こばん店長ブログhttps://koban-tenchoblog.com歴史(高田藩 榊原家中心)をゆる~く紹介Mon, 29 Sep 2025 14:29:54 +0000jahourly1https://koban-tenchoblog.com/wp-content/uploads/2022/10/cropped-ファビコン2-32x32.jpgこばん店長ブログhttps://koban-tenchoblog.com3232 徳川和子は浅井三姉妹お江の娘ではなかった?!https://koban-tenchoblog.com/masako-tokugawa/Sun, 28 Sep 2025 21:33:38 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8650

徳川和子(とくがわまさこ)は江戸幕府二代将軍 徳川秀忠とその正室 浅井三姉妹のお江(茶々・初・江の三姉妹の末子)との間に生まれたとされています。       彼女は後水尾天皇に入内し、中宮となった人物で、日本史の教科書に ... ]]>

徳川和子とは?!

徳川和子(とくがわまさこ)は江戸幕府二代将軍 徳川秀忠とその正室 浅井三姉妹のお江(茶々・初・江の三姉妹の末子)との間に生まれたとされています。

  

  

彼女は後水尾天皇に入内し、中宮となった人物で、日本史の教科書にも登場する有名な女性です。

  

  

徳川和子は、1607年に江戸城大奥でお江の子として誕生します。

  

  

和子の祖父である家康は早くから朝廷との関係を強化するために孫娘の入内を考えていたようで、1611年に後水尾天皇が即位すると和子の入内の申し入れをして、2年後に入内の宣旨がくだります。

  

  

この入内するまでの道のりも、その後の人生も大変気苦労の絶えないものになる徳川和子こと東福門院和子の記事をこちらで紹介しています。

  

    

  

その後13歳で後水尾天皇に入内します。

  

  

一般的に徳川和子の母であるといわれているのは、浅井長政の三女のお江です。

  

  

お江は12歳のときに豊臣秀吉の命で初めは佐治一成に嫁ぎますが、一成と秀吉の間がうまくいかなくなると数カ月で離縁させられてしまい、その後秀吉の甥である秀勝と再婚しますがすぐに病死してしまいます。

  

  

その秀勝との間にうまれた完子は五摂家の九条家に嫁いでいます。

  

  

そしてお江が23歳のとき6歳年下で17歳の徳川秀忠の正室となりました。

  

  

このお江の生涯についての記事はこちらでまとめて紹介しています。

  

  

    

秀忠との間に産んだ子は、長女・千姫(豊臣秀頼正室 のち本多忠刻正室)、次女・珠姫(前田利常正室)、三女・勝姫(松平忠直正室)、四女・初姫(京極忠高正室)、長男の竹千代(家光)、次男の国松(忠長)、五女の和子(後水尾天皇の中宮)がいるとされています。

  

  

そしてその五女の和子についてですが、彼女の生母が実はお江ではないとの説があります。

  

  


和子は本当にお江の娘だったのか?将軍秀忠の隠れた側室たち

新潟県長岡市にある蔵王堂には和子の生母と伝えられる女性の碑があります。

  

   

生母の名はお広(こう)であるといわれており、栖吉城主・本庄清七郎の娘となっています。

  

  

この説は和子の母がお江であるとする定説とは違うものですが、今回は伝承から徳川和子の母に迫ってみます。

  

  

  

  

まず、伝承によると、お広(妙徳院)の父が亡くなり、寺に身を寄せて過ごしていたところ、堀直竒(ほり なおより)と出会います。

  

  

その堀直竒の推挙で徳川秀忠の側室となったとありますが、秀忠には表向きは側室がいなかったということになっているので、正式なものではなかったのではないでしょうか。

  

  

他にも秀忠には隠れた側室がいて、けっこう有名な会津松平家の祖となる保科正之(ほしな まさゆき)を産んだ「お静」がいます。

    

  

秀忠の隠れた側室「お静」とは?

保科正之を産んだお静は正室であるお江の嫉妬を恐れて江戸城から出て1611年に子を産んでいます。

  

  

後北条氏の元家臣の娘とも大工の娘ともいわれていますが、秀忠の乳母に仕えていたところを秀忠に見初められたといわれています。

  

  

正之は秀忠からは実子として認知されず、信濃高遠城主 保科正光の養子となり、お静もそれに伴い高遠城で暮らしています。

  

  

恐妻であったといわれているお江に頭が上がらなかった秀忠が母子の存在を隠したといわれていますが、不思議なのはなぜ「お静」は存在を隠され、「お広」が産んだとされる和子はお江の娘として育てられたのかが不明です。

  

  

アダム
アダム

確かに

  


秀忠はお江に頭が上がらなかった?

秀忠より6歳年上で、なおかつ再再婚で恐妻といわれたお江に頭が上がらなかったといわれていますが、実をいうとお江の人柄についての史料は少なく、どんな人物だったのかは不明とされています。

  

  

徳川和子は1607年に誕生しており、家康は先に述べた通り孫娘を「政略結婚」に使おうとしていました。

  

  

家康は孫娘を天皇に入内させ皇子を産むことで徳川が外戚となり朝廷をも統制しようとしたと考えられています。

  

  

関ケ原の戦いにおいて家康は実質的な支配者となっており、後陽成天皇の次に即位することになる後水尾天皇を強烈に後押しするなど皇位継承についてまで口を出していました。

  

  

このことで、後陽成天皇と後水尾天皇の親子間に亀裂が生じて生涯不仲であったといわれています。

   

   

こばん店長
こばん店長

家族の仲があまりよろしくなくて、幕府ともゴタゴタしているところにお江さんが自分の娘さんを嫁がせるのは反対しそうだよね~・・・

     

  


堀直竒とは?妙徳院に関わる人物

    

伝承では、和子の実母は「妙徳院」という女性であり、その背後には堀直竒が深く関わっているようです。

  

  

この堀直竒とはどんな人物かというと、1577年堀直政の子として美濃に生まれます。

  

  

その後秀吉の小姓となり、1598年には、主君の堀秀治が越後春日山城に入ると、直竒は父と共に坂戸城(新潟県南魚沼市)二万石の所領を与えられます。

  

  

主君 秀治の弟である親良は蔵王堂城に入りました。

  

  

関ケ原の戦いにおいては徳川方について上杉景勝により扇動された越後一揆の討伐で戦功をあげ賞されています。

  

  

1602年 蔵王堂城主 堀親良は直政と対立して秀治の次男の鶴千代を養子にすると自身は引退してしまいます。

  

  

しかし、鶴千代が幼かったため直竒は後見となります。鶴千代が早世した後も蔵王堂城に在城していました。

  

  

蔵王堂城は信濃川の水流によって土地の浸食があり、年々城地に迫るなどの欠点があったため、神田から南に続く長い丘(長岡)に築城することにしたのですが、兄直清(三条城主 異母兄)と対立し追放されてしまいます。

  

  

しかし直竒は家康に直訴したことにより、直清は所領没収、主君は改易となります。

  

  

堀直竒は家康の直臣として信州飯山に所領を与えられますが、長岡城築城の工事は中断となってしまいます。

  

  

その後 大阪冬の陣・夏の陣で活躍し、1616年 家康の病状悪化の折に枕頭に召され徳川のこれからのこと託されるなど、堀直竒と家康の間が近しいことが分かります。

  

  

同年7月 高田藩初代藩主であり家康の六男の松平忠輝が改易となると、堀直竒が蔵王堂城主になります。再び長岡城築城の工事を始めるのですが、完成間際で越後村上十万石へと転封となっています。

  

  

1636年 家督を嫡子に譲り隠居し、1639年に63歳で生涯を終えました。蔵王堂城址には堀直竒の銅像が立っています。

  


蔵王堂に残る東福門院の母の伝承とは?!

  

長岡蔵王堂の伝承では、秀忠と妙徳院の間に色白で愛らしい姫が誕生し、和子と名付けられました。

  

和子は秀忠の正室・お江の娘として育てられ、幕府と朝廷の橋渡しとして後水尾天皇の后となりました(和子の娘はのちに明正天皇になります)。

  

秀忠が亡くなると、天海僧正の手で髪を下ろし尼になり、越後長岡に戻り蔵王の地に院を建てて住んだそうです。

  

そのとき、幕府から化粧代として三百石、数珠、白銀の鏡、家康公常用の天目茶碗を賜りました。

  

このことから、妙徳院が普通の尼僧と違い、特別な配慮を受けていたことがわかります。

  

さらに蔵王堂城址の土塁には、妙徳院が授かった「正善霊神」の神名が彫られた碑が建てられ、祀られています。

  

また、長岡市四郎丸にある昌福寺には、妙徳院のお墓が建てられており、妙徳院と堀直竒などの位牌が、いまも並んで安置されているそうです。

  

  

蔵王堂城史跡をまもる会のしおりより

    

  

  

  

  

このように、妙徳院が和子の母であるとする伝承があります。

  

  

和子はお江の娘というのは幕府の表向きのものであり、実際には妙徳院から生まれていた可能性があります。  

  

  

こういった歴史の裏に隠された伝承は表に出てきていないだけで、もっと多くあると思います。

  

  

残された伝承から「人知れぬ真実」に出会うことができるのも歴史の醍醐味ではないでしょうか。

  

  

こばん店長
こばん店長

以上、東福門院さんのお母さんはどちら様?でした

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「更級日記」の作者”菅原孝標女”ってどんな人?ゆる~く紹介https://koban-tenchoblog.com/sarashina-diary/Tue, 02 Sep 2025 08:08:02 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8605

   「更級日記(さらしなにっき)」を書いたのは、菅原孝標女という女性です。    実をいうと、彼女が書いた直筆のものは行方不明となっていましたが、小倉百人一首の選者である藤原定家(ふじわら の ていか)が「更級日記」を ... ]]>

更級日記の作者のプロフィール

菅原孝標女(すがわら の たかすえ のむすめ)

  

本名 不明

  

生没年 1008年生まれ~不祥

  

父 菅原孝標 母 藤原倫寧女(ふじわら の ともやす のむすめ)

  

夫 橘俊通

  

子 橘仲俊 娘

  

父 孝標が上総国(千葉県)に赴任したため10歳から13歳までその地で過ごす

  

晩年は、夫の橘俊通が亡くなり50歳を過ぎて「更級日記」を書き始めたといわれている

  

「更級日記(さらしなにっき)」を書いたのは、菅原孝標女という女性です。

  

実をいうと、彼女が書いた直筆のものは行方不明となっていましたが、小倉百人一首の選者である藤原定家(ふじわら の ていか)が「更級日記」を発見して、それを書き写したことによって現在に伝わる日記となりました。

  

アダム
アダム

定家さんありがと~う

  

菅原孝標女の父は学問の神様といわれている菅原道真の五代目の嫡流です。

  

孝標女の母の姉は・・・なんだかよく分からなくなってきましたね。

  

アダム
アダム

通称 ”たかちゃん” にしよう!

  

  

こばん店長
こばん店長

たかちゃん・・・いいかも・・

 

”たかちゃん” の母は「蜻蛉日記」を書いた”藤原道綱母”の異母妹です。

  

父の孝標さんが上総の国に赴任する際はこの ”たかちゃん” のお母さんは京都から外に出るのが嫌な人だったらしく同行しませんでした。

  

菅原孝標女の人生を左右させた人物?!継母上総大輔とは?

孝標と上総国に同行した女性が ”たかちゃん” の人生を左右することになる継母、上総大輔(かずさ の たいふ / のちに孝標と別れて別の人と結婚)です。

  

なぜ、上総大輔が ”たかちゃん” の人生を左右することになったのかというと ”たかちゃん” が紫式部が書いた「源氏物語」の存在を知るきっかけをつくった女性だったからです。

  

上総大輔の父が高階成行で、その成行の弟が源氏物語を書いた紫式部の娘(賢子)と結婚していることから、「源氏物語」に縁があったのではないかといわれています。

  

”たかちゃん” はのちに自分の人生を振り返る日記文学「更級日記」を残すことになりますが、この日記は、自分の事を赤裸々に書いた作品だといわれていてそれに「源氏物語」が深く関わることになるのです。

  


源氏物語が読みたくて読みたくて・・・

平安時代に紫式部が書いた世界最古の恋愛長編小説「源氏物語」をご存じでしょうか。

  

全54帖にわたり、主人公の光源氏の誕生から恋愛・栄華・老い、そして子や孫の世代までを書いた壮大な物語です。

  

「源氏物語」の主人公、光源氏が愛した女性たちが覚えるのが大変なほど出てきます。

  

源氏物語の想像図

  

光源氏の父(桐壺帝)の后の藤壺、プライドが高く不器用な最初の正妻の葵の上、光源氏の最愛の女性である紫の上、光源氏を愛しすぎて生霊になってしまった六条御息所、明石の君、末摘花、穏やかな花散里、正妻の女三宮、空蝉、朧月夜、夕顔とか・・・・・。

    

”たかちゃん” がとっても夢中になったのがこの「源氏物語」です。今でいうと、漫画やアニメにハマるように ”たかちゃん” は源氏物語の世界観にどっぷりハマってしまった源氏物語オタクでした。

  

源氏物語が読みたくて等身大の ”薬師仏” を造り祈った

継母こと上総大輔と実姉が話している「源氏物語」の話を聞いて深い興味を持ちますが、二人は物語をうろ覚えで話しているので物語の詳細が分からず「いつか源氏物語を全巻読みたい」と強く強く念じるようになります。

  

まだ一度も読んだことがないのに、頭の中では源氏の世界が広がっていきました、平安時代の「推し」といえるかもしれません。

  

そしてその「推し」のために仏像をつくり日々「源氏物語を全巻読めますように!」と念じ、その願いが叶い父(孝標)は都に帰ることになります。

  

アダム
アダム

仏像を造ってまで祈る熱量がすごい

  


孝標女、平安時代の東海道の旅(千葉から京都)

”たかちゃん” が13歳のころ、父の任期が終わり、一家は上総国から都(京都)へ戻ることになりました。当時、地方から都へ帰るのはとても長い旅で、歩いたり、馬や舟などを使い何カ月もかかって旅をしていました(孝標女の旅は3カ月ほど)。

  

菅原孝標女の旅装束

その旅の様子が「更級日記」に詳しく書かれています。山や川の景色に感動したり、美しい夜の月をみて感動したり、乳母と別れて悲しんだり ”たかちゃん” の感性があふれているもので、読んでいる側も感情移入して更級日記の世界にどっぷりハマってしまいます。

  


京に戻ってから継母との別れ

”たかちゃん”と一緒に上総国に行っていた継母が父の孝標と別れ家を出ていくことになります。

  

”たかちゃん”に源氏物語を語ってくれた女性で継母と別れるのが辛くて寂しいといっています。

  

乳母との別れ

また、旅の途中で別れた ”たかちゃん” の大好きな乳母が亡くなったり、同じころに大納言 藤原行成(ふじわら の ゆきなり)の娘が亡くなったりして深い悲しみに暮れていました。

  

そんな ”たかちゃん” を心配した母が本を読むように勧めますが、読む元気もありませんでした。

  

・・が、読み進めていくうちにだんだんと物語の面白さにハマっていき再び元気を取り戻すのでした。

  


昼も夜も叔母からもらった「源氏物語」を読みふけった

ようやく京に戻った ”たかちゃん” ですが、なかなか「源氏物語」の全巻を読むことができずにいました。

  

”たかちゃん” は「源氏物語 若紫」の巻を見てなおさら全巻を読みたくなりますが、平安時代は現代のように印刷ではなく手書きで、また、紙も非常に貴重なものだったので、すぐに手に入るようなものではなかったのです。

  

なので ”たかちゃん” は、京に戻ってもお寺で「源氏物語を全巻読めますように!」と強くお祈りをしていたのでした。

  

そしてついにその日が訪れます。

   

親にいわれ叔母を訪ねた日のこと、帰るときになって蓋つきの箱を渡されます。

  

開けてみるとなんと「源氏物語 全巻」が入っていました。そのほかにも伊勢物語や他の物語も入っていたので ”たかちゃん” は涙が出るほど喜びました。

  

こばん店長
こばん店長

やったね~ たかちゃん

      

  

アダム
アダム

こっちまで嬉しいよ

    

そして ”たかちゃん” は部屋に籠って昼も夜も読みふけりました。そのときの気持ちは「皇后の位だって何だっていうの」と思うくらい源氏物語を読む方が幸せだと思っていたようです。

  

現代でいうなら、徹夜で漫画を一気読みしたり、推しの動画をエンドレスで見たりする感覚だと思います。しかし ”たかちゃん” の すごいところは暗記するほど物語を読みふけったというところでしょうか。

  

こばん店長
こばん店長

源氏物語を書いた紫式部さんについてはこちらから

  

  


源氏物語の世界観にどハマリ「浮舟」「夕顔」に憧れる

”たかちゃん” が一番憧れたのは、源氏物語に出てくる薄幸の女性「浮舟」でした。

  

このころの ”たかちゃん” は、今はあまり器量はよくないけれど、将来は自分も髪が長く美しい女性になって源氏物語に登場する光源氏や匂宮や薫に出会って愛されるの~(浮舟みたいな)!・・と夢見る乙女でした。

のちに、あの頃の私ったらこ~んなこと言っていたのよね、と自分で自分に呆れたりしています。

  

更級日記の作者の憧れた「浮舟」と「夕顔」とは?

浮舟 源氏物語に登場する悲劇のヒロイン 

実父の八の宮に認知されず疎まれ、養父の常陸守にも実子ではないことから疎まれ、左近少将との結婚は破談になった上、常陸守の実子で裕福な妹に乗り換えられる 

  

その後 薫と異母姉の夫である匂宮の二人に言い寄られ、それに苦しみ入水するが、僧に助けられ出家 のちに薫に探し出されるものの最期まで会うことを拒絶する

  

夕顔 源氏物語に登場する女性 父が早くに亡くなり、生活は困窮 

その後 頭中将の愛人となり娘(玉鬘)を産むが、正妻に脅され身を隠した 光源氏に出会い愛されるが、物の怪によって突然亡くなってしまう 

  

こばん店長
こばん店長

そんな悲劇のヒロインたちに憧れている ”たかちゃん” でした

    

  

アダム
アダム

ほ~

  


大納言の姫君の生まれ変わりの猫?!

「更級日記」には、ある日 ”たかちゃん” の姉が病気になって眠っていたところ、面白い猫の夢を見たといいます。

  

その猫は姉妹でこっそりと飼っていた猫でしたが、姉が病気なので北側にある使用人の部屋においておいたところ・・・

  

猫が「わたしは大納言 藤原行成の娘の生まれ変わりなのだけど、最近使用人の部屋におかれて寂しい」という夢だったそうで、それを聞いて鳴いている猫がたいそう上品に見えて姫君なのだと納得してしまったという不思議な話が書いてあります。

  

アダム
アダム

生まれ変わるサイクルが早かったのね

  


孝標女、祐子(ゆうし)内親王に仕えることになる

”たかちゃん” の父 菅原孝標は60歳のときに常陸の国(現 茨城県)に赴任することになりますが、4年後に京に戻り引退、母も出家することになりました。

  

両親の老いを感じるようになって、 ”たかちゃん” は一家を支える立場に変わっていきます。そして周囲の勧めにより、御朱雀天皇の第三皇女 祐子内親王に仕えることになりますが、最初の頃は慣れるまで大変だったようです。

  

そのうち、宮仕えにも慣れてきたころに結婚することになりました。

  


孝標女、「物語」のようにはならなかった?!平凡な結婚

30歳を過ぎたころに、橘俊通(たちばな としみち)と結婚しますが、夫は源氏物語に出てくるような公達ではなく、とっても普通の人で “たかちゃん” が少女のころに思っていた「華やかな恋」とは程遠いものだといっています。

  

やさぐれた菅原孝標女

  

“たかちゃん” は「理想と現実の違い」を感じ始めます。

  

「いつか源氏物語のヒロインのようになれる」と信じていた少女時代の夢は実現しなかったようで、彼女は現実的になっていくのでした。

  


「更級日記」の作者の晩年

実をいうとこの日記は、50歳を過ぎたころに自分の人生を振り返り書かれたといわれています。

  

  

上総国から京まで旅をしたこと、源氏物語に恋焦がれたことや、親しい人たちの別れなどさまざまなことがつづられ、その中で人生の後悔も書かれています。

  

夫が亡くなり、子どもも独立し孤独を感じるようになり現在の自分の境遇を嘆きながら、こんな思いをするのは、若いときに物語の世界に憧れ過ぎて物語を読みふけってしまったせいだと悔んだのです。

  

上総国から京に旅に出るところから、夫の俊通が亡くなるまでの日記となっていますが、最後は、この先どう過ごしていくのだろう、というところで終わっています。

  

その正直過ぎる気持ちこそが「更級日記」が多くの人の心に響く文学作品になったといわれています。

  

夢見がちな少女から、現実に気付いた大人になるまでの心の変化などは、時代を超えて今を生きる私たちにも重なると思います。

  


菅原孝標女まとめ

菅原孝標女は、平安時代に生きた「源氏物語オタク」でした。

  

少女のころから源氏物語に憧れて

  

千葉から京都への旅を経て

  

京で「源氏物語」全巻読破して

  

宮仕えや結婚生活を体験して

  

平凡な結婚をして現実を思い知り

  

「光源氏はいない」と気付いた

  

「物語と現実の違い」を知って、物語ばかりを読んだことを後悔している ”たかちゃん”

  

そしてそれを正直に書いてしまう愛すべきキャラ “たかちゃん”

  

平安時代に生きた “たかちゃん” と共感ポイントがたくさんあって、1000年も前の人とは思えないほど魅力的な女性です。

  

ブログ主もそんな菅原孝標女のファンの一人だったりします。

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幕末日記\二条城で将軍を出迎える/シリーズその7https://koban-tenchoblog.com/nijo-castle/Sun, 15 Jun 2025 18:23:42 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8247

「徳川家茂2度目の上洛、大坂城を出発し伏見奉行屋敷へ その6」の続きです。       将軍家茂が二度目の上洛のため、12月27日に江戸を出発して、1月8日に大坂に到着しました。そして14日 大阪城を出発し、15日に二条 ... ]]>

「徳川家茂2度目の上洛、大坂城を出発し伏見奉行屋敷へ その6」の続きです。

  

こばん店長
こばん店長

古文書初心者が読んでいるので、読み間違いがあるかもしれません。お許しください。

  

将軍家茂が二度目の上洛のため、12月27日に江戸を出発して、1月8日に大坂に到着しました。そして14日 大阪城を出発し、15日に二条城に入った日の(越後高田藩士の書いた日記です。

  

上様は、昼九ツ時(11時50分くらい)に二条城に御入城された

  

  

殿様(榊原政敬)は、大手口へお出迎えになり、すぐに登城してご機嫌伺いに参られた

  

この”殿様”というのは、越後高田藩主 榊原政敬のことで徳川四天王である榊原康政から数えて14代目の殿様になります。

  

  


高田藩、二条城の大手口で将軍家茂を出迎えた

  

家茂は1月15日 朝7時頃 伏見を出発し、昼の12時くらいに二条城に入りました

  

  

榊原政敬は将軍を二条城まで御先登して大手口で出迎えたあとに登城しました。

  

総人数はお城の両横固め(警備) だった

  

  

(家茂の)御入城が済んだので御供廻りも入っていった

  

高田藩は二条城の両横通りを警備しました。

  

家茂の御供の人達も入城が済んだので入っていったようです。

  


高田藩の御本陣は平等寺(因幡堂)

九ツ半(13時くらい)に松原通り因幡薬師御本陣へ着いた

  

アダム
アダム

高田藩の本陣は因幡薬師さんだったのね~

  

   

一、松原通り俊成町 御本陣 前 島屋太次郎方へ下宿を仰せつけられた

    

   

その割り当ては、 

  

神岡市右衛門、今井桂次郎、杉谷佐市、井上源次、萩野休左衛門、太田次郎兵衛、秋山文治、米村武平治、八田又右衛門、八田啓蔵、光野八十吉、赤井貞八郎、外2、3人 の15人で、御物頭隊に鉄砲15挺づつ

  


清水寺へ参詣、音羽の滝があった

同(1月)16日 雨 暁六ツ半時(7時10分頃)殿様、御供揃のため御登城された

  

  

九ツ時(11時50分頃)に御帰館された 

  

  

一、朝五ツ時(8時頃)清水観音堂へ参詣 音羽の瀧があった

  

  

朝の8時ころに清水寺へ参詣にいったようです。音羽の滝があったと書いてありますが、特に感想はありません。

  

この音羽の滝は三本あって、御利益がそれぞれ違うらしく、正面からみて左は「学業成就」、真ん中が「恋愛成就」、右側が「延命長寿」といわれ、この中から一つを選び、一口だけ飲みます。三つ選んですべて飲んでしまうと、全部の願いが叶わなくなるといわれています。

  

アダム
アダム

お水飲んだのかな・・・

  


本圀寺に参詣し、加藤清正の廟所を拝礼

同(1月)17日 八ツ時分(夜中2時頃) 雪が少々降った

  

  

朝四ツ時(10時くらい)から本圀寺へ参詣しに行った

  

  

清正公の御廟所を拝礼した

  

  

両本願寺に参詣した 

  

本圀寺は京都市山科区にある日蓮宗の大本山の寺を参詣し、清正の廟所を拝礼したようです。

  

戦国武将の加藤清正といえば、熱心な日蓮宗の外護者として知られ、本圀寺は清正の縁の寺として知られています。

  

ちなみに、榊原家2代藩主 康勝の正室「古屋姫」は加藤清正の娘で、非常に夫婦仲が良かったといわれています。

  

  

本圀寺を参詣し、そのあと両本願寺を参詣したようです。

   


榊原政敬、水野和泉守のところへおでかけ

同18日 天気 朝五ツ(8時ころ)御供揃をして その後殿様は水野和泉守様のところにおいでになり、四ツ時(10時ころ)御帰還された

  

殿様(榊原政敬)が、水野和泉守のところに行ったとありますが、老中 水野忠精のことで、榊原政敬(高田藩14代藩主)の叔父の政愛(13代藩主)の正室が水野忠精の妹(もしくは姉)という関係性がありました。

         


高田藩士にお触れ書き「京では気を緩めないように」

  

同日 お触れの写し

   

 

このたびの上洛・先登について皆に申し付けておく

  

  

條目の儀(箇条書きになっている法律)と条々(一つ一つの規則)を読んで厳守すること

  

  

しかし、長い道のりの旅で、なおかつ長期間京にいると、心の緩みが生じ

  

  

これを取り締まらずにいると、とくに、諸藩が入り交じっている京都においては、大切な勤め先(将軍がいて、天皇がいる大切な場所)で、振る舞いなど評判に関わる

  

  

このことをそれぞれ十分に理解して心に留めておくこと

  

  

再度不注意なことがあれば、とりわけ気を配るように

    

  

万一、不審なことがあった場合には、すぐに申し出ること

    

  

大老 中老より かねがね申聞かされた

  

正月

  

この仰せ(命令)は、心得違いをしている者がいてはならないので、

  

  

物主供が、全員承知するように、心得違いのないようによく申聞かせるように 以上

  

  

正月17日  両物頭

  

      

アダム
アダム

幕末の藩士ってこんなお触れ書きが出ていたんだね~

    

  

こばん店長
こばん店長

幕末の京都って全国からいろんな藩士たちが来ていたから”しっかりしてね”ってことでいいのかな?

    

  

アダム
アダム

誰に聞いているのさ

    

次は1月19日の日記から始まります。どんどん京都観光の様子が増えてくる日記になっていきます。

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春日局とは何をした人?徳川家光を支えた大奥最強の乳母https://koban-tenchoblog.com/kasuga/Tue, 10 Jun 2025 19:37:07 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8559

1604年 江戸城西の丸で後の徳川幕府三代将軍となる竹千代(家光)が誕生します。この竹千代の乳母こそ大奥で老中をも超える絶大な権力を誇った春日局です。 春日局(かすがのつぼね)は、二代将軍 徳川秀忠の正室お江が生んだ竹千 ... ]]>

1604年 江戸城西の丸で後の徳川幕府三代将軍となる竹千代(家光)が誕生します。この竹千代の乳母こそ大奥で老中をも超える絶大な権力を誇った春日局です。

春日局とは何をした人?

春日局(かすがのつぼね)は、二代将軍 徳川秀忠の正室お江が生んだ竹千代の乳母として知られる女性です。春日局は歴史上で名前を残すほどの女性なので、ただの乳母ではなかったのです。

  

徳川家の政治に大きく関わり、将軍継承問題においても家光を将軍にするべく大御所の家康に直訴するために駿府まで会いに行くなど大胆な行動をする女性でした。

  

家光は春日局という乳母によって将軍になれたといっても過言ではなく、家光が将軍になると信頼も厚い彼女は発言力を増し、将軍の威光を背景に絶大な権力を握る人物となります。今回はそんな春日局の生涯をゆるっと紹介していきます。

  


徳川家光の乳母の意外な出自とは?!

1579年 春日局は丹波国 黒井城の下館(兵庫県)で生まれます。

  

春日局の本名は斎藤福といい、父は斎藤利三(としみつ)で、明智光秀の重臣だった人物です。

  

利三は、明智光秀に従って本能寺で織田信長を討ちますが、本能寺の変の後「山崎の合戦」で羽柴秀吉に敗れ処刑されてしまいます。

  

福(春日局)は幼くして父を失い逆臣の娘として厳しい環境で育ちます。

    

父は明智光秀の重臣、斎藤利三

福の父は斎藤利三、母は稲葉一鉄の娘 稲葉あん といわれ、父 利三が亡くなったあとは母方の親戚の三条西 公条(さんじょうにし きんえだ)に養育され、書道・歌道・香道などの教養を身につけます。

  


福(春日局)、竹千代(家光)の乳母になる

そのあと伯父の稲葉重通(しげみち)の養女となり、重通の養子で小早川秀秋の家臣 稲葉正成(まさなり)の後妻となり、正勝、正定、正利を生んで普通に暮らしていたようですが、1604年に二代将軍徳川秀忠の嫡男、竹千代の乳母に採用されると江戸城に入ることになります。

  

  

徳川将軍家の嫡男の乳母がなぜ福でなければならなかったのか?!

これについては、いろいろな説がありますが、①一般的には夫の稲葉正成が関ケ原の戦いにおいて小早川秀秋を説得して徳川方に寝返らせたといったものです。

  

このことで、関ケ原の戦いで東軍有利となり徳川勝利に貢献したための功績として乳母に採用した説があり、これは不思議ではないように思えます。

  

しかし一方では、②福の父である斎藤利三の主君、明智光秀と徳川家康は本能寺の変が起きる前から何らかの密約があって深く繋がっていたのでは?という説もあります。

  

明智光秀の重臣であった利三も、家康の主君でもあった信長を本能寺の変で討っていることから、福はいわゆる逆賊の娘のはずです。

  

その人物がなぜわざわざ将軍の嫡男の乳母に選ばれたのかについては、明智光秀と家康が本能寺の変の前から深く繋がっていたのであればおかしくはない説になります。

  

③春日局の顔には天然痘のあとが残っていたといわれ、免疫があったので採用されたとする説もあります。

  

アダム
アダム

ほ~

  

徳川将軍家の嫡男の乳母がなぜ福でなければならなかったのか?!についてはっきりとした答えはありません。

  

アダム
アダム

ないんかーい

  


母のお江から疎まれた家光は自害を図った?!

竹千代が生まれた2年後に弟である国松が誕生すると、父の秀忠と母のお江は国松を溺愛するようになります。

  

竹千代は徳川の後継者として乳母の元で育てられていたため、お江に懐いていなかったということと、内向的な性格、病弱であったこともあり、次期将軍は竹千代ではなく、弟の国松にとする雰囲気になっていました。

  

両親からも疎まれ、家臣・諸大名からも弟の国松と比べられ劣等感を抱いた竹千代は12歳のころに自害を図ろうとしたという話がありますが、それを止めたのが春日局で、竹千代に実母のように優しく寄り添っていたといいます。

     


春日局、駿府の大御所 家康に会いに行く!

このままだと竹千代が廃嫡されてしまうと感じた福は伊勢参りに行くという口実をつくり、駿府にいた大御所 家康に直訴に行きます。

  

この話を聞いた家康は自ら江戸城に出向き、竹千代のみを上段に座らせたことで、周囲に次期将軍は竹千代であると知らしめました。

  

このときから、徳川家は長子相続が代々続いていくことになります。

  


1623年 家光が三代将軍に

家光が三代将軍に就任したのは、1615年に福が駿府にいる家康に直訴に行ったからこそです。

  

その後お江が亡くなると、福の発言力はますます大きくなり、奥向きを取り仕切る大奥総取締として権力を握ります。

  

そして大奥の組織・諸制度をつくっていき、江戸城大奥の礎を築いていくことになります。

  


後水尾天皇から「春日局」の称号を得た

家光の名代として後水尾天皇と和子(家光の妹)に拝謁した際に従三位と春日局の称号を得ています。

   

こばん店長
こばん店長

家光さんの妹の和子さんについてはこちらからどうぞ~

  

家光は女性に興味がなかった?!

家光には正室の鷹司孝子がいましたが、家光が遠ざけて別居していたといわれています。というのも家光は女性にあまり関心がなかったといわれています。

  

しかしこれは大問題で、徳川家を継承させていくためには世継ぎがいなければなりません。春日局はこの問題に相当頭を悩ませ家光に多くの側室を送り込んだといわれています。

  

彼女の苦労のかいがあって四代将軍となる家綱が誕生しました。

  


春日局の最期とは??

あるとき家光が天然痘になった際に、春日局は家光を守るために薬断ちを決意して祈り続けたといわれており、そのおかげなのか家光の病は治ります。

  

しかし、その後春日局は病に倒れ、家光が薬を飲むように何度もすすめますが、一切飲まなかったといわれています。

  

1543年 65歳で没すると麟祥院に葬られました。

  

春日局は、逆賊の娘から将軍の乳母、そして老中をも超える権力を得た女性でした。斎藤利三の娘として波乱の人生を送りながらも、パワフル過ぎる行動力で家光を支えたことでも知られています。

  

彼女の生涯からは、「逆境をも味方にする」という強い信念が伝わってきます。  

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大奥で徳川家茂の正室和宮と天璋院篤姫とのバトルがあった?!https://koban-tenchoblog.com/kazunomiya/Sat, 31 May 2025 18:19:37 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8481

皇女和宮(かずのみや)は、1846年仁孝天皇(にんこう)の第八皇女として生まれました。母は権大納言の娘 橋本経子(観行院)です。    しかし、皇女が幕末という激動の時代に徳川家茂に降嫁することになり、その後新政府軍と旧 ... ]]>

皇女和宮(かずのみや)は、1846年仁孝天皇(にんこう)の第八皇女として生まれました。母は権大納言の娘 橋本経子(観行院)です。

  

しかし、皇女が幕末という激動の時代に徳川家茂に降嫁することになり、その後新政府軍と旧幕府軍とが戦い新政府軍が江戸に迫ると、徳川家存続と江戸を守るために命懸けの嘆願書を書くなど、徳川の人間としてその任務を果たしていくことになります。

  

今回は幕末の混乱期に政略結婚でいやいや降嫁した「悲劇の皇女」ではなく、短いながらも家茂との結婚生活で次第にお互いの心の距離が近づき絆が深まって、やがて徳川の人間として強く生きた皇女のお話と、その皇女和宮と家茂の養母であった天璋院篤姫との確執について迫っていきたいと思います。

  


和宮は実は有栖川宮熾仁親王と婚約をしていた

和宮の誕生する前に父帝は亡くなり、それを不憫に思った異母兄の孝明天皇の命によって和宮が6歳のときに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約しました。

  

  

しかし、幕府は勅許問題・将軍継嗣問題などで朝廷との間が冷え込み、それによってますます幕府が弱体化していたので、朝廷の力を借りようと和宮を14代将軍 徳川家茂にと降嫁を求めてきました。

  

和宮は「東国(江戸)に行くくらいなら尼になる」というほど嫌がっていたのですが、岩倉具視が孝明天皇に「幕府に対して攘夷を決行するならという条件で和宮を降嫁させてはどうか」と説得した結果決定されたといわれています。

   

アダム
アダム

岩倉具視さんって感じの説得だ~

      

    

こばん店長
こばん店長

たしかに~

   

  

こばん店長
こばん店長

攘夷とは?明治維新とは?はこちらから

   


和宮、徳川家茂へいやいや降嫁

和宮は、攘夷のため、幕府が諸外国と交わした条約の破棄のためにいやいや降嫁するのですが、実際は幕府にとっては「攘夷や条約の破棄」は実現不可能な話なのでした。

アダム
アダム

え~!!

        

  

こばん店長
こばん店長

それなのに婚約破棄までして降嫁することになったんだよね

  

和宮は最後まで抵抗していましたが、周囲からの説得によりとうとう折れ、1861年、江戸城で婚礼がとりおこなわれました。和宮と家茂は同じ17歳でした。

   


和宮が出した結婚の条件「すべて御所風」に天璋院がキレた

和宮は降嫁の条件として、江戸大奥においても「すべてを御所風に」という条件を出しました。

  

髪型や着ているものはもちろん公家風、「御台様」と呼ばれることについても嫌がったといわれており、「和宮様」と呼ばせるなど公家の流儀を通したために13代将軍・徳川家定の御台所であった天璋院とものすごく仲が悪かったといわれています。

  

   

    

和宮と天璋院のエピソード・バトルその①

兄は孝明天皇という和宮は中山道を通って江戸に下り、将軍家茂という武家に降嫁した唯一の皇女でした。

  

和宮の身分は姑の天璋院よりも高かったので、京から持参した贈り物に「天璋院へ」と書き、嫁から姑の贈り物でしたが呼び捨てにしたといわれています。

  

それにキレたのが天璋院で、「すべてを御所風に」だけでも腹を立てていたところに呼び捨てというパンチが飛んできたのですから怒りは相当だったと思います。

  

天璋院にしてみれば、自分が嫁いでくるときには教育係の「幾島」という女性に礼儀を徹底的に叩き込まれ、しきたりを守って大奥にいたわけなので、怒るのも無理はないかもしれません。

  

一方の和宮ですが、こちらも兄の孝明天皇に頼まれたために婚約破棄までして渋々嫁いできたのでせめて御所風くらいは・・との思いがあったのかもしれません。

  

和宮と天璋院のエピソード・バトルその②仕返し編

和宮と天璋院の初対面の際にこんなエピソードがあったのをご存じでしょうか。天璋院は上座に座り、会釈もしなかったといわれています。対して和宮には下座に座らせ敷物(座布団)も用意されていなかったといいます。

  

この仕打ちに和宮は部屋に戻って泣いていたとの話もあるようです。

  

アダム
アダム

うぅぅぅぅっ

  

こばん店長
こばん店長

・・・・・・・・

  


天璋院・和宮の仲直り編「履物」

嫁と姑バトルが過熱して、大奥だけでなく京までもその対立の噂が届いてしまうようになりますが、和宮と家茂の夫婦仲は非常に良かったといわれています。

  

家茂は優しく穏やかな人柄だったといわれていて、和宮に花や金魚やかんざしなどの贈り物を届けたりして気遣っていたようです。

  

アダム
アダム

家茂さんでよかったよ~これが次の慶喜さんだったら・・・

  

  

こばん店長
こばん店長

ねぇ・・

    

そして、天璋院と和宮とが仲直りするきっかけとなったといわれているのが、踏み石の上に和宮と天璋院の履物が置いてあり、その下に家茂の履物が置いてあったので、和宮が縁先から降りて自分の履物と家茂の履物を置き換えたことから、天璋院と和宮の仲も円満になったといわれています。

  


和宮の深い悲しみ・徳川家茂との別れ

  

出陣する家茂を気遣っていた和宮でしたが、1866年 家茂は第二次長州征伐で大坂城に滞在中、脚気により21歳で死去してしまいます。

  

悲しみに暮れている最中の和宮に届いたものがありました。

  

それは、和宮が家茂にお土産に頼んだ西陣織で、和宮への最後の贈り物となった品でした。

  

空蝉(うつせみ)の唐織衣(からおりごろも)なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ

お土産にと頼んだ西陣織ですが、もはや何の役にも立ちません こんなに美しい着物もあなたがいなければ着る意味もありません

  

という和宮の悲痛な思いが伝わってくる歌を詠んでいます。

  

和宮は落飾して「静寛院宮」と称します。

  

家茂との結婚生活は、わずか4年半と短かいものになってしまいました。

   


徳川家と江戸を守るために動いた皇女の覚悟

家茂の次に将軍となったのは、徳川最後の15代将軍 徳川慶喜です。

  

1868年に鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗れ慶喜が軍艦で江戸に戻ると、和宮の元婚約者であった有栖川宮熾仁親王を総督とした追討軍(朝廷と薩摩藩が中心となった軍)が江戸に迫ってくるといった事態になります。

    

和宮は皇女でありながら、朝廷に一命をかけて徳川の存続と江戸城攻撃の猶予を乞うといった手紙を書いており、徳川家の人間として行動しています。これは天璋院も同じで、薩摩藩出身でしたが、徳川方の人間として西郷隆盛に江戸の総攻撃の回避と徳川家の存続を訴える書状を送っています。

  

あれほどバトルを繰り広げていた二人ですが、大奥でお家存続のために協力して徳川を守っていました。

けれど実は、和宮から送られてきた書状に対して西郷隆盛と大久保利通は、「賊の一味になり果てた」と言い捨て、和宮の必死の行動を相手にしていませんでした。

  

それどころか、西郷隆盛と大久保利通は皇女和宮に対して厳罰を主張したといわれています。

  

アダム
アダム

え~?!なんで~?!

    

  

こばん店長
こばん店長

徳川を徹底的に潰したいのに邪魔されたくなかったから~

  

その後、予定されていた江戸の総攻撃の前日にあの有名な勝海舟と西郷隆盛の会談によって江戸城の無血開城が決定されます。

  


明治維新のあとの和宮

江戸城への攻撃が回避され、徳川家の存続も叶い、和宮は暇乞いをして京都に戻ります。

  

その後東京に戻ってきて麻布の屋敷に住んでいましたが、病気療養のため箱根で過ごし、1877年 家茂と同じ脚気で亡くなります。32歳の激動の人生でした。

  

和宮の希望により、増上寺に眠っている家茂の隣に埋葬されました。

  

和宮の柩には烏帽子姿の男性の写真がおさめられていますが、保存状態が悪いため、誰かは判別できなかったようです。しかし、おそらくそれは家茂ではないかといわれています。

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徳川家定の正室・天璋院(篤姫)の生涯をわかりやすく解説https://koban-tenchoblog.com/atsuhime/Sun, 25 May 2025 19:39:45 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8453

1836年、篤姫は薩摩藩島津家の一門、島津忠剛(ただたけ)の娘として誕生します。名前は一子(かつこ)といい、活発で利発であったといわれている女性でした。         天璋院こと篤姫が大きく運命を変えたのは18歳のとき ... ]]>

天璋院篤姫、13代将軍徳川家定の正室となる

1836年、篤姫は薩摩藩島津家の一門、島津忠剛(ただたけ)の娘として誕生します。名前は一子(かつこ)といい、活発で利発であったといわれている女性でした。

  

こばん店長
こばん店長

「かつこ」さんってお名前だったのね

    

天璋院こと篤姫が大きく運命を変えたのは18歳のときで、薩摩藩主 島津斉彬のところに 病弱であったといわれている13代将軍 徳川家定との縁談が持ち込まれたことからはじまりました。

  

しかし、斉彬の子で家定と年齢が近い娘がいませんでした。そこで、島津家の分家筋にいた篤姫に白羽の矢が立ち、斉彬の養女となった後 さらに近衛忠煕の養女となり、篤姫が21歳のときに徳川家定の正室となりました。

  

なぜ、薩摩の島津家に縁談が持ち込まれたのかについてですが、家定には公家出身の正室が二人いましたが、いづれも病死してしまいました。

  

  

そこで11代将軍の家斉の正室(広大院)が薩摩出身で丈夫で長命だったことから、公家ではなく、島津家の娘を正室に望んだといわれています。

  


島津斉彬、篤姫を将軍家へ送り込む

幕末に外国船が頻繁に日本周辺にやってくると、「開国」か「攘夷」で国内の意見は二分していました。

*攘夷 夷敵(野蛮な外国人)を打ち鎖国をすること 

  

斉彬は、この国難に対して従来の幕府政治ではなく、雄藩連合により国政を行うべきだとする考えの持ち主でした。 

  

まず、薩摩藩は外様だったので、幕政に参加することができませんでした。

  

そこで、幕府内部に対して強い影響力をもちたいとの思惑と、ちょうどそのとき幕府から縁談の話があったので、篤姫を家定の正室として大奥に送り込むことにしました。

  

家定は幼少期から病弱で、ペリーが来航してから「開国」「尊王攘夷」などの問題が山積していて、穏やかな時代の将軍ならある程度は問題はなかったのですが、激動の時代の将軍として政務に耐えられる身体ではなかったといわれています。ですから、急ぎ次期将軍を決めなければなりませんでした。

 


篤姫23歳のとき、夫の徳川家定が病気で亡くなる

家定は1858年に心労のためか35歳の若さで亡くなります。篤姫が23歳、嫁いでからわずか1年7カ月後のことでした。

  

斉彬は、徳川斉昭の子である徳川慶喜(一橋派)を次期将軍にするべく、大奥にいる篤姫に働きかけ、篤姫も慶喜を将軍に据えるために動いていましたが、水戸斉昭は大奥から相当嫌われていた人物というのもあって14代将軍は、慶福(のちの家茂)に決まりました。

  

家定の母で篤姫の姑、本寿院とは?

  

こばん店長
こばん店長

家定さんのお母さん、本寿院さんが斉昭さんが大っ嫌いだったようで・・・

    

  

アダム
アダム

へ~なんで~?

  

     

こばん店長
こばん店長

斉昭さんは大奥で女性問題でやらかした人だったから拒否されたんだよ~

     

      

アダム
アダム

ほ~

     

  

こばん店長
こばん店長

あと、大奥に対して質素倹約といってうるさかったからともいわれているよ~

    

  

アダム
アダム

いいそうだね~

      

  

こばん店長
こばん店長

だから篤姫が慶喜さんを将軍にしようとしたとき、「慶喜が将軍になるなら自害する」とまでいって拒否したらしい

  

  

アダム
アダム

そこまで?

   

本寿院は、薩摩藩の島津斉彬が次期将軍を慶喜にするために篤姫を大奥に送り込もうと動いていたことを察知していたので、篤姫が家定のもとに嫁いでくることも不満だったといわれています。

  

篤姫は家定の死後23歳で落飾(らくしょく)し、天璋院(てんしょういん)と号し、徳川家茂の養母となります

  

  

家定が亡くなり、天璋院(篤姫)は薩摩藩に戻るようにとの話があったようですが、それを断り徳川の人間として生きていくことを選びその役割を果たしていくことになります。

  


家茂と和宮の結婚で頭を悩ます天璋院

1862年 孝明天皇の妹である17歳の皇女和宮が家茂の正室として迎えられました。これは、公武合体という政策の一環としての政略結婚でしたが、夫婦仲はとても良かったと伝わっています。

  

この公武合体とは、幕府の弱体化が進んでしまったので、朝廷の力を借りて幕府と朝廷とが結び、ともに政治を行っていくことをいいます。ですから、和宮の降嫁は、幕府と朝廷との結びつきを強化する狙いがあったのですが・・・。 

  

和宮は江戸城の大奥でも武家のしきたりではなく、「御所風」を通したため、結婚当初は天璋院との仲はよくありませんでした。

  

和宮

和宮は結婚する条件として「すべて御所風」で通すとしており、それを幕府側も了承していましたが、天璋院側にしてみるとワガママにみえたのかもしれません。

  

この二人の険悪なムードは江戸城内だけでなく、京まで伝わるほどだったといいます。

  

ただでさえ諸外国との交渉や、攘夷派たちの騒動、朝廷とのやり取りもしなければならないそんなときに嫁・姑バトルをみて、家茂は気苦労が絶えなかったのではないでしょうか。

  

こばん店長
こばん店長

そんな家茂さんが好きだったお菓子の記事だよ~

  

時がたつにつれ、天璋院と和宮はともに徳川家を支える立場にある者同士なので少しづつ心を通わせていきます。

  

しかし、二人がお互いに共感し合うことになったそのときに、江戸城で家茂死去の知らせをうけることになります。

  


家茂が大坂城で病死してしまう

家茂は、1866年の夏 第二次長州征伐で大坂城に滞在中、21歳の若さで病死してしまいます。

  

   

家茂は脚気衝心のため亡くなったとされています。

  

和宮との結婚生活は4年半でした。天璋院と和宮の悲しみはどれほどのものだったのでしょうか。

  


天璋院篤姫は江戸城無血開城のため奔走する

家茂が亡くなると、15代将軍となった徳川慶喜は1867年に大政を奉還しますが、1868年の正月に旧幕府軍と官軍とで鳥羽・伏見の戦いが起こり、官軍の中心的存在である天璋院の実家の薩摩藩に旧幕府軍が大敗してしまいます。

慶喜は軍艦で江戸に戻ると上野寛永寺で謹慎しますが、慶喜を朝敵として新政府軍が江戸に迫ってきていました。

  

そのとき天璋院は実家である薩摩藩の西郷隆盛宛てに徳川家存続と総攻撃を回避するのために一命をかけて嘆願書を送りました。

  

そして、江戸の総攻撃の前日に勝海舟と西郷隆盛の会談で、江戸の無血開城が決定されます。

  

天璋院の嘆願書が西郷の胸に響いたかは分かりませんが、天璋院は実家ではなく、徳川家存続のために命懸けで行動しました。

  

その後 徳川家の存続も許され、徳川家達(いえさと)が16代当主となります。

    


天璋院篤姫、維新のあと

明治維新のあとの天璋院は、薩摩からの援助を断り実家にも戻らず、徳川家16代 家達の養育に力を注ぎます。

  

質素に暮らしたといわれていますが、勝海舟と遊びに出掛けたり、和宮の屋敷に出掛けたりしていたようです。

  

その和宮が1877年に療養先の箱根で亡くなると、天璋院はその地を訪れ悲しんだといわれています。

  

1883年 天璋院は激動の時代を生き、48歳の生涯を終えました。

    


天璋院・本寿院・実成院のエピソード

  

アダム
アダム

本寿院さんて篤姫さんのお姑さんだよね~

  

  

こばん店長
こばん店長

そうそう

  

アダム
アダム

じゃあ、実成院さんってどちら様~?

  

本寿院は13代将軍家定の生母で、篤姫の姑にあたる人物です。前述しましたが、この本寿院は天璋院が家定に嫁ぐことを嫌っていた方です。

  

そして、14代将軍家茂の実母である実成院は、徳川斉順(紀伊藩主)の側室でした。しかしお酒が大好きな方だったらしく、朝から晩まで大奥で大騒ぎをして注意をうけるほどだったそうです。

  

この本寿院と実成院と天璋院は維新のあと、徳川邸にて一緒に暮らしていたようです。

  

アダム
アダム

篤姫さん、本当に大変な一生だったね

    

  

こばん店長
こばん店長

本当だよね~ ・・以上、天璋院篤姫の生涯についてでした~

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東福門院和子・徳川将軍家から後水尾天皇に入内した姫君https://koban-tenchoblog.com/tofukumonin/Sun, 18 May 2025 13:46:15 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8440

東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)は、将軍 徳川秀忠の五女として生まれ、和子が14歳になると後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内します。     幕府と朝廷との間をとりもつための結婚でしたが、次第に両者の確執 ... ]]>

東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)は、将軍 徳川秀忠の五女として生まれ、和子が14歳になると後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内します。

   

幕府と朝廷との間をとりもつための結婚でしたが、次第に両者の確執が熾烈になり、和子は多難な人生を歩むことになります。

  

今回は東福門院和子についてゆる~くご紹介します。

  


将軍 徳川秀忠の五女として江戸城で生まれる

和子は1607年、江戸城で二代将軍 徳川秀忠とお江(浅井長政とお市の三女)との間に生まれました(生母はお江ではなく、栖吉城主の本庄清七郎の娘 妙徳院との説有り)。

  

   

こばん店長
こばん店長

東福門院和子さんはお江さんの娘ではなかった?についての記事はこちらから

  

  

  

  

秀忠の父である家康は、孫娘を天皇に嫁がせ、朝廷の内部に影響力をもつため天皇家の外戚となる計画を立てていました。

  

ですから和子は、生まれながらにして天皇に入内するという特別な任務を背負っていたのです。

  

  

このときの時代背景は、江戸幕府の初期のころで朝廷と幕府の関係が不安定だったため、両者の関係をつなぐために、和子の存在は政治的にも大きな意味をもつものだったのです。

  


和子、やっと後水尾天皇に嫁ぐことになった?!

女御入内が決定したのは1614年でしたが、大坂冬の陣、夏の陣があり、その後家康が亡くなり、後陽成院までも崩御されたため、和子の入内は延期されました。

  

ようやく入内が決定したと思ったら、後水尾天皇が女官の四辻与津子を寵愛し、すでに皇子と皇女が誕生していました。これに秀忠は激怒し、母子と近臣たちを追放させるという事件が起こりました。

  

1620年 結婚前から前途多難ですが、ようやく和子は14歳で後水尾天皇に入内することになります。

  

和子
和子

これからが大変・・・

 


和子の江戸~京都の花嫁行列が豪華だった?!

将軍家から天皇家に嫁ぐということで、総費用は60万石ともいわれ、幕府の威信をかけた豪華な行列になり、さらに和子は1万石の化粧料も持参していました。

  

和子
和子

御所に運び込まれた花嫁道具が約380荷もあって大変だったの・・

      

  

アダム
アダム

中身が気になる・・・

  

江戸から旧東海道を通り、20日間かけて二条城に到着。そして二条城から御所に向かいました。

  

「東福門院入内図屏風」といって、二条城から御所に向かう花嫁行列の豪華な様子を描いた屏風があり、当時の華やかな様子を伺い知ることができます。

  


実は和子は朝廷で歓迎された花嫁ではなかった?!

幕府は、和子が入内する前に「禁中並公家諸法度」を出し、朝廷や公家に対して監視を強めていました。

  

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、幕府が天皇、朝廷、公家などの行動を規制し統制するために出した規則

  

そんな中で幕府から送り込まれた和子を歓迎する空気はありませんでした。

    

和子
和子

中和門院様(天皇の母)だけはお優しかったわ

  

  

アダム
アダム

よかった よかった

  


和子、中宮となる

1623年に興子内親王が誕生すると、和子は中宮となります。その後二人の皇子・複数の皇女が誕生しますが、二人の皇子は夭逝してしまいます。 

  

    

さて、先にも述べましたが、幕府が出した「禁中並公家諸法度」という朝廷や公家たちにとって圧力を強めていた時期に、江戸から送り込まれた和子に対して朝廷の女官たちも良い感情はもっていませんでした。

  

アダム
アダム

やっぱり江戸から来た将軍の娘さんだから、朝廷の女官さんたちにとってはねぇ・・・

  

  

こばん店長
こばん店長

ねぇ・・

   

  

アダム
アダム

それでど~したの?

  

  

和子
和子

幕府の財力を使いました~

    

  

アダム
アダム

分かりやすい

    

  

和子
和子

具体的には、着物を贈ったりしていろいろな方に気を配ったの

      

和子は、京都の呉服商*「雁金屋」に頼み豪華な小袖をたくさん注文しました。1着50万~100万もする小袖を毎月仕立てて、それを女官たちに下賜していました。

  

和子は芸術センスに優れ、和子の注文した大胆な模様のデザインは「寛文小袖」とよばれ大流行しました。

  

また、和子によって江戸小袖の着用が宮中に広がるようになったといわれています。

    

*雁金屋 尾形光琳(おがたこうりん)の実家 尾形家は浅井長政の家来筋だったといわれる

  


「紫衣事件」が起こり、和子の苦難はつづく

またしても幕府と朝廷との間に大きな確執が生まれてしまう事件が起こります。

  

幕府が出していた紫衣の授与の規制がありましたが、後水尾天皇が慣例のとおり僧侶に紫衣の着用の勅許を与えたことに対し、三代将軍家光が紫衣の勅許の取り消し、無効にするという挙に出ます。

  

また、幕府からは春日局(三代将軍 家光の乳母)が上洛し、無位無官であったにも関わらず後水尾天皇に謁見の申し出をするという度重なる無礼な態度に対して後水尾天皇はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまい幕府に無断で譲位してしまいます。

  

後継の天皇は7歳の興子内親王に決まり、明正天皇(めいしょうてんのう)として即位することになります。しかし、女性天皇は独身を通す決まりなので、徳川の血を引く天皇を即位させることができなくなりました。

  

後水尾天皇が退位したことにより、和子は東福門院の院号宣下を受けました。

  

その後、後水尾天皇は院政を行い和子は後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)の三代の養母となり、生涯にわたり幕府と朝廷の関係を取り持っていくという気遣いの多い人生を送った女性だったといわれています。

  

そして、1678年 72歳で亡くなると、皇室と縁の深い泉涌寺に葬られました。

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徳川秀忠の正室お江とは?波乱万丈の生涯をわかりやすく解説!https://koban-tenchoblog.com/ogo/Tue, 13 May 2025 19:44:58 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8432

お江は、1573年 近江国(現在の滋賀県)で生まれました。父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市の方です。お江には、茶々(のちの秀吉の側室、淀殿)や初(京極高次の正室)という姉たちがいて、激動の戦国時代を生きた三姉妹として ... ]]>

戦国のプリンセス誕生!お江、近江国で生まれる

お江は、1573年 近江国(現在の滋賀県)で生まれました。父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市の方です。お江には、茶々(のちの秀吉の側室、淀殿)や初(京極高次の正室)という姉たちがいて、激動の戦国時代を生きた三姉妹として知られています。

  

生まれてすぐに父は母の兄である織田信長との戦いに敗れ自刃してしまいます。その後、母や姉たちとともに信長に保護され、織田家で育てられます。

  


母。お市の方が再婚!お江の新しい父は誰?

お江は、母と姉たちとともに伊勢上野で暮らしていましたが、本能寺の変が起き伯父の信長が討たれると、母・お市の方が信長の家臣 柴田勝家に再嫁することになります。

  

   

母、お市の方が自害!お江、秀吉に保護される

しかし、勝家は対立していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に賤ケ岳の戦いで敗れると、勝家の居城 北ノ庄城でお市の方とともに自害してしまいます。

  

その後三姉妹は敵将、羽柴秀吉に保護されることになりました。

     


お江の最初の結婚!佐治一成と夫婦になるも・・・?

さっそく秀吉は三姉妹を政略結婚のコマとして利用します。

  

12歳になったお江は尾張国知多郡(現 愛知県)の大野城主 佐治一成に嫁がされますが、秀吉と敵対したために数カ月で離縁させられます。

   


お江、再婚!秀吉の甥の羽柴秀勝と結婚するも・・・

その後、秀吉の甥である秀勝に嫁ぎますが、「文禄の役」で病死してしまいます。その秀勝の没後に生まれた子が完子です。完子は、姉・茶々に引き取られた後 九条家に嫁ぎ、多くの子をもうけ、浅井家の血脈が現在の皇室に繋がっています。

    


運命の出会い?徳川家康の息子・秀忠と結婚!

お江は、またまた再嫁することになります。今度は、徳川家康の三男でお江より6歳年下の秀忠の正室となり、千姫、家光、忠長など二男五女をもうけます。

  

秀忠はお江には頭があがらず、正式な側室はもたなかったといわれています。

    

アダム
アダム

たしかに怖そうなイメージだ

    

こばん店長
こばん店長

うん・・

  

1600年 関ケ原の戦いのあと、徳川家康は実質的な天下人となり征夷大将軍に任命されます。家康は、江戸に幕府を開き秀忠は徳川の二代将軍になります。

  


未来の将軍・家光誕生!お江、母として奮闘

お江は後の三代将軍となる家光を出産(諸説あります 春日局が生んだ説も有り)しています。徳川代々の将軍の正室のなかで、将軍の生母になったのはお江だけでした。

  

しかし、家光の将軍継承には様々な問題があったようで、お江は弟の忠長を将軍にとの思いがあったのか春日局と対立していたといわれていますが、真相は不明です。

  

最終的には家康の「長子相続」(長男が相続すること)との決定により、家光が3代将軍となりました。

  


実をいうと五女の東福門院和子はお江が生んでいない?!

東福門院とは、秀忠とお江の五女の和子(まさこ)のことで、後水尾天皇に入内し、興子内親王を生み、明正天皇として即位しています。

  

しかし、新潟県長岡市蔵王にある金峯(きんぷ)神社には、東福門院和子の生母は栖吉城主の本庄清七郎の娘の妙徳院で、秀忠が亡くなると、蔵王に住んだと伝わっています。     

  

アダム
アダム

あら・・

    

こばん店長
こばん店長

表向きは側室はいなかったといわれているけどね・・

    

   


秀忠には保科正之という庶子もいた

保科正之(ほしなまさゆき)は、秀忠と浄光院(秀忠の乳母に仕えていた)の子で三代将軍 家光の異母弟といわれています。

 

*正之は、会津松平家の祖であり、徳川将軍家に忠義を重んじる家訓を定めたことで、幕末の動乱期に会津藩主 松平容保が最後までその遺訓を守ったことで知られています。

  

正室のお江の嫉妬が恐かったのか浄光院と正之の存在は隠され、江戸城の外で養育されました。

  

正之は信州高遠城主 保科正光の養子となり、養父が亡くなると高遠藩主となります。

  

秀忠は最後まで正之の父子であるとの名乗りもしませんでした。

  

こばん店長
こばん店長

秀忠さんが亡くなる前にお江さんは亡くなっているので、嫉妬とは関係ないみたい

  

秀忠が亡くなり、弟が優秀であることを知っていた家光によって、出羽国山形藩20万石に移り、その後会津藩23万石の初代藩主となりました。

    

アダム
アダム

正之さんが秀忠さんの息子なのは知ってたよ~

  

  

こばん店長
こばん店長

保科正之さんの方は有名だよね~

    

  


江戸城で人生の幕を閉じる・・妙な噂話があるお江の最期とは?!

1626年 お江は江戸城の西の丸で死去します。54歳の激動の生涯でした。

  

戦後になり、徳川家墓所の調査が行われ、お江は小柄で華奢な女性であったことが分かっています。

  

そして、もう一つ、増上寺に眠る徳川家の中で荼毘に付されたのはお江だけでした。

  

毒を飲まされたため証拠隠滅のため火葬にされたのではないかとの噂話もあるようです。

  

ちなみに、お江が江戸城で亡くなったときには、夫の秀忠と息子たちは上京中で留守だったので、お江の臨終の際にはいませんでした。

  

アダム
アダム

犯人は・・え~・・

  

  

こばん店長
こばん店長

以上 波乱万丈のお江さんの生涯でした~

  

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徳川最後の将軍!徳川慶喜は逃げた愚かな将軍だったのか?!https://koban-tenchoblog.com/tokugawa-yoshinobu/Thu, 01 May 2025 20:41:07 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8402

幕末にペリーが日本にやってきて強引に開国を迫ります。その外国との交渉において今までのような幕府政治をやっていてはダメだと考える人が増えてきました(倒幕派)。       が、これに対して幕府主導で政治を行うべきだとの考え ... ]]>

幕末にペリーが日本にやってきて強引に開国を迫ります。その外国との交渉において今までのような幕府政治をやっていてはダメだと考える人が増えてきました(倒幕派)。

  

  

が、これに対して幕府主導で政治を行うべきだとの考えもありました(佐幕派)。

  

  

この両者の考えの違いが戊辰戦争へと繋がっていきました。

  

  

今回は徳川最後の将軍 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)がなぜ京都の鳥羽・伏見の戦いの後、大坂城から逃げたのかについてです。

  

   

アダム
アダム

徳川慶喜さんというとあの大坂城から逃げた将軍・・・?

      

    

こばん店長
こばん店長

う~ん・・慶喜さんについては見る人によって人物像が大きく変わると思うんだよね~知らないけど・・・

     

  

アダム
アダム

知らないけどって何~?!

    

  

こばん店長
こばん店長

文末に「知らないけど」を付けると責任を回避できるよ~

  

*語尾に「知らんけど」を使うのは関西と一般的にはいわれていますが、実は新潟県の上越エリアも、昔から使われています。

 


徳川最後の将軍、慶喜は逃げた愚かな将軍だったのか?!

ときは幕末の京都 鳥羽・伏見において、旧幕府側と新政府側(*薩長)との間に起こった戦いで、新政府側が勝利しました。

  

*薩(薩摩藩・現 鹿児島県)長(長州藩・現 山口県)

  

  

鳥羽・伏見の戦いのあと、大坂城から脱出して江戸に軍艦で逃げたのが徳川慶喜です。

  

  

まず、15代将軍 徳川慶喜は幼少期からとても利発で、稀に見る智謀に長けた人物であるといわれていました。

 

  

しかし、慶喜は新政府軍との戦いを徹底的に避けて大坂から江戸に軍艦で逃げ帰った「腰抜けの愚かな将軍」とまでいわれた人物です。

  

  

こばん店長
こばん店長

明治維新についてゆるく語っているよ~

  

  

これについては、なぜ逃げなければならなかったのか?そして幕臣にさえ本心を明かさず大坂城を出たのはなぜだったのか?

   


将軍慶喜が江戸に逃げたのはなぜなのか?!

戊辰戦争から長い時間が経った今もなお「慶喜は逃げた愚かな将軍」とイメージする方も多いと思います。

  

  

鳥羽・伏見の戦いにおいて数では有利だったのに敗戦となってしまい戦意を失った慶喜は家臣を置いて逃げた「裏切り」と解釈する方や、慶喜は水戸藩出身なので強い尊王思想があり、朝敵となるのを恐れた「腰抜け」という説が有名だと思います。

  

アダム
アダム

朝敵になりたくなかったってよく聞くよね

  

    

  

こばん店長
こばん店長

それはあると思う 慶喜さんは水戸の出身で本当の尊王の方だからね~

  

  

しかし、慶喜はあるときを境に戦いを徹底的に避けるようになります。

  

  

御所に向けて発砲したことで長州藩が朝敵になった

第一次長州征伐は、長州藩が御所に向けて発砲したことにより、朝廷が激怒して長州藩は朝敵となり追討令が出されました。

  

  

第一次長州征伐のときは、征長総督は徳川慶勝で、参謀の西郷隆盛が総攻撃の前に独断で長州藩と講和したことで長州藩は降伏します。

  

  

戦いの前に西郷は長州藩を「潰せ」と厳命していたのにも関わらず、幕臣の勝海舟との会談のあと長州藩を擁護するような姿勢をとったため、慶喜との仲は急激に悪化したといわれています。

  

  

  

薩摩、イギリスの支援を受ける

第二次長州征伐は薩摩は最初から戦いには不参加でした。というのも、戦いの前の慶応2年1月には薩長同盟が締結しており、薩摩がイギリスから洋式武器を密輸入してその武器が長州に渡っていました

  

こばん店長
こばん店長

ここなのよ~ 外国の支援を受けた!というのが最大のポイントになるよ~

    

  

アダム
アダム

不穏な感じするね

    

  

なぜ倒幕が必要だったのかについてはこちらをご覧ください。

  

  

長州の洋式の武器と幕府側の指揮命令系統の乱れから第二次長州征伐は圧倒的な数の幕府軍が長州に大敗を喫します。

  

  

第二次長州征伐になると、幕府側でも反対派の意見が多くなって足並みが揃わなかった点も敗戦に繋がったのだと思います。

  

  

ただ、薩摩と長州がイギリスの支援を受けている(薩摩藩は生麦事件のあとからイギリスと急接近しています)ということは大いに憂慮すべき事態だったと思います。今でいうと反政府勢力が外国の支援を受けているようなものです。

  

  

慶喜が薩長同盟に気付いたのはいつだったのでしょうか。

   

  

徳川慶喜が大政奉還したのはなぜだったのか?

第二次長州征伐は将軍家茂が大坂城で病で亡くなったため幕府軍は総崩れとなり、幕府からの働きかけで朝廷から長州征伐中止の勅命が下りました。

  

   

その後、今まで幕府側の最大の庇護者であった孝明天皇が崩御すると、薩摩・長州は倒幕の勅許を得ることに成功します。

 

  

そして討幕派が慶喜に対し、政権を返さないと武力攻撃をする!といってきますが、大政奉還をしてその大義名分をなくしてしまいます

  

  

天皇中心の新政府樹立で慶喜が主導権を握るまでの間、討幕派に倒幕のための口実を与えないように慶喜は爆発間際の幕府を必死で抑えていました。

  

  

が、慶喜に主導権を与えたくない西郷と大久保らは、江戸市内(現 東京)で 〇人や、強盗などのテロ活動を行い、わざと幕府を怒らせて薩摩藩邸を焼き討ちにさせてしまうといったことが起きます。

  

  

慶喜が絶対に避けたかった戦い、どうしても武力で幕府を倒したい討幕派に戦いの口実を与えてしまったのです。

   


なぜ慶喜はそこまで戦いを避けたのか?!

まず、日本の国難、外交の危機という非常なときに国内で争っているときではない、というのが慶喜の考えだったと思います。

  

  

先述しましたが、薩摩と長州の戦いにはイギリスが最大の支援をしていました。

  

  

国内で内乱が起きると民は疲弊し、国力は低下してしまいます。そんなとき外国から攻められたらあっという間に植民地になります。

 

  

これについて、外国は攻めてくるはずがなかった、という方もいますが、外国は開国を求めにきて、開国をしないのなら大砲で江戸を総攻撃すると脅していた人達です。

  

  

また、イギリスについてもアロー号事件により清国は半ば植民地になっていることからも「外国は攻めてはこない」というのは楽観視し過ぎな話です。

  

  

*アロー号事件 広州湾(中国)でイギリス国旗を掲げるアロー号を臨検し乗組員を逮捕したことにより、イギリス側が侮辱行為だとして広東市街を砲撃し、イギリスとフランスの連合軍は北京を占領した事件のこと

  

  

話は戻りまして、慶喜の考えはこのような情勢で国内で争っている場合ではないと考えたはずです。

  

  

しかし、徹底的に避けていた戦いが始まってしまいました。幕府側には江戸における薩摩の乱暴狼藉には耐えるようにと厳命していましたが、ついに堪忍袋の緒が切れてしまい幕軍が動き出してしまいました。

  


慶喜は内戦をもっとも恐れた?!

慶喜は新政府軍との戦いにおいて、戦いが拡大して全国規模の内戦になるというのを一番恐れたのではないかと思うのです。

  

  

万が一将軍である慶喜が討たれたり徹底抗戦を呼びかけた場合は全国の恭順といっていた藩も戦いに参加してまさに国を二分する長い内乱の恐れがありました。

  

  

あの勝海舟でさえ、慶喜が討たれたら戦うと言っていたくらいですから日本国中がそんな状態になっていたと想像できます。

  

  

朝廷より、薩摩・長州よりも国のトップとして諸外国の情報を持っていた慶喜が欧米列強の脅威を感じた結果、何よりも『国家を優先』し内戦を回避したのではないでしょうか。

  

  

幕臣の中にはフランスの軍事支援を受け徹底抗戦をするべきだとの意見もありましたが、そうなると、日本の国内でイギリス対フランスといった代理戦争に突入してしまう危険性が出てきてしまいます。 

  

  

慶喜がフランスからの軍事支援を断っていることからも幕府の存続より誰よりも第一に国家を考えていた人物といえるのではないでしょうか。

  

  

武士として戦って討たれた方がはるかに本望という時代に『逃げた将軍』などという屈辱に耐えなければならない道を選んだのです。

   


幕臣にも黙って大坂城を出たのはなぜか?!

これについては、薩長に対して怒りが収まらない幕臣たちの中で、もし慶喜がこれから私は江戸に帰り上野の寛永寺で謹慎しますなどと宣言などしようものなら、柱にでもくくりつけられそうな勢いで止められたのではないでしょうか。

  

  

だから気づかれないように江戸に逃げたのだろうと思います。

   

  

こばん店長
こばん店長

知らないけど

   

  

アダム
アダム

ま~なんてこと言うんでしょ

    

   

なぜ慶喜は大坂城から逃げたのかについてですが、次の3つの説が有力のようです。慶喜はどれだったと思いますか?

  

①鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗戦となったことで、戦意を失った説

  

②新政府軍がもつ錦の御旗を見て、慶喜は朝敵となるのを恐れた説

  

③イギリスの支援を受けている薩長に対し、戦いを長引かせると内戦が拡大し、その後植民地となることを恐れた説 

  

旧幕府側を支持している方はおそらく①か②ではないでしょうか。そして、新政府側を支持している方も①か②ではないでしょうか。

  

  

アダム
アダム

つまり、裏切り者で腰抜けで内戦を避けたすごい人ということ?

  

  

こばん店長
こばん店長

だから見る人によって印象が変わる人なんだってば~

  

以上、慶喜はなぜ大坂城から逃げたのか?についてでした。

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ねね(高台院)とは?豊臣秀吉を支えた正妻の生涯https://koban-tenchoblog.com/nene/Tue, 11 Mar 2025 17:50:53 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8258

1548年頃(諸説あります)尾張国朝日村(現在の愛知県)に生まれました。名前は「おね」や「ねね」と呼ばれていました。    寧々の父は信長に仕える杉原定利、母は朝日殿とされています。    寧々は性格は温厚でしたが、しっ ... ]]>

寧々(ねね)、尾張に生まれる

1548年頃(諸説あります)尾張国朝日村(現在の愛知県)に生まれました。名前は「おね」や「ねね」と呼ばれていました。

  

寧々の父は信長に仕える杉原定利、母は朝日殿とされています。

  

寧々は性格は温厚でしたが、しっかりもので気が強く、声も大きかったと伝わります。秀吉との喧嘩では周囲に人がいても大声で尾張弁丸出しで怒鳴り合っていたらしく、高い身分になってもそれは変わらなかったといわれています。


秀吉と当時は珍しい恋愛結婚

  

1561年 寧々が14歳、秀吉が25歳のときに二人は結婚します。

  

秀吉は農民の出身でしたが、織田信長に仕えて出世を目指していました。

  

当時の武士の結婚は家同士のつながりが大変重要視されていた時代なので、恋愛結婚というのは珍しいことでした。

  

寧々の母は「身分の差」から結婚には大反対だったのですが、寧々は周囲の反対を押し切り結婚することを決意します。しかし二人の結婚式は藁を敷いて ”ござ” をひろげ盃を交わしただけのとても質素なものだったようです。

  


信長と寧々のエピソード

秀吉は出世するにつれて、多くの女性を側室に迎えるようになりました。そんなある日 なんと秀吉の主君である織田信長に夫の浮気について相談したといわれています。

  

信長から「あのはげ鼠、許せない あの猿(秀吉)にねねはもったいない しかしそなたももっと奥方らしくどっしりと構えているように」といった手紙をもらう驚きのエピソードもあります。

  

そして信長は秀吉をたしなめたといわれており、寧々は誰であっても自分の考えを伝えることのできた女性であったことが分かります。

  

アダム
アダム

はげ鼠って・・・

    

こばん店長
こばん店長

猿も相当ひどい

  


秀吉と寧々長浜城に入城する

  

1574年 秀吉が信長の家臣として活躍し、近江 長浜城主になると寧々もそこに移り住みます。

  

長浜城は現在の滋賀県にあり琵琶湖のそばに立つ美しいお城でした。

  

秀吉は遠征でいないことが多かったのですが、城主の妻として家臣や町の人々の生活を支えました。

  

秀吉が町人の年貢を厳しく取り立てようとしたときに、寧々が大反対して白紙になったといわれ、政治面でも秀吉を支えていたようです。

  

多くの領民に慕われ、城の中でも家臣の妻たちをまとめたりして、秀吉が戦に出掛けている間、寧々が城を守っていたといわれています。

  

面倒見のいい寧々は、縁戚だった加藤清正、福島正則らを子供のころに引き取って豊臣恩顧の優秀な武将に育てあげています。

  


本能寺の変が起きて秀吉の母と逃げる

1582年の本能寺の変で明智の兵に狙われていましたが、寧々は秀吉の母らとともに伊吹山麓の寺に身を隠し、難を逃れました。

  

  

秀吉の母「なか」も寧々も高い身分になっても飾るところがなかったといわれ、二人は気が合っていたのか嫁と姑の仲は良かったといわれています

  


秀吉がとうとう天下人に!大坂城に入る

本能寺の変の後、秀吉は明智光秀を倒すと勢力を拡大し1583年 とうとう天下人に昇りつめます。

  

秀吉が築いた大坂城に寧々も移り住みますが、多くの側室も大坂城で一緒に生活をしていました。

  

寧々は信長に対して秀吉の女癖の悪さを相談するくらいなので心中は穏やかではなかったと思いますが、秀吉の正室として出世を陰で支えてきた賢妻は平静を保ちながら豊臣家を支え続けます。

  

1585年 秀吉は関白となり、寧々は「北政所」と称されるようになります。寧々は朝廷と豊臣家との交流を深めるために挨拶や贈り物などの外交面での役目も果たしていたようです。

  


長年支えた秀吉が亡くなる

   

1598年 寧々が長年支えてきた秀吉が62歳で亡くなってしまいます。

  

秀吉が亡くなると、秀頼(秀吉と茶々の息子)を護るため実母の茶々(淀殿)が大坂城に入り発言権を持つようになります。

  

  


寧々、大坂城 西の丸を家康に明け渡す

    

1599年 関ケ原の戦いを前にして、大阪城西の丸を家康に明け渡し京に移りました。

  

関ケ原の戦いの後、秀頼の母である茶々(淀殿)に豊臣家の存続のため、家康に従うように促しますが失敗に終わります。

  


寧々は落飾して高台院となる

1603年 寧々は落飾して高台院と号します。

  

1605年 京都東山に高台寺を建立して秀吉の菩提を弔いました。

  


豊臣家の滅亡を見届けることに

いよいよ豊臣方と徳川方との戦が避けられない状況になってきたころ、寧々は大阪城にいる淀殿の説得に動きだそうとしますが、それを察知した家康により、動きを封じられてしまいます。

  

家康にしてみれば豊臣を倒す絶好の機会なので、淀殿への説得はむしろ「余計なこと」です。

 

寧々は豊臣恩顧の大名たちには「実の母」のように慕われており、寧々の発言によっては徳川方から離反する者たちが出るほどの影響力をもっていました。

  

それほど寧々は家康からみれば「危険な存在」でした。

  

1615年 大坂夏の陣で大阪城が落城 淀殿と秀頼は自刃

    

寧々は高台寺の高台から燃え盛る大坂城を見ていたといわれ、秀吉と築き上げた豊臣家の滅亡を見届けることになってしまいました。

  

それから9年後の1624年 寧々は生涯を閉じました。

  


秀吉の正室、寧々とは?

寧々は秀吉の正室として支え続けた賢妻で、あの家康も一目置いたといわれた女性でした。

  

秀吉も彼女を最も頼りにしていたようで、軍事面、政治面についての重要なことも大坂城にいる寧々に書状を書いて送っていました。

  

次の天下人は徳川だと感じとっていたので、淀殿に豊臣家の存続のため、家康に従うように促していたことからも、寧々は政治的センスに優れ、時代の変化を感じ取り冷静に先を読むことができた人物だったのではないでしょうか。

  

秀吉と寧々に嫡男がいた場合「徳川幕府」というものは誕生していなかったといわれるほど賢い妻といわれ、また多くの人に愛された天下人の妻でした。

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