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戦国時代でひときわ美しい女性として知られているのが「お市の方」です。彼女は織田信長の妹として1547年に生まれ 1583年に自刃、戦乱の中で波乱の人生を閉じました。今回は、お市の方の生涯をわかりやすく紹介します。
お市の方は、歴史上の女性の中でも「戦国一の美女」と称されるほどの美しさを持っていました。
彼女はただ美しいだけでなく、賢く、武将たちの間でもその才智が高く評価されていたといいます。
お市の方の父は織田信秀、母は土田御前(つちだごぜん)で、同母兄の信長とは13歳離れていました。幼いころから教養を身につけ聡明な女性へと成長しました。
信長は1560年 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ります。
今川義元を討ち、天下取りに名乗りをあげた信長は上洛を考え1564年(1567年説もあり)北近江の浅井長政と同盟を結びます。
お市は兄である信長と兄妹仲が良かったといわれ、お市の美貌と知性を生かし信長の天下取りの一環として重要な役割を果たすことになります
お市の方は18歳(いろいろな説があり)で北近江の戦国大名 浅井長政へ嫁ぎます。この結婚は織田家と浅井家の同盟の証としたものでしたが、夫婦仲は円満で三人の娘をもうけています。
しかし、この同盟は長くは続きませんでした。

お市の方には三人の娘がいました。この三人が浅井三姉妹といわれ、茶々(淀殿)、初、お江です。
・茶々(淀殿) 豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生んでいます
・初 京極高次の妻で大坂の陣では豊臣方と徳川方の和議に奔走します
・お江(ごう) 二代将軍になる徳川秀忠の正室になります
お市の方の娘三人も戦国の世を生き抜き、歴史上の重要な人物となりました
1570年 織田信長と同盟を結んでいた長政でしたが、信長が朝倉氏を攻めると朝倉氏と手を結び信長を挟み撃ちにしようとします。
ここで有名なのが、兄信長に対して袋の両方の端を結んだ小豆を陣中見舞いとして届け「織田軍が袋のネズミ」であるといった危険を知らせた話です(後世の創作ともいわれる)
お市の方と長政は夫婦仲もよかったのですが、なぜ夫を裏切るようなことをしたのかというと、戦国時代の女性たちは、政略結婚により実家から嫁ぎ先に密偵のような役目を負い送り込まれているので、嫁ぎ先よりも実家に重きをおいて行動していたためです
これにより信長はギリギリで京に逃げ帰ることができたといわれています
この裏切りにより信長は大激怒し浅井・朝倉を攻めることになります。

1573年、信長は朝倉氏を攻め滅ぼすと、つぎに浅井の小谷城を取り囲みます。
お市の方は夫 長政とともに自刃しようとしますが、長政から「浅井の血を絶やさないでほしい」との願いから三人の娘とともに織田家にもどることになりました。
このときに長政は自刃し、浅井家は滅亡しました。お市が27歳のときのことです。
お市の方と三人の娘たちは信長の庇護のもと伊勢上野で暮らしていましたが、1582年 本能寺の変が起こり信長が討ち死にしたことにより、お市の方は再び戦乱の世に巻き込まれることになってしまいます。
兄 織田信長がいなくなったことによって戦国の勢力図も大きく変わってしまったためでした。
歴史上で美女といわれた方は波乱の人生を送る人が多く、お市の方もそういった人でした。
信長が亡くなると、信長の後継をめぐり柴田勝家(織田家の重臣)と豊臣秀吉が対立することになります。
1582年 お市の方の甥(信長の三男)信孝から柴田勝家との再婚を勧められ承諾することになりました。
勝家は信長の忠臣であり、お市の方や三人の娘も大切にしたといわれています。しかし、この再婚は長くは続きませんでした。

豊臣秀吉が勢力を強め、1583年 北近江の賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで勝家は秀吉に敗れてしまいます。勝家はお市の方に居城の北ノ庄城から逃れるように説得しますが、それを退け自刃する道を選びます。
お市の方は二度の落城を経験するなど波乱に満ちた37年の生涯となりました。
ただ、娘の三人には浅井の血を絶やさないようにとの遺言をして秀吉のもとに送り出したといわれています。
お市の方は、戦国の世に翻弄されながらも最期まで浅井の血脈を守るために行動した知性と美しさも兼ね揃えた女性であったことが分かります。
彼女の三人の娘はそれぞれ戦国時代を行き抜き、新しい時代の重要な役割を担うことになるのですが、母と同じく波乱の人生をおくることになるのです。