿府まで会いに行くなど大胆な行動をする女性でした。
家光は春日局という乳母によって将軍になれたといっても過言ではなく、家光が将軍になると信頼も厚い彼女は発言力を増し、将軍の威光を背景に絶大な権力を握る人物となります。今回はそんな春日局の生涯をゆるっと紹介していきます。

1579年 春日局は丹波国 黒井城の下館(兵庫県)で生まれます。
春日局の本名は斎藤福といい、父は斎藤利三(としみつ)で、明智光秀の重臣だった人物です。
利三は、明智光秀に従って本能寺で織田信長を討ちますが、本能寺の変の後「山崎の合戦」で羽柴秀吉に敗れ処刑されてしまいます。
福(春日局)は幼くして父を失い逆臣の娘として厳しい環境で育ちます。
福の父は斎藤利三、母は稲葉一鉄の娘 稲葉あん といわれ、父 利三が亡くなったあとは母方の親戚の三条西 公条(さんじょうにし きんえだ)に養育され、書道・歌道・香道などの教養を身につけます。
そのあと伯父の稲葉重通(しげみち)の養女となり、重通の養子で小早川秀秋の家臣 稲葉正成(まさなり)の後妻となり、正勝、正定、正利を生んで普通に暮らしていたようですが、1604年に二代将軍徳川秀忠の嫡男、竹千代の乳母に採用されると江戸城に入ることになります。

これについては、いろいろな説がありますが、①一般的には夫の稲葉正成が関ケ原の戦いにおいて小早川秀秋を説得して徳川方に寝返らせたといったものです。
このことで、関ケ原の戦いで東軍有利となり徳川勝利に貢献したための功績として乳母に採用した説があり、これは不思議ではないように思えます。
しかし一方では、②福の父である斎藤利三の主君、明智光秀と徳川家康は本能寺の変が起きる前から何らかの密約があって深く繋がっていたのでは?という説もあります。
明智光秀の重臣であった利三も、家康の主君でもあった信長を本能寺の変で討っていることから、福はいわゆる逆賊の娘のはずです。
その人物がなぜわざわざ将軍の嫡男の乳母に選ばれたのかについては、明智光秀と家康が本能寺の変の前から深く繋がっていたのであればおかしくはない説になります。
③春日局の顔には天然痘のあとが残っていたといわれ、免疫があったので採用されたとする説もあります。

ほ~
徳川将軍家の嫡男の乳母がなぜ福でなければならなかったのか?!についてはっきりとした答えはありません。

ないんかーい
竹千代が生まれた2年後に弟である国松が誕生すると、父の秀忠と母のお江は国松を溺愛するようになります。
竹千代は徳川の後継者として乳母の元で育てられていたため、お江に懐いていなかったということと、内向的な性格、病弱であったこともあり、次期将軍は竹千代ではなく、弟の国松にとする雰囲気になっていました。
両親からも疎まれ、家臣・諸大名からも弟の国松と比べられ劣等感を抱いた竹千代は12歳のころに自害を図ろうとしたという話がありますが、それを止めたのが春日局で、竹千代に実母のように優しく寄り添っていたといいます。
このままだと竹千代が廃嫡されてしまうと感じた福は伊勢参りに行くという口実をつくり、駿府にいた大御所 家康に直訴に行きます。
この話を聞いた家康は自ら江戸城に出向き、竹千代のみを上段に座らせたことで、周囲に次期将軍は竹千代であると知らしめました。
このときから、徳川家は長子相続が代々続いていくことになります。

家光が三代将軍に就任したのは、1615年に福が駿府にいる家康に直訴に行ったからこそです。
その後お江が亡くなると、福の発言力はますます大きくなり、奥向きを取り仕切る大奥総取締として権力を握ります。
そして大奥の組織・諸制度をつくっていき、江戸城大奥の礎を築いていくことになります。
家光の名代として後水尾天皇と和子(家光の妹)に拝謁した際に従三位と春日局の称号を得ています。

家光さんの妹の和子さんについてはこちらからどうぞ~
家光には正室の鷹司孝子がいましたが、家光が遠ざけて別居していたといわれています。というのも家光は女性にあまり関心がなかったといわれています。
しかしこれは大問題で、徳川家を継承させていくためには世継ぎがいなければなりません。春日局はこの問題に相当頭を悩ませ家光に多くの側室を送り込んだといわれています。
彼女の苦労のかいがあって四代将軍となる家綱が誕生しました。
あるとき家光が天然痘になった際に、春日局は家光を守るために薬断ちを決意して祈り続けたといわれており、そのおかげなのか家光の病は治ります。
しかし、その後春日局は病に倒れ、家光が薬を飲むように何度もすすめますが、一切飲まなかったといわれています。
1543年 65歳で没すると麟祥院に葬られました。
春日局は、逆賊の娘から将軍の乳母、そして老中をも超える権力を得た女性でした。斎藤利三の娘として波乱の人生を送りながらも、パワフル過ぎる行動力で家光を支えたことでも知られています。
彼女の生涯からは、「逆境をも味方にする」という強い信念が伝わってきます。