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皇女和宮(かずのみや)は、1846年仁孝天皇(にんこう)の第八皇女として生まれました。母は権大納言の娘 橋本経子(観行院)です。
しかし、皇女が幕末という激動の時代に徳川家茂に降嫁することになり、その後新政府軍と旧幕府軍とが戦い新政府軍が江戸に迫ると、徳川家存続と江戸を守るために命懸けの嘆願書を書くなど、徳川の人間としてその任務を果たしていくことになります。
今回は幕末の混乱期に政略結婚でいやいや降嫁した「悲劇の皇女」ではなく、短いながらも家茂との結婚生活で次第にお互いの心の距離が近づき絆が深まって、やがて徳川の人間として強く生きた皇女のお話と、その皇女和宮と家茂の養母であった天璋院篤姫との確執について迫っていきたいと思います。
和宮の誕生する前に父帝は亡くなり、それを不憫に思った異母兄の孝明天皇の命によって和宮が6歳のときに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約しました。

しかし、幕府は勅許問題・将軍継嗣問題などで朝廷との間が冷え込み、それによってますます幕府が弱体化していたので、朝廷の力を借りようと和宮を14代将軍 徳川家茂にと降嫁を求めてきました。
和宮は「東国(江戸)に行くくらいなら尼になる」というほど嫌がっていたのですが、岩倉具視が孝明天皇に「幕府に対して攘夷を決行するならという条件で和宮を降嫁させてはどうか」と説得した結果決定されたといわれています。

岩倉具視さんって感じの説得だ~

たしかに~

攘夷とは?明治維新とは?はこちらから
和宮は、攘夷のため、幕府が諸外国と交わした条約の破棄のためにいやいや降嫁するのですが、実際は幕府にとっては「攘夷や条約の破棄」は実現不可能な話なのでした。


え~!!

それなのに婚約破棄までして降嫁することになったんだよね
和宮は最後まで抵抗していましたが、周囲からの説得によりとうとう折れ、1861年、江戸城で婚礼がとりおこなわれました。和宮と家茂は同じ17歳でした。
和宮は降嫁の条件として、江戸大奥においても「すべてを御所風に」という条件を出しました。
髪型や着ているものはもちろん公家風、「御台様」と呼ばれることについても嫌がったといわれており、「和宮様」と呼ばせるなど公家の流儀を通したために13代将軍・徳川家定の御台所であった天璋院とものすごく仲が悪かったといわれています。

兄は孝明天皇という和宮は中山道を通って江戸に下り、将軍家茂という武家に降嫁した唯一の皇女でした。
和宮の身分は姑の天璋院よりも高かったので、京から持参した贈り物に「天璋院へ」と書き、嫁から姑の贈り物でしたが呼び捨てにしたといわれています。
それにキレたのが天璋院で、「すべてを御所風に」だけでも腹を立てていたところに呼び捨てというパンチが飛んできたのですから怒りは相当だったと思います。
天璋院にしてみれば、自分が嫁いでくるときには教育係の「幾島」という女性に礼儀を徹底的に叩き込まれ、しきたりを守って大奥にいたわけなので、怒るのも無理はないかもしれません。
一方の和宮ですが、こちらも兄の孝明天皇に頼まれたために婚約破棄までして渋々嫁いできたのでせめて御所風くらいは・・との思いがあったのかもしれません。

和宮と天璋院の初対面の際にこんなエピソードがあったのをご存じでしょうか。天璋院は上座に座り、会釈もしなかったといわれています。対して和宮には下座に座らせ敷物(座布団)も用意されていなかったといいます。
この仕打ちに和宮は部屋に戻って泣いていたとの話もあるようです。

うぅぅぅぅっ

・・・・・・・・
嫁と姑バトルが過熱して、大奥だけでなく京までもその対立の噂が届いてしまうようになりますが、和宮と家茂の夫婦仲は非常に良かったといわれています。
家茂は優しく穏やかな人柄だったといわれていて、和宮に花や金魚やかんざしなどの贈り物を届けたりして気遣っていたようです。

家茂さんでよかったよ~これが次の慶喜さんだったら・・・

ねぇ・・
そして、天璋院と和宮とが仲直りするきっかけとなったといわれているのが、踏み石の上に和宮と天璋院の履物が置いてあり、その下に家茂の履物が置いてあったので、和宮が縁先から降りて自分の履物と家茂の履物を置き換えたことから、天璋院と和宮の仲も円満になったといわれています。

出陣する家茂を気遣っていた和宮でしたが、1866年 家茂は第二次長州征伐で大坂城に滞在中、脚気により21歳で死去してしまいます。
悲しみに暮れている最中の和宮に届いたものがありました。
それは、和宮が家茂にお土産に頼んだ西陣織で、和宮への最後の贈り物となった品でした。
空蝉(うつせみ)の唐織衣(からおりごろも)なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ
お土産にと頼んだ西陣織ですが、もはや何の役にも立ちません こんなに美しい着物もあなたがいなければ着る意味もありません
という和宮の悲痛な思いが伝わってくる歌を詠んでいます。
和宮は落飾して「静寛院宮」と称します。
家茂との結婚生活は、わずか4年半と短かいものになってしまいました。
家茂の次に将軍となったのは、徳川最後の15代将軍 徳川慶喜です。
1868年に鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗れ慶喜が軍艦で江戸に戻ると、和宮の元婚約者であった有栖川宮熾仁親王を総督とした追討軍(朝廷と薩摩藩が中心となった軍)が江戸に迫ってくるといった事態になります。
和宮は皇女でありながら、朝廷に一命をかけて徳川の存続と江戸城攻撃の猶予を乞うといった手紙を書いており、徳川家の人間として行動しています。これは天璋院も同じで、薩摩藩出身でしたが、徳川方の人間として西郷隆盛に江戸の総攻撃の回避と徳川家の存続を訴える書状を送っています。
あれほどバトルを繰り広げていた二人ですが、大奥でお家存続のために協力して徳川を守っていました。

けれど実は、和宮から送られてきた書状に対して西郷隆盛と大久保利通は、「賊の一味になり果てた」と言い捨て、和宮の必死の行動を相手にしていませんでした。
それどころか、西郷隆盛と大久保利通は皇女和宮に対して厳罰を主張したといわれています。

え~?!なんで~?!

徳川を徹底的に潰したいのに邪魔されたくなかったから~
その後、予定されていた江戸の総攻撃の前日にあの有名な勝海舟と西郷隆盛の会談によって江戸城の無血開城が決定されます。
江戸城への攻撃が回避され、徳川家の存続も叶い、和宮は暇乞いをして京都に戻ります。
その後東京に戻ってきて麻布の屋敷に住んでいましたが、病気療養のため箱根で過ごし、1877年 家茂と同じ脚気で亡くなります。32歳の激動の人生でした。
和宮の希望により、増上寺に眠っている家茂の隣に埋葬されました。
和宮の柩には烏帽子姿の男性の写真がおさめられていますが、保存状態が悪いため、誰かは判別できなかったようです。しかし、おそらくそれは家茂ではないかといわれています。