家康の娘、督姫は先妻の子を毒で亡き者にしようとした?!

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岡崎城で生まれる 

  

督姫の生母は西郡局(にしごおりのつぼね)で家康の最初の側室であろうといわれている人です。西郡局は、西郡城主(愛知県)鵜殿長忠の娘として生まれています。

   

家康の妻子を駿府城(静岡県)から取り返すために今川方の上郷城を攻め、城主 鵜殿長照の息子2人を生け捕りにして、築山殿、信康、亀姫と人質交換をしました。

その際に西郡城も攻めましたが、城主の鵜殿長忠は娘(西郡局)を人質に差し出し、家康に忠誠を誓いました。  

1565年 西郡局は岡崎城(愛知県岡崎市)で督姫を生みます。

  

家康の娘督姫の系図

    

19歳で北条氏直に嫁ぐ

  

1582年 家康は 武田滅亡後に甲斐国を巡り北条氏直と対立しますが、にらみ合いをしたまま決着がつかなかったため、次女の督姫を氏直に嫁がせることを条件に和睦しました。 

1583年 督姫は19歳で北条氏直に嫁ぎます。氏直は3歳年上の22歳でした。


北条氏政父子に娘(督姫)を返してほしい!! といっていた

1586年 徳川家康は豊臣秀吉の妹である朝日と婚姻し、その後 豊臣秀吉の配下となりました。

    

   

1587年  関東惣無事令が出されます。北条氏政、氏照は秀吉との戦に備え始めます。

  

惣無事令とは

  

  

豊臣秀吉が 大名間の私的な 領土紛争を禁じたもの

    

1588年4月 豊臣秀吉は 後陽成天皇を聚楽第に行幸させました。その際、諸大名から配下となることを誓う誓約書を取りましたが、その中に北条氏政、氏直父子はいませんでした。

この聚楽第行幸の翌月に氏政、氏直父子に秀吉の使者が上洛を促しましたが、それでも北条氏は動きませんでした。  

この時の秀吉の書状の内容は、「天皇に対して挨拶もないなど非礼な態度である 速やかに上洛せよ」といったものだったらしいです。

   

アダム
アダム

けっこう怒ってる感じ?

  

こばん店長
こばん店長

言葉の裏に「何で上洛しないの?攻めちゃうよ?」といってるよね

    

1588年5月21日 秀吉から上洛させよ、という意向を受けて家康は北条氏政父子に起請文を出しています。  

今月中に(まずは氏政の兄弟 氏規が)上洛してほしいということ、もし納得できないというなら、督姫(家康の娘)を返してほしいといった内容でした。

家康にしてもこれ以上は待てない、上洛しないのなら北条と断交するといった意味のものだったのです。


嫁ぎ先が滅亡してしまう

   

10月23日 突如 真田方の名胡桃城を奪ってしまうという事件が起きてしまいました。

沼田城の猪俣邦憲が独断で攻めたということになっていますが、北条氏政の命令だったのではないか?といわれています。

この城の周囲には 真田氏の墓所があるので、真田領と秀吉の策定で決定されていました。

そこを攻めたということは、秀吉に敵対するという意思を示したことになります。関東惣無事令の違反となり北条討伐の口実となってしまいました。

1590年 北条討伐 北条氏は滅亡。  

督姫の夫である北条氏直は助命され、高野山に追放となりましたが、1591年に亡くなってしまいます(病気)。督姫は27歳で未亡人となります。

  


池田輝政に再嫁した

  

1594年 督姫は30歳で 池田輝政に嫁ぎます。輝政には先妻がいて長男である利隆もいましたが、その先妻の糸とは離縁して独身でした。  

1600年の関ケ原の戦いのあと、池田輝政は播磨52万石を与えられ、初代姫路城主となり、西国将軍と呼ばれます。督姫は播磨御前と敬われました。

 

先妻の子を毒饅頭で毒で亡き者にしようとした?!

  

家康の娘督姫の詳細系図

督姫の生んだ子は 祖父の家康から可愛がられ、5歳だった忠継に28万石が与えられるなどして厚遇されました。 

夫婦仲は非常に良かったと伝わり、督姫も平穏な生活を送っていたのですが、1613年 池田輝政は50歳で亡くなってしまいました。 

池田輝政の後妻となり、5男2女を生んでいますが、先に述べたように先妻の子である利隆がいました。

輝政の遺領は、長男である利隆が42万石、督姫の子である忠継が38万石でした。長男である利隆が姫路藩を相続しました。 

1615年 督姫が51歳で急に亡くなってしまいます。そのたった19日後に忠継も亡くなってしまいます。

このことが、人々の噂になり、こう囁かれました。  

督姫が忠継に姫路城主を継がせるために、異腹の利隆に毒饅頭を食べさせようと企んだところ、その企みに気付いた忠継が母を諫めるためその饅頭を食べ、そしてそれを見た督姫もその毒の饅頭を食べて亡くなったという話です。

実際は親子で疱瘡にかかり亡くなったそうなのですが、輝政の後継者問題でもめたこともその噂の一因となっています。

それというのも、輝政の遺領で長男の利隆は10万石を減らされ42万石となり、一方の忠継は督姫の化粧料10万石が加えられ、38万石となったため、家康の娘という権力を使った督姫の傲慢なやり方に対しての反感があったといいます。 

また、輝政による増税策により領民の恨みを買ってしまったことも噂話を広めた一因となっているようです。

お家騒動伝説なのか、もしかしたら本当にあった怖い話なのかは分かりません。  

ちなみに鶴姫の父である榊原康政と督姫の母である西郡局の亡くなった日が同日だったことなど不思議な話が多い家ではあります。