徳川家定の正室・天璋院(篤姫)の生涯をわかりやすく解説

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天璋院篤姫、13代将軍徳川家定の正室となる

1836年、篤姫は薩摩藩島津家の一門、島津忠剛(ただたけ)の娘として誕生します。名前は一子(かつこ)といい、活発で利発であったといわれている女性でした。

  

こばん店長
こばん店長

「かつこ」さんってお名前だったのね

    

天璋院こと篤姫が大きく運命を変えたのは18歳のときで、薩摩藩主 島津斉彬のところに 病弱であったといわれている13代将軍 徳川家定との縁談が持ち込まれたことからはじまりました。

  

しかし、斉彬の子で家定と年齢が近い娘がいませんでした。そこで、島津家の分家筋にいた篤姫に白羽の矢が立ち、斉彬の養女となった後 さらに近衛忠煕の養女となり、篤姫が21歳のときに徳川家定の正室となりました。

  

なぜ、薩摩の島津家に縁談が持ち込まれたのかについてですが、家定には公家出身の正室が二人いましたが、いづれも病死してしまいました。

  

  

そこで11代将軍の家斉の正室(広大院)が薩摩出身で丈夫で長命だったことから、公家ではなく、島津家の娘を正室に望んだといわれています。

  


島津斉彬、篤姫を将軍家へ送り込む

幕末に外国船が頻繁に日本周辺にやってくると、「開国」か「攘夷」で国内の意見は二分していました。

*攘夷 夷敵(野蛮な外国人)を打ち鎖国をすること 

  

斉彬は、この国難に対して従来の幕府政治ではなく、雄藩連合により国政を行うべきだとする考えの持ち主でした。 

  

まず、薩摩藩は外様だったので、幕政に参加することができませんでした。

  

そこで、幕府内部に対して強い影響力をもちたいとの思惑と、ちょうどそのとき幕府から縁談の話があったので、篤姫を家定の正室として大奥に送り込むことにしました。

  

家定は幼少期から病弱で、ペリーが来航してから「開国」「尊王攘夷」などの問題が山積していて、穏やかな時代の将軍ならある程度は問題はなかったのですが、激動の時代の将軍として政務に耐えられる身体ではなかったといわれています。ですから、急ぎ次期将軍を決めなければなりませんでした。

 


篤姫23歳のとき、夫の徳川家定が病気で亡くなる

家定は1858年に心労のためか35歳の若さで亡くなります。篤姫が23歳、嫁いでからわずか1年7カ月後のことでした。

  

斉彬は、徳川斉昭の子である徳川慶喜(一橋派)を次期将軍にするべく、大奥にいる篤姫に働きかけ、篤姫も慶喜を将軍に据えるために動いていましたが、水戸斉昭は大奥から相当嫌われていた人物というのもあって14代将軍は、慶福(のちの家茂)に決まりました。

  

家定の母で篤姫の姑、本寿院とは?

  

こばん店長
こばん店長

家定さんのお母さん、本寿院さんが斉昭さんが大っ嫌いだったようで・・・

    

  

アダム
アダム

へ~なんで~?

  

     

こばん店長
こばん店長

斉昭さんは大奥で女性問題でやらかした人だったから拒否されたんだよ~

     

      

アダム
アダム

ほ~

     

  

こばん店長
こばん店長

あと、大奥に対して質素倹約といってうるさかったからともいわれているよ~

    

  

アダム
アダム

いいそうだね~

      

  

こばん店長
こばん店長

だから篤姫が慶喜さんを将軍にしようとしたとき、「慶喜が将軍になるなら自害する」とまでいって拒否したらしい

  

  

アダム
アダム

そこまで?

   

本寿院は、薩摩藩の島津斉彬が次期将軍を慶喜にするために篤姫を大奥に送り込もうと動いていたことを察知していたので、篤姫が家定のもとに嫁いでくることも不満だったといわれています。

  

篤姫は家定の死後23歳で落飾(らくしょく)し、天璋院(てんしょういん)と号し、徳川家茂の養母となります

  

  

家定が亡くなり、天璋院(篤姫)は薩摩藩に戻るようにとの話があったようですが、それを断り徳川の人間として生きていくことを選びその役割を果たしていくことになります。

  


家茂と和宮の結婚で頭を悩ます天璋院

1862年 孝明天皇の妹である17歳の皇女和宮が家茂の正室として迎えられました。これは、公武合体という政策の一環としての政略結婚でしたが、夫婦仲はとても良かったと伝わっています。

  

この公武合体とは、幕府の弱体化が進んでしまったので、朝廷の力を借りて幕府と朝廷とが結び、ともに政治を行っていくことをいいます。ですから、和宮の降嫁は、幕府と朝廷との結びつきを強化する狙いがあったのですが・・・。 

  

和宮は江戸城の大奥でも武家のしきたりではなく、「御所風」を通したため、結婚当初は天璋院との仲はよくありませんでした。

  

和宮

和宮は結婚する条件として「すべて御所風」で通すとしており、それを幕府側も了承していましたが、天璋院側にしてみるとワガママにみえたのかもしれません。

  

この二人の険悪なムードは江戸城内だけでなく、京まで伝わるほどだったといいます。

  

ただでさえ諸外国との交渉や、攘夷派たちの騒動、朝廷とのやり取りもしなければならないそんなときに嫁・姑バトルをみて、家茂は気苦労が絶えなかったのではないでしょうか。

  

こばん店長
こばん店長

そんな家茂さんが好きだったお菓子の記事だよ~

  

時がたつにつれ、天璋院と和宮はともに徳川家を支える立場にある者同士なので少しづつ心を通わせていきます。

  

しかし、二人がお互いに共感し合うことになったそのときに、江戸城で家茂死去の知らせをうけることになります。

  


家茂が大坂城で病死してしまう

家茂は、1866年の夏 第二次長州征伐で大坂城に滞在中、21歳の若さで病死してしまいます。

  

   

家茂は脚気衝心のため亡くなったとされています。

  

和宮との結婚生活は4年半でした。天璋院と和宮の悲しみはどれほどのものだったのでしょうか。

  


天璋院篤姫は江戸城無血開城のため奔走する

家茂が亡くなると、15代将軍となった徳川慶喜は1867年に大政を奉還しますが、1868年の正月に旧幕府軍と官軍とで鳥羽・伏見の戦いが起こり、官軍の中心的存在である天璋院の実家の薩摩藩に旧幕府軍が大敗してしまいます。

慶喜は軍艦で江戸に戻ると上野寛永寺で謹慎しますが、慶喜を朝敵として新政府軍が江戸に迫ってきていました。

  

そのとき天璋院は実家である薩摩藩の西郷隆盛宛てに徳川家存続と総攻撃を回避するのために一命をかけて嘆願書を送りました。

  

そして、江戸の総攻撃の前日に勝海舟と西郷隆盛の会談で、江戸の無血開城が決定されます。

  

天璋院の嘆願書が西郷の胸に響いたかは分かりませんが、天璋院は実家ではなく、徳川家存続のために命懸けで行動しました。

  

その後 徳川家の存続も許され、徳川家達(いえさと)が16代当主となります。

    


天璋院篤姫、維新のあと

明治維新のあとの天璋院は、薩摩からの援助を断り実家にも戻らず、徳川家16代 家達の養育に力を注ぎます。

  

質素に暮らしたといわれていますが、勝海舟と遊びに出掛けたり、和宮の屋敷に出掛けたりしていたようです。

  

その和宮が1877年に療養先の箱根で亡くなると、天璋院はその地を訪れ悲しんだといわれています。

  

1883年 天璋院は激動の時代を生き、48歳の生涯を終えました。

    


天璋院・本寿院・実成院のエピソード

  

アダム
アダム

本寿院さんて篤姫さんのお姑さんだよね~

  

  

こばん店長
こばん店長

そうそう

  

アダム
アダム

じゃあ、実成院さんってどちら様~?

  

本寿院は13代将軍家定の生母で、篤姫の姑にあたる人物です。前述しましたが、この本寿院は天璋院が家定に嫁ぐことを嫌っていた方です。

  

そして、14代将軍家茂の実母である実成院は、徳川斉順(紀伊藩主)の側室でした。しかしお酒が大好きな方だったらしく、朝から晩まで大奥で大騒ぎをして注意をうけるほどだったそうです。

  

この本寿院と実成院と天璋院は維新のあと、徳川邸にて一緒に暮らしていたようです。

  

アダム
アダム

篤姫さん、本当に大変な一生だったね

    

  

こばん店長
こばん店長

本当だよね~ ・・以上、天璋院篤姫の生涯についてでした~