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東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)は、将軍 徳川秀忠の五女として生まれ、和子が14歳になると後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内します。
幕府と朝廷との間をとりもつための結婚でしたが、次第に両者の確執が熾烈になり、和子は多難な人生を歩むことになります。
今回は東福門院和子についてゆる~くご紹介します。
和子は1607年、江戸城で二代将軍 徳川秀忠とお江(浅井長政とお市の三女)との間に生まれました(生母はお江ではなく、栖吉城主の本庄清七郎の娘 妙徳院との説有り)。
秀忠の父である家康は、孫娘を天皇に嫁がせ、朝廷の内部に影響力をもつため天皇家の外戚となる計画を立てていました。
ですから和子は、生まれながらにして天皇に入内するという特別な任務を背負っていたのです。

このときの時代背景は、江戸幕府の初期のころで朝廷と幕府の関係が不安定だったため、両者の関係をつなぐために、和子の存在は政治的にも大きな意味をもつものだったのです。
女御入内が決定したのは1614年でしたが、大坂冬の陣、夏の陣があり、その後家康が亡くなり、後陽成院までも崩御されたため、和子の入内は延期されました。
ようやく入内が決定したと思ったら、後水尾天皇が女官の四辻与津子を寵愛し、すでに皇子と皇女が誕生していました。これに秀忠は激怒し、母子と近臣たちを追放させるという事件が起こりました。
1620年 結婚前から前途多難ですが、ようやく和子は14歳で後水尾天皇に入内することになります。

これからが大変・・・
将軍家から天皇家に嫁ぐということで、総費用は60万石ともいわれ、幕府の威信をかけた豪華な行列になり、さらに和子は1万石の化粧料も持参していました。

御所に運び込まれた花嫁道具が約380荷もあって大変だったの・・

中身が気になる・・・
江戸から旧東海道を通り、20日間かけて二条城に到着。そして二条城から御所に向かいました。
「東福門院入内図屏風」といって、二条城から御所に向かう花嫁行列の豪華な様子を描いた屏風があり、当時の華やかな様子を伺い知ることができます。
幕府は、和子が入内する前に「禁中並公家諸法度」を出し、朝廷や公家に対して監視を強めていました。
*禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、幕府が天皇、朝廷、公家などの行動を規制し統制するために出した規則
そんな中で幕府から送り込まれた和子を歓迎する空気はありませんでした。

中和門院様(天皇の母)だけはお優しかったわ

よかった よかった
1623年に興子内親王が誕生すると、和子は中宮となります。その後二人の皇子・複数の皇女が誕生しますが、二人の皇子は夭逝してしまいます。

さて、先にも述べましたが、幕府が出した「禁中並公家諸法度」という朝廷や公家たちにとって圧力を強めていた時期に、江戸から送り込まれた和子に対して朝廷の女官たちも良い感情はもっていませんでした。

やっぱり江戸から来た将軍の娘さんだから、朝廷の女官さんたちにとってはねぇ・・・

ねぇ・・

それでど~したの?

幕府の財力を使いました~

分かりやすい

具体的には、着物を贈ったりしていろいろな方に気を配ったの
和子は、京都の呉服商*「雁金屋」に頼み豪華な小袖をたくさん注文しました。1着50万~100万もする小袖を毎月仕立てて、それを女官たちに下賜していました。
和子は芸術センスに優れ、和子の注文した大胆な模様のデザインは「寛文小袖」とよばれ大流行しました。
また、和子によって江戸小袖の着用が宮中に広がるようになったといわれています。
*雁金屋 尾形光琳(おがたこうりん)の実家 尾形家は浅井長政の家来筋だったといわれる
またしても幕府と朝廷との間に大きな確執が生まれてしまう事件が起こります。
幕府が出していた紫衣の授与の規制がありましたが、後水尾天皇が慣例のとおり僧侶に紫衣の着用の勅許を与えたことに対し、三代将軍家光が紫衣の勅許の取り消し、無効にするという挙に出ます。
また、幕府からは春日局(三代将軍 家光の乳母)が上洛し、無位無官であったにも関わらず後水尾天皇に謁見の申し出をするという度重なる無礼な態度に対して後水尾天皇はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまい幕府に無断で譲位してしまいます。
後継の天皇は7歳の興子内親王に決まり、明正天皇(めいしょうてんのう)として即位することになります。しかし、女性天皇は独身を通す決まりなので、徳川の血を引く天皇を即位させることができなくなりました。
後水尾天皇が退位したことにより、和子は東福門院の院号宣下を受けました。
その後、後水尾天皇は院政を行い和子は後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)の三代の養母となり、生涯にわたり幕府と朝廷の関係を取り持っていくという気遣いの多い人生を送った女性だったといわれています。
そして、1678年 72歳で亡くなると、皇室と縁の深い泉涌寺に葬られました。