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1548年頃(諸説あります)尾張国朝日村(現在の愛知県)に生まれました。名前は「おね」や「ねね」と呼ばれていました。
ねねの父は信長に仕える杉原定利、母は朝日殿とされています。
ねねは性格は温厚でしたが、しっかりもので気が強く、声も大きかったと伝わります。秀吉との喧嘩では周囲に人がいても大声で尾張弁丸出しで怒鳴り合っていたらしく、高い身分になってもそれは変わらなかったといわれています。

1561年 ねねが14歳、秀吉が25歳のときに二人は結婚します。
秀吉は農民の出身でしたが、織田信長に仕えて出世を目指していました。
当時の武士の結婚は家同士のつながりが大変重要視されていた時代なので、恋愛結婚というのは珍しいことでした。
ねねの母は「身分の差」から結婚には大反対だったのですが、ねねは周囲の反対を押し切り結婚することを決意します。しかし二人の結婚式は藁を敷いて ”ござ” をひろげ盃を交わしただけのとても質素なものだったようです。

秀吉は出世するにつれて、多くの女性を側室に迎えるようになりました。そんなある日 なんと秀吉の主君である織田信長に夫の浮気について相談したといわれています。
信長から「あのはげ鼠、許せない あの猿(秀吉)にねねはもったいない しかしそなたももっと奥方らしくどっしりと構えているように」といった手紙をもらう驚きのエピソードもあります。
そして信長は秀吉をたしなめたといわれており、ねねは誰であっても自分の考えを伝えることのできた女性であったことが分かります。

はげ鼠って・・・

猿も相当ひどい

1574年 秀吉が信長の家臣として活躍し、近江 長浜城主になるとねねもそこに移り住みます。
長浜城は現在の滋賀県にあり琵琶湖のそばに立つ美しいお城でした。
秀吉は遠征でいないことが多かったのですが、城主の妻として家臣や町の人々の生活を支えました。
秀吉が町人の年貢を厳しく取り立てようとしたときに、ねねが大反対して白紙になったといわれ、政治面でも秀吉を支えていたようです。
多くの領民に慕われ、城の中でも家臣の妻たちをまとめたりして、秀吉が戦に出掛けている間、ねねが城を守っていたといわれています。
面倒見のいいねねは、縁戚だった加藤清正、福島正則らを子供のころに引き取って豊臣恩顧の優秀な武将に育てあげています。
1582年の本能寺の変で明智の兵に狙われていましたが、ねねは秀吉の母らとともに伊吹山麓の寺に身を隠し、難を逃れました。
秀吉の母「なか」もねねも高い身分になっても飾るところがなかったといわれ、二人は気が合っていたのか嫁と姑の仲は良かったといわれています

本能寺の変の後、秀吉は明智光秀を倒すと勢力を拡大し1583年 とうとう天下人に昇りつめます。
秀吉が築いた大坂城にねねも移り住みますが、多くの側室も大坂城で一緒に生活をしていました。
ねねは信長に対して秀吉の女癖の悪さを相談するくらいなので心中は穏やかではなかったと思いますが、秀吉の正室として出世を陰で支えてきた賢妻は平静を保ちながら豊臣家を支え続けます。
1585年 秀吉は関白となり、ねねは「北政所」と称されるようになります。ねねは朝廷と豊臣家との交流を深めるために挨拶や贈り物などの外交面での役目も果たしていたようです。
1598年 ねねが長年支えてきた秀吉が62歳で亡くなってしまいます。
秀吉が亡くなると、秀頼(秀吉と茶々の息子)を護るため実母の茶々(淀殿)が大坂城に入り発言権を持つようになります。

1599年 関ケ原の戦いを前にして、大阪城西の丸を家康に明け渡し京に移りました。
関ケ原の戦いの後、秀頼の母である茶々(淀殿)に豊臣家の存続のため、家康に従うように促しますが失敗に終わります。

1603年 ねねは落飾して高台院と号します。
1605年 京都東山に高台寺を建立して秀吉の菩提を弔いました。
いよいよ豊臣方と徳川方との戦が避けられない状況になってきたころ、ねねは大阪城にいる淀殿の説得に動きだそうとしますが、それを察知した家康により、動きを封じられてしまいます。
家康にしてみれば豊臣を倒す絶好の機会なので、ねねの淀殿への説得はむしろ「余計なこと」です。
ねねは豊臣恩顧の大名たちには「実の母」のように慕われており、ねねの発言によっては徳川方から離反する者たちが出るほどの影響力をもっていました。
それほどねねは家康からみれば「危険な存在」でした。
1615年 大坂夏の陣で大阪城が落城 淀殿と秀頼は自刃
ねねは高台寺の高台から燃え盛る大坂城を見ていたといわれ、秀吉と築き上げた豊臣家の滅亡を見届けることになってしまいました。
それから9年後の1624年 ねねは生涯を閉じました。
ねねは秀吉の正室として支え続けた賢妻で、あの家康も一目置いたといわれた女性でした。
秀吉も彼女を最も頼りにしていたようで、軍事面、政治面についての重要なことも大坂城にいるねねに書状を書いて送っていました。
天下人になった秀吉が信頼するくらいですから、ねねは政治的センスに優れ、時代の変化を感じ取り冷静に先を読むことができた人物だったのではないでしょうか。
秀吉とねねに嫡男がいた場合「徳川幕府」というものは誕生していなかったといわれるほど賢い妻といわれ、また多くの人に愛された天下人の妻でした。