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1618年 松平忠昌(忠直の弟)は川中島から移封 高田城入封
忠昌の父は徳川家康の次男である結城秀康です。高田城下の整備・繁栄策を講じ、活気ある時代でした。
松平忠昌の兄である忠直は福井越前北ノ庄の藩主でした。父は結城秀康です。
(1574年生~1607年)徳川家康の次男で、双子で生まれたため、冷遇されたという説がある殿様。1584年、小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉との和睦のため養子に出されますが、秀吉に実子が誕生すると、また他家に養子に出されてしまいます。
秀康は双子で生まれていて、もう一人は生まれてすぐに亡くなったとされています。
兄である信康が切腹した後は、次男である秀康が2代将軍となるはずですが、秀吉の養子(人質)として羽柴姓を名乗ったことから、弟である秀忠が将軍となりました。
双子嫌いの家康だったためともいわれていますが、すでに養子に出ていましたし、秀忠の母の方が身分が高かったために後継としたと考えられています。
忠直は大阪夏の陣では、真田幸村らを討ち大阪城へ攻め入るなどして戦功を挙げました。
大坂夏の陣の最大の功労者として、家康から茶入れ「初花」 を与えられました。
茶入「初花」は、足利義政が春に先がけて一番に咲く花を思わせるとして、古今集の「くれなゐのはつ花染めの色深く思ひしこころ我忘れめや」に因み名付けたとされています。織田信長・徳川家康・豊臣秀吉・再び徳川家へと伝来しました。天下三肩衝とよばれた茶器の一つです。
しかし、この論功行賞は忠直が承服できるものではなく次第に幕府への不満を募らせていきました。
なんとなく嫌な予感がするなぁ・・・。
忠直さんは不満を募らせて、こんなことをしました。
参勤交代を途中で引き返し、川で遊んだり、無断で国に帰ったりし始め、江戸に出府しないことが続きました
また 理由は分かりませんが、忠直が勝姫を斬りつけようとしたとき、かばったお付き女性2名が斬られて亡くなっています。
妊婦を斬った他、民まで斬ったなど、領内で残忍な噂が立ち始めました
1623年 将軍秀忠は、忠直に領地没収、隠居を命じます。
忠直は、豊後萩原に配流され、その地で(一伯)と名を改めました。
そこでは、神社仏閣の再建に力を入れ、近くにいた民とも気軽に話、民衆にとても信頼されたらしいのです。
また、その姿は、乱行を繰り返した忠直と同じ人とは思えなかったともいわれています。
松平忠昌 北ノ庄へ移封
1624年 松平忠昌、兄の忠直が「粗暴なふるまい有」として不行跡を理由に豊後(大分県)に配流されたため、幕命により越前藩主に封じられました。(川中島→高田→北ノ庄)
松平忠昌の兄である忠直が豊後に配流されましたが、その豊後で妻を取り、長頼、長良、おかん、の二男一女をもうけています。
この三人がのちの越後騒動に深く関わっていくのです。
越後騒動・・・・これがなければ・・・・・。
う~ん。
1624年 松平光長 高田へ入府
松平忠昌に代わり高田藩主となったのが、忠直の嫡子である仙千代 10歳です。(松平光長)
父は福井藩主の松平忠直で、母は将軍である徳川秀忠の三女 勝姫ですので、どちらにしても祖は家康にたどりつくといった家柄でした。
15歳で元服をし、三代将軍の家光の「光」の字をもらい光長となりました。
1624年に転封を命じられ、その10年後に高田城に母である勝姫(高田姫)とともに入城しました。それまでは江戸屋敷にいたとされています。
入部の際の「みやげ」として地子銭(宅地税)が免除となりました。
光長の領地は頸城全域、魚沼の一部、刈羽の一部、三島郡の一部、信濃更科郡の一部で石高は勝姫の化粧料2万石を加えた26万石でした。
1652年 忠直・勝子の息女(高松宮寧子妃)好仁親王逝去により高田へ
1665年12月 マグネチュード6.3の大地震が起きます。(寛文地震)4.2mもの積雪があり被害が甚大でした。
そしてその地震で筆頭家老の小栗正高、次席家老の荻田隼人など重臣が亡くなってしまいました。
小栗正高の嫡子である小栗美作は父の跡を継ぎ筆頭家老となり、藩政の実権を握りました。
1626年 高田で生まれる。先祖は徳川家康に仕え、将軍謁見を許された名門の旧家。
父の正高は結城秀康の越前移封に伴い付家老として仕えるが、忠直が配流となったので、息子である仙千代(光長)の守役となった。
美作は、藩主である光長からの信頼も厚かったので、光長の異母妹「おかん」と結婚し、息子(掃部)が生まれるが、おかんは掃部を生んですぐに亡くなってしまった。
地震の時、藩主である光長は江戸にいて連絡が取れない状態でした。ですが、美作は急ぎ金蔵・米蔵を開けて被災領民の救済を独断で決行しました。
この行動が領民から深い信望を得たのでした。
そのあとで江戸の光長に報告し、幕府に救援を求めて高田に戻ってくるといった素早い行動をとっています。
春になり、幕府より三千俵の見舞米と五万両の巨費を借用して復興にとりかかり、上越市の現在の市街(道路・河川・区画整備)を造りました。
直江津港の築港、中江用水開削、各地の新田開発(大潟新田・保倉谷新田・刈羽・魚沼各地)、大鹿煙草の栽培、魚沼銀山開発など多くの功績を残した人でした。
この新田開発のおかげで、表高26万石は実質36万石となり、高田藩最盛期を築きました。
魚沼の銀山採掘について
銀山平
上田銀山・白峯銀山の採掘をし、高田へ運んで銀貨(花降銀)を鋳造した
飢饉のときに美作はこの銀を藩士や窮民に与え喜ばれる(美作は一文も手にしなかったといわれている)
高田藩瓦解後、幕府によって両銀山は没収されている
中江用水は、農民が安定した水源を確保するために高田藩に願い出たもので、この用水の完成により多くの領民の生活が安定・向上しました。(長野県の野尻湖池尻川から取水し、上越市板倉の平野部穀倉地帯を貫流し、上越市佐内で保倉川へ合流するといった大用水)
美作はこの大工事にあたり、領内に良い人材がいないとなると、江戸から河村瑞賢など治水工事の専門知識を持つ優秀な人材をどんどん招いて登用するなど、武士の体面を気にすることなく藩政改革を推し進めていきました。
こうして下級武士であっても、武士でなくとも有能であれば登用するといったやり方に腹を立てた藩士が大勢いました。
また、財政の立て直しのために藩士の禄を知行制から蔵米制にしたことで藩士の収入が減少したこともあり、美作のやり方に反対する藩士が増えていきました。
それというのも度重なる災害(1673年、1674年大凶作、1676年延宝の大火)に加えて、美作の諸事業のための財政支出や、藩主光長も質素倹約をしているふうでもなく、母、勝姫(高田姫)や、実妹寧子妃に掛かる経費などで財政は逼迫していました。
こうした中で、光長の嫡子である綱賢が42歳で病死してしまいます。この後継問題が越後騒動となっていくのです。
小栗美作は光長の異母弟である市正(この時亡くなっていました)の子、万徳丸を推し、光長も承諾し、幕府も光長の世子として認可しています。
万徳丸は将軍である家綱から綱の字をもらい綱国となりました。
しかし、1679年1月に、市正の弟である大蔵がこの決定に不満をもち、荻田主馬ら美作に反感をもつ人々を誘い小栗美作の屋敷を取り囲むといった騒動がおきてしまいます。
美作方(藩士・領民全体の経済政策をする改革派)130人位
大蔵方(武士の既得権益維持派)900名位
光長の後継は自分であると思っていた永見大蔵によって「美作は自分の子である掃部を光長の後継にしようとしている・藩財政再建といいながら私腹を肥やしている・お家のために美作を排除しなければならない」などとして人々を扇動していきました。
そして美作方を「逆意の方」永見大蔵を「お為方」と称し自分たちを正当化したのでした。
こういった偏った情報によりどんどん騒ぎは大きくなっていったのです。
正義感が強い若い武士たちは偏った情報であっても信じてしまうんだね
冷静になって両方から話を聞こうとか思わないのかな~?
藩主である光長は混乱を治めるために美作に隠居を命じ、老中 安藤治左衛門を追放しました。
幕府の大老、酒井忠清に裁定を依頼して穏便に済むはずだったのですが、藩を二分する対立はそう簡単に済むはずもなく、4月中旬に騒動が再び始まりました。
美作や老中が去ったあと、大蔵、主馬の藩政に不安をもつ者もおり、光長や綱国も美作の復職を願っているという噂も立ち始めたため、美作の復権を潰せと永見大蔵が騒ぎ出したのです。
なんでだよ~。
収まっていたのに・・・・・。
1679年 幕府はついに永見大蔵、荻田主馬などに非ありとして裁定を出しました。
永見大蔵、荻田主馬、外山外記、渡辺九十郎など他藩にお預かりとなります。
これにより収まればよかったのですが、「お為方」は激怒して脱藩するものが続出してしまい、問題はさらに大きくなってしまいました。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・。
4代将軍 徳川家綱は家光の長男で11歳で将軍になっています。
酒井忠清が大老になり、老中合議制により家綱将軍の「左様せい」の上意により幕政が行われました。
しかし、生まれつき体が弱く跡継ぎもいないため1680年将軍後継問題が起きてしまいます。
家綱の病状が重くなり、急ぎ次期将軍の人選が始まりました。
こうした中、幕閣の協議では、普通にいけば綱吉なのですが、幼いころから学問好きではありますが、気性が激しい面があったらしく、また、綱吉の母の出自も低かったことから「将軍の器としては不安有り」として、なかなか決まりませんでした。
候補は他にも何名かいたのですが、その中に有栖川宮幸仁親王を擁立する声があり、また、こちらは血筋に関しては申し分のない方でした。
このことはマザコンで有名な綱吉が血へのコンプレックスと気性の激しさとが相まって大老である酒井忠清を疎んだ原因となりました。
また、松平光長の実妹は幸仁親王の祖母にあたり、酒井忠清と光長が親しい間柄であることにも疑念を抱いたのではないかといわれております。
兄の家綱が病弱であったことや、幕政も将軍継承問題についても、老中主導で行われていることに一種の危うさを感じとったのではないでしょうか。
大老 酒井忠清、老中 稲葉正則、大久保忠朝、土井利房、堀田正俊といった幕閣の中で、堀田だけが、綱吉を推していたのです。
そしてこの正俊は危篤の将軍家綱のところに一人で赴き、家綱の遺言めいたものを持ち出したため5代将軍は綱吉となったとされています。
1680年に家綱が亡くなり、綱吉は5代将軍となっています。酒井忠清は大老職を解かれ、新しく堀田正俊が大老となっています。(堀田正俊は、1684年稲葉正休に江戸城内で斬られて亡くなっているのですが、なぜか正休もその場で斬られて亡くなってしまったので、綱吉によるものでは?との噂があります)
松平光長と小栗美作ですが、前将軍時代は大老の酒井忠清が穏便に済ませてくれたのですが、綱吉時代になるとそうはいきませんでした。
「お為方」はこの時を好機とみたのか堀田正俊を通じ再審を願いでたのでした。5代将軍綱吉は高田藩の裁定に不満でしたから、再審の許可を出します。
”お為方”は改易にされる口実をわざわざ与えてしまったんだね
ぜんぜん”お為”じゃない
この時点で再審など名ばかりであることはあきらかです。
酒井忠清は大老を辞する前に、光長の家門の高さを説き高田藩を取り潰すべきではないと何回も諌言していますが綱吉は聞く耳を持たなかったといいます。
兄の家綱政治は幕閣合議制に任せており、最終的に将軍は「左様せい」との決断をくだすというものでしたが、綱吉はそういったことを嫌い自らが判断・決断をして将軍の絶対的な権威を示したかったのだと思われます。
そしてここでみせつけた形となり、判決は当然前回の裁定を覆すものとなります。
1681年 高松宮寧子妃亡くなる
1681年 7月4日 酒井忠清亡くなる(病気とされている)
延宝9年6月21日(1681年8月4日) 高田藩は改易となり、光長は伊予松山藩へ 綱国は備後福山藩に配流となりました。
また、光長と親しかった幕閣や美作の裁定を有利にした役職の人達を罷免、追放にしています。
この他騒動の処理に奔走した越前松平家の一門にも及び、いずれも減封処分となっています。
8月5日 再裁定を行い、小栗美作、子 掃部切腹
永見大蔵、荻田主馬 八丈島へ流刑 他多数処分者あり
小栗美作は藩主の実妹を妻にしているので、子である掃部の祖は家康にたどり着くといったお家柄ですから嫉妬もあったのではないでしょうか。
”お為方”からは傲慢であったと言われていましたが、これだけの功績を17年で残したのですから のんびりとした性格ではなかったのでしょう。
また、藩や領民の生活のために忙しく働いていたので、周囲に愛想を振りまく時間がなかったのかもしれません。
しかも人の印象というものは見る人によって変わるものだと思うのです。
本当に傲慢で嫌な人物であったならば、「ちょんまげ地蔵」になって人々に大切にされなかったと思います。
筆頭家老として激務に追われながら、藩主からも農民からも頼まれると無理難題であっても聞き入れ最善の方法でこなしていく。
そういった人間というのは次から次へと自分で仕事を探して一人であっという間に終わらせてしまうのです。
結果みんなが暇であっても一人忙しく動いているといった人間が出来上がります。
そうして頑張れば頑張るほど周りから浮いてしまい全力で足を引っ張られるといった構図になります。
同じだけの能力を持つ人、理解、協力をしてくれる人間が周りに多くいる場合こういったかわいそうなことにはなりません。
美作が藩主に対して質素倹約を求めたり、周囲に将来的な計画を説明出来て、賛同してくれる人がいたならばこんな終わり方はしなかっただろうと思うと悲しくもあり、不器用な人だったんだね、となぐさめてあげたくもなります。
先ほどちょんまげ地蔵と紹介しましたが、上越市板倉町の宝寿院の境内にあります。(残念ながら写真はありません)これは小栗美作の地蔵ですが、実は後ろにちょんまげがあるそうです。
幕府によって罰せられている人物なのでちょんまげが前からだと見えずに美作だと分からないようになっているそうです。
このように地元の人間に感謝され、大事にされているのをみて、小栗美作もほっとしているのではないでしょうか。
ほっ