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葛飾北斎とは世界に名を馳せる浮世絵師として知られており、作品は日本の文化を象徴する存在で、「富嶽三十六景」は日本のパスポートのデザインにもなっています。
しかし、やはり根っからの芸術家のせいか少々変わり者だったようで・・今回はそんな葛飾北斎の生涯をゆる~く紹介します。
北斎は現在の東京都墨田区亀沢で生まれ、若いころから絵を描くことに情熱を注ぎ、19歳のころに勝川春章のところに入門し絵師として長い下積み生活が始まります。
この記事では、北斎の生涯やエピソードなどを紹介しながら、浮世絵師 北斎の魅力に迫っていきます。
葛飾北斎は東京都墨田区で生まれ、幼少期から絵を描いており、14歳のころには浮世絵版画の修行をはじめ、その後 役者絵を描く勝川春章に入門し、勝川春朗という名前で挿絵などを描いて活動していました(その後勝川派を出て、俵屋宗理を襲名します)。この時期の北斎は様々な画風の作品を手掛けていました。
江戸時代の出版王と呼ばれた蔦屋重三郎と出会い、戯作者である曲亭馬琴を紹介されたことで、馬琴の物語の挿絵を数多く描くことになります。
この二人は一時共同で生活するほど親しかったようですが、お互い芸術家同士なので作品に対してのこだわりが強く口論が次第にエスカレートしていき、喧嘩別れしたともいわれています。それまではたびたび版元がとりなしていたらしいのですが、とうとう双方が仲直り不可というところまできて絶縁に至ったといわれています。
ちなみに北斎の挿絵と馬琴の読本で有名なのが「椿説弓張月」「そののゆき」があります。
*曲亭馬琴(戯作者) 南総里見八犬伝を執筆した人で、48歳で書き始め28年にわたって書いたとされ、65歳くらいから視力を失いかけ、やがて視力が完全に失われると息子の妻、お路(みち)の口述筆記で完成させたといわれています。
北斎が70歳を過ぎたころ名所を描いた「富嶽三十六景」が大ヒットとなります。
このデザインは有名なのでどこかで見たことがあると思います。新千円札をお持ちの方は裏面をご覧ください。それが北斎の浮世絵です。
*富嶽三十六景・神奈川沖波裏
海外でも北斎スケッチとよばれる北斎の代表作「北斎漫画」を描きます。
北斎漫画とは絵の手本を描いたもので数多く出版されました。それまでは門人に肉筆で絵手本を渡していましたが、門人が増えすぎたことと、多くのファンや絵を学びたい人達のために版下絵の制作に取り掛かります。
それにより大量に摺って出版することができました。
その後亡くなる少し前まで肉筆画を描き続けるようになります。
みずから「画狂老人」といって多くの作品を描いた北斎は90歳でその生涯を閉じました。
晩年の北斎と一緒に暮らしていたのは後妻こと(ことは北斎が69歳のころ亡くなります) との間に生まれた三女 阿栄(おえい)でした。阿栄は、顎が出ていたといわれ、北斎はこの娘を「アゴ」と読んでいたらしいです。
また、葛飾応為として多くの美人画を描き、北斎は美人画は阿栄の方が優れているというほどだったようです。そんな阿栄ですが、絵師の南沢等明と結婚していましたが、等明の描いた作品を指して笑ったことが離縁に繋がったといわれており、それを機に実家に戻ったようです。
しかし北斎が亡くなって数年後に家を出たきりどこへ行ったか分からないといわれています。
天才と呼ばれた人は多くの面白いエピソードを残してくれますが、北斎もやはりその一人でした。有名なものをご紹介します。
93回も引っ越したようで、「引っ越し魔」と呼ばれるだけはあります。酒も煙草も食事さえ興味がなく、ただひたすら絵を描き続けました。
そして、お金にも執着がなく、支払いは中身をみないでお金が入った袋をそのまま渡していたそうです。
そんな北斎だから家の中の掃除などするわけもなく、ゴミで部屋が汚くなると引っ越ししたといわれています。
また、北斎の孫がつくる借金のためにお金がなくなり、着ている衣服はボロボロで、版元にお金を借りるといった生活をしていたようです。
先妻の長女阿美与と絵師 柳川重信の子であり北斎からみれば孫ですが、借金ばかりして、北斎からは「悪魔」と称されるほどの悪行を重ねて、この孫のことでずいぶんと悩まされたといわれています。
そして孫が起こした事件のために名前まで変えて潜伏生活を送っていたともいわれています。
この潜伏生活には様々な説があって、作品が幕府の意に沿わないもの(禁止されていた作品)を出してしまい逃げていたという説や、借金取りから逃げていたとの説もあります。
しかしこの孫を追い払うため、晩年には毎日獅子を描いて魔除けにしたとの話もあり(長寿を願った説もあり)、相当放蕩の孫であったということが伺えます。
江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は絵だけではなく、ファッションやデザインの世界でも影響は見られ、日本のパスポートや新紙幣などで一層身近なものになって現代でも多くの人に親しまれています。
そんな世界中にファンを持つ北斎ですが、亡くなるときに「せめてあと5年生かしてくれたら、本当の絵描きになってみせる」といったというのですから北斎の創作意欲が最期まで凄まじいものだったことが分かるエピソードだと思います。
以上 ゆる~い葛飾北斎さんの紹介でした