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1517年 大政所(なか)は尾張国愛知郡御器所村(名古屋市)に生まれ、同じ愛知郡で農民だった木下弥右衛門に嫁ぎ とも、秀吉、秀長、旭を生みました。秀長と旭については、なかが再婚した筑阿弥(ちくあみ)の子であるという説もありますがよく分かっていません。秀吉の父であるとされる弥右衛門は織田家の雇い兵だったために戦のときに負傷してしまいその傷がもとで1543年に亡くなっています。
なかは子供4人を連れて 織田信秀の同朋衆だった築阿弥と再婚しましたが、再び夫が亡くなってしまいます。長男である秀吉は信長に仕えどんどん頭角を現していき、1561年に杉原定利と朝日の子 ねねと結婚しましたが、ねねの母からは猛反対されたようで結婚式は質素なものだったようです。
しかし、秀吉の正室である ねねと大変仲が良かったと伝わり、1574年 秀吉が長浜城主になると、本丸御殿でともに暮らし、周囲からは「御母堂さま」と呼ばれるようになります。
1582年 本能寺の変の際には長浜城にいましたが、なかとねねは寺に避難して無事でした。
この後秀吉は天下人の道を歩き始めることになり、生活が激変することになります。
その後秀吉が築城した大阪城に移り、1585年に秀吉が関白になると なかは大政所の称号を与えられ従一位に叙されました。尼将軍であった北条政子は従二位でしたから 、女性のなかで最高の位になりました。なかは ねねに「尼将軍より位が高いのはもったいなくてならない」といったという話もあります。
1586年 徳川家康がなかなか上洛しないために(秀吉の臣下にならないため)秀吉は妹の旭をわざわざ離縁させて家康の正室(継室)としてしまいました。当時は恋愛結婚というわけではなく政略結婚であり同盟の意味がありました。従って嫁いだ女性は、もし夫と実家が政治的にこじれることがあれば離縁されるか、親兄弟から攻められ城とともに滅ぼされてしまうのです。そういった時代に秀吉の実妹である旭姫は家康の正室にされてしまったのです。ちなみに旭姫はこのとき44歳でした。
しかし、家康は上洛しようとはしなかったので、秀吉は実母まで家康のもとに人質として送り込んで臣従させようとしたのでした。
秀吉の実妹の旭姫、実母まで人質として送り込まれた家康はとうとう折れて 上洛することになります。
というのも上洛に際し家康に危害が加えられるという疑念が徳川家臣の間にあり上洛の話が進まなないとした声が聞こえてきたために、秀吉は なかまで人質に出して家康の身の安全を保障して上洛を促したのでした。家康にしてみれば断ることが出来なくなってしまったのです。さすが秀吉です。
家康の上洛に際し、なかが人質として差し出され岡崎に滞在しますが、その間の警護は井伊直政が務め、御機嫌伺いもかかさず、敬意を払ったおもてなしをしたため信頼を得たといわれています。しかし一方で 家康に危害が加えられた際には本多重次によって、なかのいる館に薪を積んで火を放つ準備もされていたので文字通り人質という立場だったのです。
このあと なかは秀吉と家康の対面が無事に終わり 1か月の滞在で帰ることになりますが、その際の警護も井伊直政が務めています。これは秀吉からの指名だったといわれており、直政は秀吉となかの両方から信頼を得ていたといわれています。直政は御供のあと、大阪城にて秀吉と謁見して今度は秀吉からもてなされたといわれています。
このあと なかは心労のためにたびたび病気で倒れてしまい、1590年に娘である旭姫が47歳で亡くなるとますます病が重くなってしまいました。一時は快方に向かいましたが、1591年に息子の秀長(秀吉の弟)が亡くなると、秀吉の文禄、慶長の役などによる心労で再び病に倒れてしまいました。
1592年に文禄、慶長の役に際し 秀吉が名護屋を出発した日に なかは77年の生涯を終えました。その知らせを聞いた秀吉は気絶したと伝えられています。