こばん店長ブログhttps://koban-tenchoblog.com歴史(高田藩 榊原家中心)をゆる~く紹介Fri, 14 Mar 2025 18:37:09 +0000jahourly1https://koban-tenchoblog.com/wp-content/uploads/2022/10/cropped-ファビコン2-32x32.jpgこばん店長ブログhttps://koban-tenchoblog.com3232 ねね(高台院)とは?豊臣秀吉を支えた正妻の生涯https://koban-tenchoblog.com/nene/Tue, 11 Mar 2025 17:50:53 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8258

1548年頃(諸説あります)尾張国朝日村(現在の愛知県)に生まれました。名前は「おね」や「ねね」と呼ばれていました。    ねねの父は信長に仕える杉原定利、母は朝日殿とされています。    ねねは性格は温厚でしたが、しっ ... ]]>

尾張に生まれる

1548年頃(諸説あります)尾張国朝日村(現在の愛知県)に生まれました。名前は「おね」や「ねね」と呼ばれていました。

  

ねねの父は信長に仕える杉原定利、母は朝日殿とされています。

  

ねねは性格は温厚でしたが、しっかりもので気が強く、声も大きかったと伝わります。秀吉との喧嘩では周囲に人がいても大声で尾張弁丸出しで怒鳴り合っていたらしく、高い身分になってもそれは変わらなかったといわれています。


秀吉と当時は珍しい恋愛結婚

  

1561年 ねねが14歳、秀吉が25歳のときに二人は結婚します。

  

秀吉は農民の出身でしたが、織田信長に仕えて出世を目指していました。

  

当時の武士の結婚は家同士のつながりが大変重要視されていた時代なので、恋愛結婚というのは珍しいことでした。

  

ねねの母は「身分の差」から結婚には大反対だったのですが、ねねは周囲の反対を押し切り結婚することを決意します。しかし二人の結婚式は藁を敷いて ”ござ” をひろげ盃を交わしただけのとても質素なものだったようです。

  


信長に秀吉の浮気を相談

秀吉は出世するにつれて、多くの女性を側室に迎えるようになりました。そんなある日 なんと秀吉の主君である織田信長に夫の浮気について相談したといわれています。

  

信長から「あのはげ鼠、許せない あの猿(秀吉)にねねはもったいない しかしそなたももっと奥方らしくどっしりと構えているように」といった手紙をもらう驚きのエピソードもあります。

  

そして信長は秀吉をたしなめたといわれており、ねねは誰であっても自分の考えを伝えることのできた女性であったことが分かります。

  

アダム
アダム

はげ鼠って・・・

    

こばん店長
こばん店長

猿も相当ひどい

  


近江 長浜城に住む

  

1574年 秀吉が信長の家臣として活躍し、近江 長浜城主になるとねねもそこに移り住みます。

  

長浜城は現在の滋賀県にあり琵琶湖のそばに立つ美しいお城でした。

  

秀吉は遠征でいないことが多かったのですが、城主の妻として家臣や町の人々の生活を支えました。

  

秀吉が町人の年貢を厳しく取り立てようとしたときに、ねねが大反対して白紙になったといわれ、政治面でも秀吉を支えていたようです。

  

多くの領民に慕われ、城の中でも家臣の妻たちをまとめたりして、秀吉が戦に出掛けている間、ねねが城を守っていたといわれています。

  

面倒見のいいねねは、縁戚だった加藤清正、福島正則らを子供のころに引き取って豊臣恩顧の優秀な武将に育てあげています。

  


本能寺の変が起きて秀吉の母と逃げる

1582年の本能寺の変で明智の兵に狙われていましたが、ねねは秀吉の母らとともに伊吹山麓の寺に身を隠し、難を逃れました。

  

秀吉の母「なか」もねねも高い身分になっても飾るところがなかったといわれ、二人は気が合っていたのか嫁と姑の仲は良かったといわれています

  


秀吉がとうとう天下人に!大坂城に入る

本能寺の変の後、秀吉は明智光秀を倒すと勢力を拡大し1583年 とうとう天下人に昇りつめます。

  

秀吉が築いた大坂城にねねも移り住みますが、多くの側室も大坂城で一緒に生活をしていました。

  

ねねは信長に対して秀吉の女癖の悪さを相談するくらいなので心中は穏やかではなかったと思いますが、秀吉の正室として出世を陰で支えてきた賢妻は平静を保ちながら豊臣家を支え続けます。

  

1585年 秀吉は関白となり、ねねは「北政所」と称されるようになります。ねねは朝廷と豊臣家との交流を深めるために挨拶や贈り物などの外交面での役目も果たしていたようです。

  


長年支えた秀吉が亡くなる

   

1598年 ねねが長年支えてきた秀吉が62歳で亡くなってしまいます。

  

秀吉が亡くなると、秀頼(秀吉と茶々の息子)を護るため実母の茶々(淀殿)が大坂城に入り発言権を持つようになります。

  

  


ねね、大坂城 西の丸を家康に明け渡す

    

1599年 関ケ原の戦いを前にして、大阪城西の丸を家康に明け渡し京に移りました。

  

関ケ原の戦いの後、秀頼の母である茶々(淀殿)に豊臣家の存続のため、家康に従うように促しますが失敗に終わります。

  


ねね、落飾して高台院となる

1603年 ねねは落飾して高台院と号します。

  

1605年 京都東山に高台寺を建立して秀吉の菩提を弔いました。

  


豊臣家の滅亡を見届けることに

いよいよ豊臣方と徳川方との戦が避けられない状況になってきたころ、ねねは大阪城にいる淀殿の説得に動きだそうとしますが、それを察知した家康により、動きを封じられてしまいます。

  

家康にしてみれば豊臣を倒す絶好の機会なので、ねねの淀殿への説得はむしろ「余計なこと」です。

  

ねねは豊臣恩顧の大名たちには「実の母」のように慕われており、ねねの発言によっては徳川方から離反する者たちが出るほどの影響力をもっていました。

  

それほどねねは家康からみれば「危険な存在」でした。

  

1615年 大坂夏の陣で大阪城が落城 淀殿と秀頼は自刃

    

ねねは高台寺の高台から燃え盛る大坂城を見ていたといわれ、秀吉と築き上げた豊臣家の滅亡を見届けることになってしまいました。

  

それから9年後の1624年 ねねは生涯を閉じました。

  


まとめ

ねねは秀吉の正室として支え続けた賢妻で、あの家康も一目置いたといわれた女性でした。

  

秀吉も彼女を最も頼りにしていたようで、軍事面、政治面についての重要なことも大坂城にいるねねに書状を書いて送っていました。

  

天下人になった秀吉が信頼するくらいですから、ねねは政治的センスに優れ、時代の変化を感じ取り冷静に先を読むことができた人物だったのではないでしょうか。

  

秀吉とねねに嫡男がいた場合「徳川幕府」というものは誕生していなかったといわれるほど賢い妻といわれ、また多くの人に愛された天下人の妻でした。

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戦国一の美女・お市の方の生涯!信長の妹が歩んだ運命と悲劇とは?https://koban-tenchoblog.com/oichi/Thu, 06 Mar 2025 18:12:46 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8252

戦国時代でひときわ美しい女性として知られているのが「お市の方」です。彼女は織田信長の妹として1547年に生まれ 1583年に自刃、戦乱の中で波乱の人生を閉じました。今回は、お市の方の生涯をわかりやすく紹介します。    ... ]]>

戦国時代でひときわ美しい女性として知られているのが「お市の方」です。彼女は織田信長の妹として1547年に生まれ 1583年に自刃、戦乱の中で波乱の人生を閉じました。今回は、お市の方の生涯をわかりやすく紹介します。

  


戦国一の美女・お市の方とは?

お市の方は、歴史上の女性の中でも「戦国一の美女」と称されるほどの美しさを持っていました。

  

彼女はただ美しいだけでなく、賢く、武将たちの間でもその才智が高く評価されていたといいます。

  

お市の方の父は織田信秀、母は土田御前(つちだごぜん)で、同母兄の信長とは13歳離れていました。幼いころから教養を身につけ聡明な女性へと成長しました。

  


織田信長の妹として生まれたお市の方

信長は1560年 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ります。

  

今川義元を討ち、天下取りに名乗りをあげた信長は上洛を考え1564年(1567年説もあり)北近江の浅井長政と同盟を結びます。

  

お市は兄である信長と兄妹仲が良かったといわれ、お市の美貌と知性を生かし信長の天下取りの一環として重要な役割を果たすことになります

  


お市の方の生涯!戦国を生きた波乱の人生

お市の方は18歳(いろいろな説があり)で北近江の戦国大名 浅井長政へ嫁ぎます。この結婚は織田家と浅井家の同盟の証としたものでしたが、夫婦仲は円満で三人の娘をもうけています。

  

しかし、この同盟は長くは続きませんでした。

  


お市の方の三人の娘とは?

お市の方には三人の娘がいました。この三人が浅井三姉妹といわれ、茶々(淀殿)、初、お江です。

  

・茶々(淀殿) 豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生んでいます

・初 京極高次の妻で大坂の陣では豊臣方と徳川方の和議に奔走します

・お江(ごう) 二代将軍になる徳川秀忠の正室になります

  

お市の方の娘三人も戦国の世を生き抜き、歴史上の重要な人物となりました

  


浅井が同盟破棄!?お市の方と三人の娘の運命が動きだす!

1570年 織田信長と同盟を結んでいた長政でしたが、信長が朝倉氏を攻めると朝倉氏と手を結び信長を挟み撃ちにしようとします。

  

ここで有名なのが、兄信長に対して袋の両方の端を結んだ小豆を陣中見舞いとして届け「織田軍が袋のネズミ」であるといった危険を知らせた話です(後世の創作ともいわれる)

  

  

お市の方と長政は夫婦仲もよかったのですが、なぜ夫を裏切るようなことをしたのかというと、戦国時代の女性たちは、政略結婚により実家から嫁ぎ先に密偵のような役目を負い送り込まれているので、嫁ぎ先よりも実家に重きをおいて行動していたためです

  

  

これにより信長はギリギリで京に逃げ帰ることができたといわれています

  

この裏切りにより信長は大激怒し浅井・朝倉を攻めることになります。

  

   


実家に戻る!織田家での生活

    

1573年、信長は朝倉氏を攻め滅ぼすと、つぎに浅井の小谷城を取り囲みます。

  

お市の方は夫 長政とともに自刃しようとしますが、長政から「浅井の血を絶やさないでほしい」との願いから三人の娘とともに織田家にもどることになりました。

  

このときに長政は自刃し、浅井家は滅亡しました。お市が27歳のときのことです。

  


本能寺の変!お市の方に訪れた悲劇

   

お市の方と三人の娘たちは信長の庇護のもと伊勢上野で暮らしていましたが、1582年 本能寺の変が起こり信長が討ち死にしたことにより、お市の方は再び戦乱の世に巻き込まれることになってしまいます。

  

兄 織田信長がいなくなったことによって戦国の勢力図も大きく変わってしまったためでした。

  


柴田勝家と再婚!お市の方の新たな人生

  

歴史上で美女といわれた方は波乱の人生を送る人が多く、お市の方もそういった人でした。 

    

信長が亡くなると、信長の後継をめぐり柴田勝家(織田家の重臣)と豊臣秀吉が対立することになります。

  

1582年 お市の方の甥(信長の三男)信孝から柴田勝家との再婚を勧められ承諾することになりました。

  

勝家は信長の忠臣であり、お市の方や三人の娘も大切にしたといわれています。しかし、この再婚は長くは続きませんでした。

  


勝家と自刃!お市の方の最期

  

豊臣秀吉が勢力を強め、1583年 北近江の賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで勝家は秀吉に敗れてしまいます。勝家はお市の方に居城の北ノ庄城から逃れるように説得しますが、それを退け自刃する道を選びます。

  

お市の方は二度の落城を経験するなど波乱に満ちた37年の生涯となりました。

  

ただ、娘の三人には浅井の血を絶やさないようにとの遺言をして秀吉のもとに送り出したといわれています。

  


まとめ

お市の方は、戦国の世に翻弄されながらも最期まで浅井の血脈を守るために行動した知性と美しさも兼ね揃えた女性であったことが分かります。 

  

彼女の三人の娘はそれぞれ戦国時代を行き抜き、新しい時代の重要な役割を担うことになるのですが、母と同じく波乱の人生をおくることになるのです。

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平賀源内(ひらがげんない)は何をした人なのか?その生涯を簡単に紹介https://koban-tenchoblog.com/hiraga-gennai/Tue, 18 Feb 2025 20:07:52 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8234

「平賀源内 何をした人~?」と聞かれると「あぁエレキテルの人ね」と答える方が多いかもしれません。    しかし源内の功績はエレキテルに留まりません。実は江戸時代において多才な人として知られ、エレキテル(摩擦で静電気を発生 ... ]]>

「平賀源内 何をした人~?」と聞かれると「あぁエレキテルの人ね」と答える方が多いかもしれません。

  

しかし源内の功績はエレキテルに留まりません。実は江戸時代において多才な人として知られ、エレキテル(摩擦で静電気を発生させる装置)の復元や寒暖計(温度計)、万歩計、燃えない布などを製造したり、戯作者、浄瑠璃作者など文化人としての作品も残している人なんです。

  

また、鉱山の発掘などもしていたので、日本のダヴィンチなどと称されることもあり、非凡な人として知られています。

  

今回はそんな源内の生涯やエピソードを、簡単に紹介しようと思います。どのような生涯を送ったのか、また源内が活躍した背景にある時代の流れを紐解いていきます。

  


平賀源内は何をした人?簡単に解説

  

前述しましたが、平賀源内は江戸時代の多才な発明家であり、本草学者であり戯作者であり、浄瑠璃作家でもあり、源内の指導で始まったとされる「源内焼」という陶器があったり、鉱山発掘などをしたりした人です。

  

また、長崎遊学中に油絵を学んでおり、その西洋画の技法を広めた人物としても知られています。

  

とても同一人物の紹介をしているとは思えませんが、これが日本のダヴィンチと言われる所以です。

  

では、その生涯をゆる~く紹介します。

  


もとは武士だったけど本草学者(薬物学者)になった?!

  

1728年 讃岐(香川県)高松藩の下級藩士のもとに生まれます。幼いころから優秀だったようで、13歳になると薬学や儒学を学びはじめます。源内の父が亡くなるとその跡を継ぎ藩の蔵番となりますが、突如長崎に遊学に出掛けそこで医学やオランダ語、油絵などを学んだといわれています。

  

しかし長崎から戻ると妹婿に家督を譲りその後江戸に出て本草学者(植物・鉱物を研究する学者)の田村藍水のもとに弟子入りし、1757年には藍水とともに全国から集めたの展示物の物産会を開催します。

  

1759年 気が付かないうちに再び高松藩の家臣になっていた源内は自由な行動ができないことに不満を抱いたのか藩を辞職してしまいます。しかし、このことで他に仕官することができなくなってしまうという重い処分が下されました。

  

そしてこの展示物の中にあった薬草や薬用植物の重要なものを選んで分類し「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)といった解説書を出版したことで、本草学者として有名になります。

  


田沼意次のブレーンだった?!

  

田沼意次は徳川家治の時代 幕府の老中としてさまざまな改革を進めた優秀な政治家として知られています。

  

意次は、源内の豊富な知識と技術力に目を付け、その発明や鉱山開発などの提案を積極的に活用しました。

  

源内は意次のブレーンとして活動していたとされ、源内の長崎遊学も意次が支援するなどしていたようです。

  

このときにオランダ人が持ち込んだ壊れたエレキテルを手に入れ、7年という歳月をかけ修理・復元をすることに成功しています。

  

源内が活躍した時代は、日本はまだ鎖国政策をしていた時代で、外部との貿易や文化交流が限られていました。

  

そんな時代に蘭書を読みながらエレキテルを復元させたというのはやはりすごい人です。

  

源内はこのエレキテルを大名屋敷で見世物として使用しますが、そのほかにも、エレキテルを何個か作ってそれをお金持ちに売っていたらしく、そのお金を生活の足しにしていたともいわれています。

  

いろいろなものを製造していたり発明していたり戯作者としても浄瑠璃作家としても活動していましたが、なぜかいつも貧乏だったそうです。

アダム
アダム

なぜ・・?

    

  

こばん店長
こばん店長

いろいろな事業に失敗して借金がたくさんあったといわれているよ~

  


天才の最後は獄中?!

   

これだけの天才が江戸時代にいたことが驚きですが、その天才の人生の最期が獄中というのも驚きです。

  

源内は大工の棟梁を殺してしまい、自首し牢獄に入ることになったのですが、その事件の発端は勘違いからだといわれています。

  

ある日、源内のもとに役人が訪れて相談を持ちかけたことから始まります。

  

それは、とある大名屋敷の工事のため、大工の棟梁に依頼し見積もりを出してもらったところ、思ったよりお金がかかって困っているといったものでした。

  

そこで源内は自分ならもっと安くできると役人に伝えると、では源内にその仕事を任せるとなったのですが、怒った大工の棟梁が乗り込んできて話がまとまらなくなってしまいました。

  

その後 源内と大工の棟梁の2人で協力して工事を請け負うことになり、酒を飲みながら棟梁に設計図を見せて安くできる理由を説明しました。

  

時間が経ち、酒に酔った源内は居眠りをしたそうです。

  

そして目が覚めると、そこに置いてあったはずの設計図がなくなっていたのに気付いて棟梁に問い詰めますが、棟梁は知らないと言い張ります。

  

激高した源内は棟梁を斬り殺してしまいました。

  

その後なくなっていたはずの設計図が部屋の中にあったことを知った源内は勘違いで棟梁を殺してしまったことに気付きます。

  

源内は自首をして牢屋に入りますが、破傷風を患い51歳で亡くなります。

  

・・と、いった話が一般的ですが、一方で田沼意次からの密書を盗んだ弟子を殺したという説もあり、真相は不明です。

  

また、源内は獄中で亡くなっているとされていますが、意次によって助け出され遠州(静岡)に逃れたという説もあります。

  

真偽不明な噂話ですが、田沼意次ならやってしまえるだろう・・と江戸の人たちは考えたのではないでしょうか。

  

以上 平賀源内の生涯をゆる~く紹介しました。

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蔦屋重三郎ってどんな人?天才たちを育てた江戸の出版王をゆる~く語るhttps://koban-tenchoblog.com/tsutaya-juzaburou/Sat, 04 Jan 2025 16:29:17 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8030

江戸の出版王としての地位を築いた人、蔦屋重三郎。    吉原の本屋の店主からスタートし、そこでの人脈を活かして様々な才能あふれる絵師や戯作者たちと関わりを持ち、その手腕により数々の優れた作品を生み出します。    蔦屋重 ... ]]>

江戸の出版王としての地位を築いた人、蔦屋重三郎。

  

吉原の本屋の店主からスタートし、そこでの人脈を活かして様々な才能あふれる絵師や戯作者たちと関わりを持ち、その手腕により数々の優れた作品を生み出します。

  

蔦屋重三郎とは、多くのスターを生み出し江戸を代表する版元「出版王」になった人物です。

  

蔦屋重三郎の簡単な年表

蔦屋重三郎の生涯をゆる~く紹介します。生まれたのは「江戸時代」8代将軍 徳川吉宗の嫡男 家重が将軍の時代です。

  

そして重三郎の全盛期ともいわれるのが家重の嫡男で10代将軍となった徳川家治の時代です。

  

家治の時代は田沼意次が老中となり、文化・経済が活発な時代でした。

  

しかし、天明の飢饉、浅間山の噴火などにより一揆が多発し、家治が亡くなると意次は失脚してしまいます。

  

この意次が失脚したことにより、重三郎の運命も大きく変わることになります。

  

  

  


蔦屋重三郎 江戸の吉原で生まれる

寛延3年1月7日 蔦屋重三郎は江戸の*吉原で丸山重助と津与との間に生まれます。

  

*この吉原は元は日本橋(東京都中央区日本橋人形町)にありましたが、明暦の大火により浅草(東京都台東区)に移転しており、重三郎が生まれたのは新吉原(浅草)の方です。

  

しかし、重三郎が7歳のときに両親が離別して蔦屋(喜多川家)の養子となりました。

  

江戸の文化と商業が融合した吉原で生まれ育った環境が、重三郎の人生、のちに出版業界での成功につながる基盤を築くことになります。

  

書店「耕書堂」をオープン

1772年 重三郎は23歳で新吉原大門口の五十間道で書店「耕書堂」を開業します。

  

義理の兄である蔦屋次郎兵衛の軒先を間借りしての小さなお店でした。鱗形屋孫兵衛が出す遊女の名前や店などを紹介する吉原のガイドブック「吉原細見」の販売代理や、貸本業を営んでいました。

  

耕書堂跡 東京都台東区千束4-11の辺り

  

「一目千本」を編集、出版

吉原の遊女たちを花に見立てて紹介する遊女評判記を編集、販売したところ、大きな話題となりました。

  

「吉原細見」を出版し大ヒット

1774年に思わぬことで転機が訪れます。鱗形屋孫兵衛が独占出版していた「吉原細見」が大坂の版元との間で訴訟問題が起き鱗形屋は一時的に出版できなくなっていました。

  

鱗形屋孫兵衛の手代が大坂の版元が出版した本を勝手に改題してしまいそれを売り出したことから処罰され「吉原細見」を出版できなくなってしまいました

  

この隙に重三郎は「吉原細見」の編集、出版に乗り出しました。

  

吉原で生まれ育った人脈から吉原の正確な情報を手に入れることができたので、次から次へと新しい情報を更新して出版することができたのです。

  

そして、重三郎は人脈だけではなく、優れた編集者としての手腕も持っていました。

  

それまでの「吉原細見」の紙面からいらない装飾などを取り除いたり、著名な文化人に挿絵を依頼するなど「見やすさ・使いやすさ」にこだわってつくられました。

  

これで瞬く間に江戸の人たちの間で話題となり大ヒットとなります。重三郎は「吉原細見」の独占販売をするようになりました。

  

蔦屋重三郎は「蔦唐丸」(つたのからまる)という狂名をもっていた

「狂歌連」という文化サロンに飛び込み、自らを蔦唐丸と名乗り売れっ子文化人との人脈をつくっていました。

  

このサロンで多才な狂歌師と出会うことで新たな書籍を生み出していくことになります。

  

「耕書堂」を日本橋へ移転させ規模を拡大

大ヒット後、重三郎は店舗を日本橋へ移し、活動をさらに活性化させます。

  

日本橋は当時の商業と文化の中心であり、規模を拡大し続ける耕書堂の礎を築き上げました。

  

耕書堂本店跡 東京都中央区日本橋大伝馬町13

  

幕府からの弾圧で財産が半分になる

田沼意次の失脚により、幕府の体制が変わり松平定信の時代になると、緊縮財政や出版物の禁止など幕府からの弾圧を受け、出版物が風紀を乱すと判断された結果、財産が半減するという処罰を受けてしまいます。

  

松平定信は将軍 徳川家斉と不仲になり失脚してしまいます 出版に関わる規制が特に厳しくなるのは定信が失脚してからのことでした

  

重三郎はこの逆境を乗り越える方法を模索し、喜多川歌麿の美人大首絵を出版するなど浮世絵に活路を見出します。また、後に世界的に有名になる「写楽」なども出版されます。

1797年「江戸患い」で48歳で亡くなる

蔦屋重三郎は1797年に48歳という若さでこの世を去ります。

  

死因は(江戸患い)と呼ばれるもので、白米を食べ続けビタミンB1が欠乏するといった、いわゆる「脚気」というものでしたが、当時は原因が特定されていないものだったので、これが原因で亡くなった方が多くいました。

  

重三郎の短い生涯にもかかわらず、浮世絵や狂歌など多くの文化を後世に残したという功績は江戸時代の文化発展にとって重要なものでした。

  

重三郎の死後もその精神と業績は「耕書堂」を託した番頭や後進の版元、出版業界また重三郎が目をかけた新進気鋭の文化人たちに受け継がれていくことになります。


蔦屋重三郎の周囲にいた天才たち

重三郎は多くの才能あふれる仲間たちと活動していました。その仲間を少しご紹介します。

  


蔦屋重三郎と浮世絵師 喜多川歌麿

重三郎は歌麿の才能を見出し、お抱えの絵師として多くの作品を世に送り出しました。

  

歌麿の美人画が大ヒットしましたが、寛政の改革により豊臣秀吉の醍醐の花見を描いたために幕府から処罰されてしまい50日間の手鎖の刑に処せられます。

  


蔦屋重三郎が育成した絵師 葛飾北斎

「富嶽三十六景」を描いた浮世絵師葛飾北斎。しかし、このこの作品は北斎が70歳を過ぎたころに描かれたもので、重三郎が亡くなった後のことでした。

  

葛飾北斎が若いころは人気がなかなか出ませんでしたが、重三郎は彼の才能を見抜き若き才能を売り出すために積極的に支持し続けました。


十返舎一九の才能を開花させた蔦屋重三郎の手腕

「東海道中膝栗毛」という大ヒット作を生み出した十返舎一九。

  

重三郎は一九を自宅に住ませながら天才を育成しました。しかし、この大ヒット作が世に出されたのは、重三郎が亡くなってから5年後のことでした。

  


戯作者・絵師 恋川春町

恋川春町もまた蔦屋重三郎に縁のある人物です。

  

この方の面白いところは、小島藩の武士でありながら、絵師・戯作者としても活動しているところです。春町は当時の風俗や世相を巧みに描き出し、その作品は重三郎の出版を通じて広まり、人気を博しました。

  

しかし寛政の改革を行っている松平定信を風刺した作品を出版してしまい、幕府から出頭命令が出されますが病気により拒否しています。

  

その年のうちに亡くなっていることから藩に迷惑がかからないようにするための自害であったといわれています。


蔦屋重三郎の盟友 戯作者・浮世絵師 山東京伝

黄表紙・洒落本の第一人者で蔦屋重三郎の盟友といわれており、京伝は重三郎より11歳年下でした。

  

重三郎が版元で京伝が洒落本をつくって出版し数々の傑作を生み出しましたが、寛政の改革により風紀を乱すとのことで50日間の手鎖の刑という処罰を受けてしまいます。

  

このとき版元である重三郎も財産を半減にされるといった処罰を受けています。


吉原 松葉屋5代目瀬川という遊女

江戸吉原は、江戸の文化の発信地ともされ、花魁の髪型などはブームとなったほどでした。喜多川歌麿は遊女たちの作品を多く残しており、「青楼の画家」と称されていました。

  

蔦屋重三郎がいた時代の吉原松葉屋の5代目瀬川は1775年に盲目の高利貸しの鳥山検校に身請けされますが、この鳥山という人が不法な貸付をしたとして捕まってしまいます。

  

その後の人生は不明とされていますが、彼女を題材とした洒落本が出版されています。


蔦屋重三郎の全財産は番頭が引き継いだ

重三郎の死後、「耕書堂」は番頭の勇助に引き継がれ4代まで続きました。

  

これにより、耕書堂というブランドは続いていくことになりますが、蔦屋重三郎がいた時代の勢いはなかったといわれています。

  

蔦屋重三郎の墓所ってどこ?

日蓮宗の寺で正法寺にありましたが、関東大震災により焼失してしまい現在は石碑が建立されています。

  

正法寺 東京都台東区浅草1-1-15

  

江戸の出版王とも呼ばれた重三郎のもとに多くの人が業績を偲んで訪れるといいます。

  

重三郎の偉業を思い返しながら彼が生きた時代の文化の熱気を感じるのかもしれません。

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東海道中膝栗毛の著者、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)を簡単に紹介https://koban-tenchoblog.com/jippensha-ikku/Sat, 04 Jan 2025 14:59:59 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8095

今回は「十返舎一九って何をした人?」について簡単にお話しします。    戯作者である十返舎一九は江戸時代に「東海道中膝栗毛」を執筆した大ベストセラー作家です。    この作品は一九の代表作として広く知られ、今なお多くの人 ... ]]>

今回は「十返舎一九って何をした人?」について簡単にお話しします。

  

戯作者である十返舎一九は江戸時代に「東海道中膝栗毛」を執筆した大ベストセラー作家です。

  

この作品は一九の代表作として広く知られ、今なお多くの人に愛されています。

  

この記事では一九の生涯をゆる~く紹介し、作品が世に出るまでの道のり、そして一句のエピソードなどについてもゆる~く語ります。

  

アダム
アダム

東海道中膝栗毛って旅物語有名だよね~

  

こばん店長
こばん店長

めちゃくちゃ有名。21年にわたり執筆された大ヒット作だよ~

  

十返舎一九の生涯をゆる~く紹介

1765年 駿府(現静岡県)に町奉行所の同心の子として生まれ、本名は重田貞一(しげたさだかつ)で、通称は与七(よしち)といいました。

  

はじめは江戸に出て武家奉公をしていましたが、向いていないと思ったのか辞めてしまいます。その後一九は大坂で浄瑠璃作者として活動していながら、絵の勉強もしていたようです。

  

十返舎一九、蔦屋重三郎と出会う

1794年ころ、江戸に出てきた一九は蔦屋重三郎と出会います。

  

一九は重三郎の家に住み、耕書堂(版元)の裏方の仕事を手伝っていたようです。

  

山東京伝の滑稽本の挿絵を描いたり、耕書堂から黄表紙の「心学時計草」で挿絵を描き、戯作者としてもスタートしました。

  

戯作と挿絵を描くがなかなか売れなかった

黄表紙、洒落本など多くの作品を刊行し続けますが、意外にも一九の作品はあまり売れなかったようです。

  

一九、再び離縁となる

再びというのは、実は一九は以前、材木屋に婿入りしていてそこで離縁しています。

  

その後日本橋の後家に入り婿していましたが、この結婚も短命で終わります。

  

理由は吉原に通い過ぎたため離縁されてしまったといわれています。

  

やはり一九の結婚は波乱がつきものなのでしょうか、このことが作品にどのような影響を与えたのか気になるところです。

  

この波乱万丈な人生が創作に新たなインスピレーションになったのかもしれません。

  

この後世に出る本は、この滑稽な人生の一部が作品の数々に色濃く反映されたのではないか?とも思えてきます。

  

「東海道中膝栗毛」が大ヒットとなる

1802年 弥次喜多コンビの滑稽本「東海道中膝栗毛」が大ベストセラーになります。

  

蔦屋重三郎が亡くなって5年後に刊行され大ヒットとなったので、おそらく雲の上で重三郎は「俺の目に狂いはなかった」といった顔になっていると思います。

  

さて、この本ですが、弥次喜多というコンビが江戸を出発して伊勢まで旅をするストーリーとなっています。

  

東海道の道中に繰り広げられる物語は、人情味溢れる登場人物や、旅の道中でのさまざまな出来事を滑稽さを交えて描くことで、ただの旅行記とは一線を画し、読者を引き込み、笑いや共感を呼び起こしました。

  

また、このころは旅ブームだったこともあって、続編が刊行され続ける大ベストセラーとなり、一九の代表作となりました。

  

1831年に亡くなる

十返舎一九は1831年67歳でこの世を去ります。

  

一句は遺言で門人に袋を渡して、火葬するときには一緒に入れてほしいと頼み、門人はいわれた通り棺桶に袋を入れて火葬すると、その袋が大爆発して花火が飛び出してきたそうです。

  

なんと門人に頼んだ袋には大量の花火が入っていたようで、それに火がつき、あちらこちらに花火が飛び出してきて、集まっていた人たちを驚かせたというとんでもないエピソードがあります。

  

この話はのちに出来た創作だともいわれているようです。


十返舎一九の作品「東海道中膝栗毛」の意味とは?

東海道中膝栗毛とは、自分の足(膝)で馬のように東海道を徒歩で歩くことからつけられたといいます。江戸から伊勢までの距離は約460kmで江戸時代の人たちは14日間かかって歩きました。

  

東海道中膝栗毛の魅力とは?

十返舎一九の代表作であり、一九の才能が存分に発揮された作品で、物語の中には当時の社会や、江戸時代の人たちの姿がいきいきと描かれており、現代においても共感を呼ぶ内容となっていると思います。

  

この作品の魅力は何よりもキャラクターたちの人情味溢れるユーモアなのではないでしょうか。

  

物語の舞台である東海道は様々な情景や出会いがあり、読者はまるでその場にいるような感覚を楽しむことができます。

  

一九の筆致には洒落や独特が言い回しが散りばめられており、文章のリズムも楽しむことができます。そして何よりも弥次喜多コンビの掛け合いやキャラクターの個性がいつの時代でも愛されるのではないでしょうか。

  

そしてこの滑稽本はただの娯楽文字というだけではなく、当時の風俗や文化を伝える大切な資料ともなっています。

  

一九の作品は映画や漫画など、時代を超えても楽しめるコンテンツとして再創造されており、才能はいつまで経っても色あせることはありません。

  

その影響力の大きさは江戸時代、そしてこれからも広く受け継がれていくことになるのではないでしょうか。

こばん店長
こばん店長

以上 十返舎一九のゆる~い紹介でした

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喜多川歌麿という浮世絵師、その生涯を簡単に紹介https://koban-tenchoblog.com/utamaro/Mon, 30 Dec 2024 17:22:43 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8088

   今回は浮世絵師 喜多川歌麿の生涯を簡単にお話していきます。    江戸時代の浮世絵師として名を馳せた歌麿は特に美人画において高く評価されており、いまでも多くのファンに愛されています。    しかし、歌麿の出身地や、 ... ]]>

  

今回は浮世絵師 喜多川歌麿の生涯を簡単にお話していきます。

  

江戸時代の浮世絵師として名を馳せた歌麿は特に美人画において高く評価されており、いまでも多くのファンに愛されています。

  

しかし、歌麿の出身地や、家族のことなど詳しいことが分からない実は謎が多い人物です。そんなミステリアスな歌麿の生涯をゆる~く紹介します。

  

アダム
アダム

謎だらけでどんな人か分からないね~

  

こばん店長
こばん店長

うん 分からない

    

アダム
アダム

・・・

  


歌麿の出生地・生まれたのはいつ?

歌麿は1753年くらいに江戸か川越か京都で(江戸が有力)生まれました。

  

アダム
アダム

江戸か川越か京都のうちのどこかだったのね

  

親も兄弟も妻子の情報も分からないという謎多き人物です。

  

歌麿が生まれた時代は、江戸時代中期で、町人文化が栄えていたころです。

  

この活気ある時代背景とその後に起こる寛政の改革も歌麿の作品が世に多く出る役割を果たしたといわれています。

  

狩野派の画家 鳥山石燕(せきえん)の弟子となる

歌麿は幼少期に画家の鳥山石燕のもとで絵を学び、そのころは北川豊章と名乗って挿絵を描いていました。歌麿にとって生涯ただ一人の師といわれた人物です。

  

江戸の出版王 蔦屋重三郎との出会い

1781年 蔦屋重三郎の耕書堂から発売となった黄表紙「身貌大通神略縁起」(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)には初めて歌麿の名前で挿絵を描いています。

  

重三郎は歌麿の才能を見抜き自分の家に居候をさせて支援しました。そして耕書堂のお抱え絵師となった歌麿が多くの作品を世に送り出すという新たな道を開くことにつながったのです。

  

その後、重三郎のもとで「潮干のつと」・「百千鳥狂歌合」などの狂歌絵本を発表し続けこれが大ヒットとなります。

  

寛政の改革により狂歌絵本が出版できず

将軍徳川家治が亡くなると、重商主義政策をすすめた老中 田沼意次が失脚し、次に幕府の老中首座となった松平定信の「寛政の改革」と呼ばれる厳しい統制が行われるようになりました。

  

そして耕書堂の人気作家であった山東京伝が出した作品が洒落本禁止令に触れてしまい手鎖50日の刑に処せられると江戸の出版業界全体が委縮して勢いが急速に衰え始めます。

重三郎は浮世絵に活路を見出し歌麿に「美人画」の制作を依頼したところ、これが大ヒットとなります。それは「美人大首絵」と呼ばれるもので上半身を大きく描き、その魅力は女性の柔らかい雰囲気を描き、見事な色彩や細部にわたる緻密な描写、さらにはそのポーズや表情にあるといわれています。

  

歌麿は女性の表情や感情を巧みにキャッチして独特の雰囲気を醸し出すことができたといわれ大人気絵師となります。とくに有名なのが婦女人相十品の「ポッピンを吹く娘」、「寛政三美人」などで、歌麿の人気を不動のものにしました。

  

この「寛政三美人」は当時巷で美人と評判の三人で、富本豊雛、難波屋おきた、高島屋おひさの名前が入った美人画で歌麿の代表作の一つです。

 

歌麿、出版統制に抵抗していた?

人気絵師となった歌麿は、寛政の改革の厳しい出版統制により幕府から警戒される人物になってしまいました。

 

そして幕府からついに歌麿をターゲットにしたようなお触れが出始めます。

  

初版には絵のモデルであった三人の女性の名前が入っていた「寛政三美人」の美人画ですが、「絵に女の名をいれてはならない」とのお触れが出てしまい二版目からは名前が削られてしまいます。

  

  

しかし、歌麿は絵に名前を入れない代わりに絵に判じ絵で名前が分かるように工夫しました。

  

判じ絵とは? 絵に隠されている意味を連想して読み解くもの

  

それに対し再び「絵で名前が分かるものも禁止」とのお触れが出て、それに抵抗するように様々な工夫をして作画を続けます・・・が、しまいには歌麿といえば「大首絵」ですが、それまで禁止されてしまいます。

  

アダム
アダム

もう絵は描くなよ~といわれているような・・・

      

  

こばん店長
こばん店長

それに抵抗していた歌麿さんでした・・・

  

歌麿、幕府から罰せられてしまい54歳で亡くなる

いろいろな手段で幕府からの出版統制を逃れていましたが、ついに手鎖50日の刑に処せられてしまいます。

  

それは「太閤五妻洛東游観之図」(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)という豊臣秀吉の醍醐の花見を描いたもので、徳川の政敵であった豊臣を題材にしたことで幕府から罰せられてしまうことになります。

   

おそらくこの絵がきっかけとなりましたが、いままで歌麿が出版してきた吉原の遊女たちを描いたものや、美人画などの他、幕府の統制をかいくぐろうとする作品を出版する姿勢が風紀を乱すとの理由で幕府から処罰されたのではないかといわれています。

  

そしてこの50日間という長い拘束によって歌麿の身体と心も弱まり、その2年後の1806年に54歳で亡くなってしまいました。

  

また、こんな話もあります。そんな弱り切った歌麿の姿を見て、生きているうちに描いてほしいといって多くの仕事の依頼がくるようになり、働き過ぎて過労で亡くなったのでは?との説もあります。


江戸時代の浮世絵師として有名になった背景

歌麿が江戸時代の浮世絵師として有名になる背景には、時代の文化的興隆と歌麿自身の絵の才能、また、出版王と呼ばれる蔦屋重三郎との協力が歌麿の名声を確立する大きな要素となっているといわれています。

  

この時代は、商業が発展し、町人文化が栄えた時代で、浮世絵はその象徴的な表現方法の一つでした。

  

特に歌麿は美人画の特化によって人気を集め、その作品は多くの人に広まっていくことになりました。

  

歌麿の浮世絵に登場する女性たちの表情やポーズ、色使いの美しさ、そして絵から感情が伝わってくるような描き方に惹かれ、その人気は日本だけにとどまらず海外にも多くのファンがおり、その名を歴史に刻むこととなりました。

  

歌麿の浮世絵は今でも多くの人に魅力を感じさせ、時代を超えて愛され続けています。

  

アダム
アダム

歌麿さんは、とっても多くのファンがいる浮世絵師、ということだね

  

こばん店長
こばん店長

ざっくりいうとそんな感じ

  

こばん店長
こばん店長

以上ゆる~い 喜多川歌麿さんについての紹介でした

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葛飾北斎って?浮世絵師北斎の生涯と驚きのエピソードhttps://koban-tenchoblog.com/hokusai/Mon, 30 Dec 2024 14:54:22 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8045

葛飾北斎とは世界に名を馳せる浮世絵師として知られており、作品は日本の文化を象徴する存在で、「富嶽三十六景」は日本のパスポートのデザインにもなっています。    しかし、やはり根っからの芸術家のせいか少々変わり者だったよう ... ]]>

葛飾北斎とは世界に名を馳せる浮世絵師として知られており、作品は日本の文化を象徴する存在で、「富嶽三十六景」は日本のパスポートのデザインにもなっています。

  

しかし、やはり根っからの芸術家のせいか少々変わり者だったようで・・今回はそんな葛飾北斎の生涯と驚きのエピソードをゆる~く紹介します。

  

1760年 北斎は現在の東京都墨田区亀沢で生まれ、若いころから絵を描くことに情熱を注ぎ、19歳のころに勝川春章のところに入門し絵師として長い下積み生活が始まります。

  

この記事では、北斎の生涯やエピソードなどを紹介しながら、浮世絵師 北斎の魅力に迫っていきます。


世界に知られる浮世絵師 葛飾北斎の生涯をゆる~く紹介

葛飾北斎は東京都墨田区で生まれ、幼少期から絵を描いており、14歳のころには浮世絵版画の修行をはじめ、その後 役者絵を描く勝川春章に入門し、勝川春朗という名前で挿絵などを描いて活動していました。

  

1792年に勝川春章が亡くなると兄弟子であった勝川春好に破門に近い形で勝川一門から追い出されてしまいます。のちに大人気絵師となった北斎は、このことがなかったらここまでこられなかったと語ったといわれています。

  

1798年 破門されたあと俵屋に入り「俵屋宗理」(たわらやそうり)を名乗っていましたが、その後 独立して「北斎辰政」(ほくさい ときまさ)と名乗り、絵師 北斎としての道を進むことになります。

  

蔦屋重三郎・曲亭馬琴と出会う

江戸時代の出版王と呼ばれた蔦屋重三郎と出会い、戯作者である曲亭馬琴を紹介されたことで、馬琴の物語の挿絵を数多く描くことになります。

  

この二人は一時共同で生活するほど親しかったようですが、お互い芸術家同士なので作品に対してのこだわりが強く口論が次第にエスカレートしていき、喧嘩別れしたともいわれています。それまではたびたび版元がとりなしていたらしいのですが、とうとう双方が仲直り不可というところまできて絶縁に至ったといわれています。 

ちなみに北斎の挿絵と馬琴の読本で有名なのが「椿説弓張月」「そののゆき」があります。

   

*曲亭馬琴(戯作者) 南総里見八犬伝を執筆した人で、48歳で書き始め28年にわたって書いたとされ、65歳くらいから視力を失いかけ、やがて視力が完全に失われると息子の妻、お路(みち)の口述筆記で完成させたといわれています。

  

名所絵「富嶽三十六景」が大ヒットする

北斎が70歳を過ぎたころ名所を描いた「富嶽三十六景」が大ヒットとなります。

  

このデザインは有名なのでどこかで見たことがあると思います。新千円札をお持ちの方は裏面をご覧ください。それが北斎の浮世絵です。

*富嶽三十六景・神奈川沖波裏 

  

絵の描き方「北斎漫画」

海外でも北斎スケッチとよばれる北斎の代表作「北斎漫画」を描きます。

  

北斎漫画とは絵の手本を描いたもので数多く出版されました。それまでは門人に肉筆で絵手本を渡していましたが、門人が増えすぎたことと、多くのファンや絵を学びたい人達のために版下絵の制作に取り掛かります。

  

それにより大量に摺って出版することができました。

  

その後亡くなる少し前まで肉筆画を描き続けるようになります。

  

90歳で老衰のため亡くなる

みずから「画狂老人」といって多くの作品を描いた北斎は90歳でその生涯を閉じました。

晩年の北斎と一緒に暮らしていたのは後妻こと(ことは北斎が69歳のころ亡くなります) との間に生まれた三女 阿栄(おえい)でした。阿栄は、顎が出ていたといわれ、北斎はこの娘を「アゴ」と読んでいたらしいです。

  

また、葛飾応為として多くの美人画を描き、北斎は美人画は阿栄の方が優れているというほどだったようです。そんな阿栄ですが、絵師の南沢等明と結婚していましたが、等明の描いた作品を指して笑ったことが離縁に繋がったといわれており、それを機に実家に戻ったようです。

  

しかし北斎が亡くなって数年後に家を出たきりどこへ行ったか分からないといわれています。


葛飾北斎の驚きのエピソードを紹介

天才と呼ばれた人は多くの面白いエピソードを残してくれますが、北斎もやはりその一人でした。有名なものをご紹介します。

  

北斎は絵師としてのプライドが強かった?

ある日オランダ商館のカピタン(商館長)から2巻で1組の絵巻物の注文を受けましたが、そこに同行していた医師からも同じものの注文を受けます。

  

北斎は注文通り品物を届けますが、医師は薄給を理由に値切ってきたのでした。それを断ると、1巻だけ買うと言い出したので、北斎は怒って絵を持ち帰りました。

  

理由として、そのまま絵を売ればそのときはいいけれど、のちに異国に屈して値切って売ったとなれば日本の絵師として絵の価値が落ちてしまうといったものでした。

 

この話を聞いたオランダの商館長は北斎の絵師としてのプライドに感心して、医師が注文した絵巻物も買い取ったといいます。

  

北斎は自分で調合した薬で回復

1827年 北斎は68歳(生まれた年を1歳としています)のとき脳卒中で倒れ、一時は後遺症で筆が握れなくなります。

  

しかし北斎のすごいところは、柚子と酒をつかった薬を自ら作りそれを飲んで奇跡的に復活したというところです。

  

そして倒れた翌年には作品を出版するほどに回復してみせたのですから驚きです。

   

北斎は部屋が汚くなると引越した?!その数93回

生涯で93回も引っ越したようで、「引越し魔」と呼ばれるだけはあります。酒も煙草も食事さえ興味がなく、ただひたすら絵を描き続けました。

  

そして、お金にも執着がなく、支払いは中身をみないでお金が入った袋をそのまま渡していたそうです。

  

そんな北斎だから家の中の掃除などするわけもなく、ゴミで部屋が汚くなると引越ししたといわれています。

  

また、北斎の孫がつくる借金のためにお金がなくなり、着ている衣服はボロボロで、版元にお金を借りるといった生活をしていたようです。 

   

北斎の先妻の長女 阿美与と柳川重信との間に生まれた孫「悪魔」?!

先妻の長女阿美与(おみよ)と絵師 柳川重信の子であり北斎からみれば孫ですが、借金ばかりして、北斎からは「悪魔」と称されるほどの悪行を重ねたらしく、この孫のことでずいぶんと悩まされたといわれています。

  

そして孫が起こした事件のために名前まで変えて潜伏生活を送っていたともいわれています。

  

この潜伏生活には様々な説があって、作品が幕府の意に沿わないもの(禁止されていた作品)を出してしまい逃げていたという説や、借金取りから逃げていたとの説もあります。

  

しかしこの孫を追い払うため、晩年には毎日獅子を描いて魔除けにしたとの話もあり(長寿を願った説もあり)、相当放蕩の孫であったということが伺えます。


江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は絵だけではなく、ファッションやデザインの世界でも影響は見られ、日本のパスポートや新紙幣などで一層身近なものになって現代でも多くの人に親しまれています。

  

そんな世界中にファンを持つ北斎ですが、亡くなるときに「せめてあと5年生かしてくれたら、本当の絵描きになってみせる」といったというのですから北斎の創作意欲が最期まで凄まじいものだったことが分かるエピソードだと思います。

  

アダム
アダム

・・・・・・

  

こばん店長
こばん店長

以上 ゆる~い葛飾北斎さんの紹介でした

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田沼意次とは何をした人なのか?その生涯をゆる~く紹介https://koban-tenchoblog.com/tanuma-okitsugu/Thu, 19 Dec 2024 15:51:00 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8040

田沼意次って何をした人?と聞かれて多くの方はピンと来ないかもしれません。しかし江戸時代に重要な役割を果たした政治家なのです。今回の記事では、田沼意次の生涯や、どのような人物でありどのような影響を江戸時代の経済や文化に与え ... ]]>

田沼意次って何をした人?と聞かれて多くの方はピンと来ないかもしれません。しかし江戸時代に重要な役割を果たした政治家なのです。今回の記事では、田沼意次の生涯や、どのような人物でありどのような影響を江戸時代の経済や文化に与えたのかをゆる~く紹介します。

  

意次は老中という位に登りつめ、江戸の経済改革に尽力しました。意次の重商主義政策がもたらした影響は大きく、平和な時代の中で経済や文化が発展する礎を築きましたが・・しかし、意次の政治には彼自身の波乱万丈な人生が影を落とすことになります。

  

アダム
アダム

文化や経済を発展させた人なのね~

    

  

こばん店長
こばん店長

とんでもなく すごい人だったみたい

  

さらに、田沼意次と松平定信の二人の政治家の政策の違いにも注目し、それぞれ江戸の人々にどのような影響を与えたのか、その点も掘り下げていきます。


田沼意次とはどんな人?その生涯をゆる~く紹介

田沼意次は将軍徳川家治のときに重商主義政策を行ったことで江戸の経済と文化が栄えた時代の老中でした。しかし一方では賄賂政治を行うなど少々ダークなイメージもあり、江戸庶民からは汚職政治に対しての不満もありました。

  

こばん店長
こばん店長

幕府の収益を増やすために商人たちに特権を与える代わりに税を納めさせたんだよ~

  

田沼意次 江戸に生まれる

田沼意次は1710年に江戸で生まれました。父、田沼意行は紀伊の徳川吉宗の側近となっており吉宗が将軍になると江戸に同行しました。もともとは足軽の家柄だったといわれています。

  

吉宗の嫡男、家重の小姓となる

意次は8代将軍 徳川吉宗の嫡男である家重の小姓となりました。この家重は後に9代将軍となりますが、障害があったといわれ、体が非常に弱く周囲の人が家重の言葉を聞き取ることもできないほどだったといわれています。吉宗は家重の補佐として意次を側近としました。

  

家重の嫡男、家治の代で老中となる

1758年 意次は大名となり、1760年 家重の嫡子、家治が10代将軍になると側用人となり、その後 老中を兼任することになります。足軽の家柄から老中まで登り詰めます。

  

こばん店長
こばん店長

家重さんが家治さんに「意次を重用するように」と遺言したそうな~

  

意次の重商主義政策で江戸の経済、文化が発展

意次の重商主義政策で商業の振興を図り江戸の経済が活発化しました。このころ江戸の文化も活性化して蔦屋重三郎などがプロデュースした多様な文化人が活躍する時代となりました。

  

天明の飢饉、浅間山が噴火

天明の飢饉により各地で数万人規模の餓死者が出ます。その後追い打ちをかけるように浅間山が噴火、そのことで被害が拡大し各地で一揆が起こりました。この不安定な時代に怒りと不満が幕府の政治に対して向けられていきます。

  

1784年 嫡男の意知(おきとも)が旗本に斬られてしまう

若年寄を務めていた意次の嫡男、意知が旗本の佐野政言に江戸城内で斬りつけられ、その傷がもとで亡くなってしまいます。

  

詳しい理由は分かっていませんが、意知に賄賂を贈ったけれど役職につけてもらえなかったためとも、系図の粉飾をしようとしてトラブルになっていたともいわれていますが、本当のことは分かっていません。

  

政言は「乱心」したということで切腹になっています。

  

しかし、この時代の江戸の人々は飢饉や浅間山の噴火で米価が高騰するなど物価高で疲弊していたので、田沼政治に対して良い印象をもっていませんでした。ですから、嫡男の意知の不幸を権力者を討ち取ったとして「佐野大明神」といい讃えたともいわれています。

  

アダム
アダム

なんと・・・・

   

こばん店長
こばん店長

政言さんのお墓に花を供える人もいたそうな・・・・

  

1786年 徳川家治が亡くなり意次は失脚

嫡男が亡くなった2年後に意次の後ろ盾となっていた将軍家治が亡くなると蟄居謹慎を命じられました。

  

1788年 意次が亡くなる

1788年 意次は70歳でその生涯を閉じました。

  

田沼意次といえば賄賂政治をした老中という悪い印象がありますが、最近では政治手腕が再評価され、以前とは違う人物像だったのではないのかとの見方もでてきています。

  

そもそもにおいて江戸時代においては賄賂というものは「必要悪」とされていたものだったようで、どうしてここまで悪いイメージがついてしまったのかというと、政敵による印象操作だったのではないか?との意見が多いようです。

  


松平定信の「寛政の改革」で江戸の人の怒りが爆発?!

意次が亡くなり、松平定信が幕府の老中首座となり「寛政の改革」に着手します。

  

定信が行った改革は緊縮財政、綱紀粛正といったもので、江戸の人々が楽しみにしている出版物にまで規制がかけられるようになってしまい江戸の人々の不満を引き起こします。

  

徹底的な贅沢の禁止、風紀を是正しようとする定信の方針で商業活動や江戸の経済に影響を及ぼし人々の怒りが爆発する結果となります。

  

意次の重商主義の時代とは対照的な展開となりました。結局定信は就任してから6年で失脚することになります。

  

松平定信による厳しい統制に民衆の不満が高まったり、将軍 徳川家斉と不仲になったことで失脚してしまいます。不仲の理由は様々ありますが、家斉が実父に「大御所」の尊号を贈ろうとしたところ、定信に反対されたことなどが理由の一つといわれています。

  

*ちなみに出版に対してより厳しく統制されるようになったのは、定信が失脚した後の寛政5年からといわれています。

  

アダム
アダム

江戸の人達たちは、意次さんの賄賂政治を嫌がっていなかったっけ?

   

こばん店長
こばん店長

清廉潔白な人でも厳しすぎると嫌がられたんだね~・・

  

白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼恋しき

  

と江戸の人たちにこんな狂歌を詠まれました。

*白河・・ 白河藩主 松平定信のこと(御三卿 田安家)

  

アダム
アダム

賄賂政治で汚職まみれでも田沼さんがよかったわ~・・てこと?

  

こばん店長
こばん店長

だいたいそんな感じ・・

  

松平定信の時代の将軍は11代 徳川家斉でした。

  

  

将軍としての在位期間は1787年から1837年の50年間で、多くの側室がいて55人の子女がいることでも知られています。

  

  

その50年もの間、政治に対して無関心で大奥で豪華な生活を送っていたため幕府財政を窮乏させた将軍としても知られています。

  

  

各地で相次ぐ反乱や一揆など、この時代から幕府の権威は失墜し始め幕府の崩壊を招いた将軍ともいわれています。

   


意次の政策は江戸の文化と経済両方を繁栄させましたが、商人たちに恩恵を与えた一方で賄賂や不正も横行し、権力の乱用が疑われ、評価については賛否が分かれています。

  

しかし、近年では意次の改革の意義を見直し、歴史的な観点から見るとこの時代における江戸の繁栄には欠かせない存在だったとして再評価する方向にあります。

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宇宙からの贈り物 櫛池隕石落下公園 パワースポットの魅力https://koban-tenchoblog.com/kushiike-inseki/Fri, 29 Nov 2024 09:16:53 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=7997

      1920年9月16日にここにあった水田に隕石が落下しました。       新潟県上越市にある「櫛池隕石落下公園 」は、ただ公園の風景を楽しむだけではなく、宇宙の神秘にも触れることができる特別な場所として知られ ... ]]>

1920年9月16日よく晴れた日の夕方5時半過ぎに櫛池村上中條の水田に隕石が落下しました。

  

  

  

南から北に飛行機の爆音のような音響が空を走り一筋の光を見せ、黒い煙を引きながら、ゴォーという落下音を響かせて、ついには櫛池川の西側、上中條の水田にものすごい音をたてて、何かが落下しました。

  

  

  

水煙が約9mの高さに舞い、水蒸気が立ちのぼり、村じゅうが大騒ぎとなりました。

  

  

  

これが櫛池に隕石が落下したときの目撃情報です。

  

  

1920年9月16日にここにあった水田に隕石が落下しました。

  

  

新潟県上越市にある「櫛池隕石落下公園 」は、ただ公園の風景を楽しむだけではなく、宇宙の神秘にも触れることができる特別な場所として知られています。隕石や流れ星に関する知識を深めながら宇宙からのパワーを感じることのできる、まさに一石二鳥のスポットです。

  

  

隕石落下の歴史や天文好きな方、宇宙の神秘が好きな方にもたっぷりご紹介します。

  


パワースポットとしての櫛池隕石落下公園

新潟県で隕石といえば、燕市吉田地区の水田に落下した米納津隕石と上越市清里区のこちらも水田に落下した櫛池隕石があります。

  

  

米納津隕石は国立科学博物館にあり、櫛池隕石は上越市『清里星のふるさと館』で展示されているので天文がお好きな方は近くで観察することができます。

  

  

櫛池隕石落下公園は新潟県上越市清里区にあり、隕石落下地点を見ることができます。

  

  

隕石は宇宙からの贈り物であり、天から降ってきたものでとても尊い物と考えられていて、その隕石を祀り落下地点にはお宮が建立されているところもあります。

  

  

やはり宇宙からのパワーを感じられるどこか不思議な力があるのでしょうか。

  

  


櫛池隕石の魅力とその大きさについて

米納津隕石が31キロ、櫛池隕石は約4キロほどの大きさですが、ゴォォォォ~っという落下音を響かせ落下した際には水煙が約9mの高さだったということで村中が大騒ぎとなったそうです。

  

  

その後近隣の県からも見学に訪れたりとしばらくはこの話題で村は騒然としていたようです。なんといっても地球外からの贈り物なので宇宙の神秘を感じます。

  

  

櫛池隕石の大きさは、たて16センチ、横幅約13センチ、高さ約9センチ、重さは4キロで色は黒褐色、種類はコンドライトとのことです。しかし4キロの重さのものが空から降ってきたことを考えると少々恐ろしさも感じます。

  


隕石の購入方法

国立科学博物館ミュージアムショップ、その他の博物館のミュージアムショップを見てみると隕石、特大、大、中、小といったサイズがあり本物の隕石が3000円以内で販売されていました。

  

  

地球外物質がこんなに簡単に購入できるのもすごいです。しかもお安いもので600円のものもあります。実際隕石を持つとパワーが出る、リラックスできるなどいろいろな効果があるような話もあります(ブログ主はもっていませんが)。

  

  

宇宙の神秘がお好きな方でもし興味がある方がいらっしゃいましたら博物館の公式ホームページからご覧ください(お好きな博物館をお選びください)。

  

  

こういった話を聞くと途端に宇宙の神秘というものがなくなってしまう恐れがありますが、天文好きの方はこの一節は読み飛ばしてください。

  


隕石落下の歴史と今後の可能性について考察

隕石落下の歴史は古く、これまでにもいくつかの隕石が地球に接触してきました。

  

  

恐竜を絶滅させたという6600万年前の小惑星や、記憶にまだ残っているのは、2013年にロシアのチェリャビンスク隕石ではないでしょうか。大気圏に突入する前は直径が17mほどで、重さは1万トンといわれていますが、この隕石の衝突により多数の負傷者が出ています。

  

  

これだけ大きな隕石が落下するのはめずらしいですが、隕石自体はけっこうな頻度(1年に何千個)で落下しているらしいのです。しかし大体が、人里離れた山の中や海に落下するので見つからないそうです。

  

  

しかし上越市清里区にある櫛池隕石は目撃情報も多く、落下地点まで分かります。

  

  

しかも本物の隕石が新潟県上越市清里区「星のふるさと館」で展示されているので興味のある方はぜひ近くで観察してみてください。 

  


櫛池隕石落下公園と星のふるさと館の基本情報

上越市にある星のふるさと館にはプラネタリウムがあって四季折々の星座を楽しむことができます。夏になると夜間観望会が開かれているので、星のふるさと館公式HPをチェックしてみてください。

  

  

また、新潟県最大の口径65cmの反射望遠鏡があり、肉眼では見ることができない星を観測できます。

  

  

櫛池隕石落下公園から車で10分ほど(5.7km)の場所にあります。

  


櫛池隕石落下公園の住所

住所 新潟県上越市清里区上中條 櫛池隕石落下公園

  

櫛池隕石の落下地点は上越市の中心から離れた場所にあるため、車でのお出掛けをおすすめします。

  

上越市清里「星のふるさと館」の住所・開館時間・開館期間

   

住所 新潟県上越市清里区青柳3436-2

電話番号 025-528-7237

開館時間 10時~17時

開館期間 4月1日~11月30日

休館日 火曜日(祝日の場合翌日)・夏休み期間中はなし、12月1日~3月31日まで休館

  

バスの便もあることはありますが、降りてから歩くことになるのでオススメしません。自家用車かレンタカーをオススメします。

  

  

アダム
アダム

以上、櫛池隕石落下公園のパワースポットの魅力でした~

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将軍家茂、大坂城を出発し伏見奉行屋敷へ その6https://koban-tenchoblog.com/osaka-omote-fushimi-edition/Tue, 19 Nov 2024 12:43:33 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=7959

文久4年の1月に将軍 徳川家茂が二度目に上洛した際の高田藩士が書いた日記があります。    先回1月8日に将軍家茂が大坂城に無事に御入城され”恐悦至極”と喜んでいました。そして将軍警護について格別に注意をして警護をするよ ... ]]>

文久4年の1月に将軍 徳川家茂が二度目に上洛した際の高田藩士が書いた日記があります。

  

先回1月8日に将軍家茂が大坂城に無事に御入城され”恐悦至極”と喜んでいました。そして将軍警護について格別に注意をして警護をするようにとの指示があったところです。

   

今回の記事は、家茂が大坂城を出発して伏見奉行所に移動する場面の日記です。

  

虫食いや折り目などで判読できない文字は?となっています

  

訳に関しては、間違っている箇所を訂正、修正したりする場合があります

  

時間に関しては江戸時代の時刻換算サイトを使用(不定時法)しています

  

翻刻文の縦書きを横書きにして訳しています

  


将軍家茂の警護について高田藩の御触れの写し

家茂は文久3年12月27日に江戸を出発し、軍艦翔鶴丸に乗船し、文久4年1月8日に大坂城へ入りました。

  

そして高田藩は、家茂が1月14日に大坂を出発して伏見へ到着、伏見から二条城まで御先供(先頭の供)することになり、それについての御触れ書きがまわったようです。 

    

同日御触れの写し

  

公方様 来る14日大坂表へ御発輿につき、

殿様(榊原政敬)明日の13日 暁七ツ時(午前3時50分くらい)御供揃(供を揃えること)に出発

  

  

お供のものは刻限を見計らって混雑のないように出立すること

   

  

右の↑御触れは大老中お達しにつき、このことを承知しておくように 以上

  

  

正月13日 御目付中

追啓 枚方御昼 伏見で泊り このことを承知しておくように 以上

   

アダム
アダム

枚方でお昼~、伏見で泊り~ワクワク

  

こばん店長
こばん店長

将軍家茂さんの警護だからね

  

公方様 来る14日伏見へ御着きになったときに(高田藩は)淀小橋 伏見今留橋 御旅館の裏通りのお固めを仰せ付けられたので、

右 ↑ 御行列帳と伏見駅より二条城まで御先供の御行列帳を今日中に御目付方で読んでおくように

  

  

正月12日

  

  

右 ↑ の御触れが廻ってきた

  

家茂が伏見に到着したときに高田藩は淀小橋、今留橋、御旅館の裏通りの警護、15日に伏見から二条城まで御先供をすることになったので、御行列帳(帳面にまとめられた本)を御目付部屋の竹尾半蔵の部屋で読んでおくようにといった内容の御触れ書きです。

  

同13日 快晴

  

  

殿様 暁七ツ時(午前3時50分頃)御供揃にてご出発された

  

  

枚方お昼、伏見駅 藤之森西岸寺御本陣

  

1月13日 高田藩主 榊原政敬が御先登のため、家茂が出発する1日前の朝4時頃出発します。伏見駅 藤之森西岸寺を御本陣としたようです。

  

アダム
アダム

朝の4時って早いよね~

    

こばん店長
こばん店長

まだ、真っ暗だったんじゃないかな~

  

家茂、大坂城を出発し伏見奉行屋敷へ

  

同14日 雨 同宿逗留 御触れの通り

  

  

淀小橋へ伊藤八郎御一手(隊) 御組頭

  

  

榊原左近様、竹内酒造之丞様右

  

  

御組下 兵士20人 御物頭 今井新左衛門様、原田権之進様、村上休兵衛様も御発宿

  

  

鈴木喜太夫様御目付

  

  

竹尾半蔵様そのほか懸り諸役人は着御(将軍家茂の到着)につき淀小橋までお出迎え、それより、歩行固め(警護)にて伏見今留橋まで、中根善次郎様御一手、江戸定府の平士

伊藤様の人数同様、今留橋の警護より伊藤隊と交替、それより中根隊の旅館まで歩行固め

旅館裏通りには御前隊がお固め

  

  

同日夜五ツ時(19時15分頃)伏見奉行屋敷へ(家茂が)お着きになられた

  

1月14日 雨が降っていたようで、それぞれの隊が宿を出発し、警護に向かいます。

  

家茂が大坂を出発し淀川を通り伏見に到着した際に高田藩は淀小橋、伏見今留橋、旅館裏通りを歩行固め(警護)をしました。

  

家茂は大坂を出発して夜の19時15分頃に伏見奉行屋敷に到着したようです。

    

高田藩士、将軍の顔を見ることができた?!

   

殿様(榊原政敬)はすぐにご機嫌伺い(様子や安否を尋ねること)に参られた

  

  

一、淀小橋白川端通り彦根様御人数ご家老一手(隊) 伊藤一手お固め 

  

  

伊藤八郎様馬上にて船を二丁ほど(約220m)見計らい先供(先頭に立ち供をすること)

  

  

彦根(彦根藩・井伊家)御人数 御跡供(行列の後に従う供のこと)

  

  

拙者は今井新左衛門附きにて淀小橋へ参った 伏見より淀小橋まで五拾丁(約5.4km)

  

  

一、御軍船に(将軍家茂が)おいでになるところ、伏見駅橋際で下座していたところ、恐れながらお顔を拝すことができた

  

家茂は大坂を出発して船で淀川を通り伏見に到着しました。

  

この大坂から伏見の間の船は上りで12時間ほどかかったといわれています。家茂が伏見奉行屋敷に到着するとすぐに榊原政敬は御機嫌伺いに向かいました。

  

この「ぼくの上洛日記」を書いた高田藩士は伏見の橋際で、恐れながら家茂のお顔を見ることができたといっています。

  

だいたい、将軍が江戸城から外に出るという機会は少なく、家茂は三代将軍 家光以来229年ぶりの上洛で、今まで地方に住む藩士が将軍の姿を見ることができる機会はなかったので、思い出に残る日になったと思います。

  

しかし下座(平伏)していたとあるので、姿を確認できたくらいだったのでしょうか。 

  

伏見を出発し二条城へ

  

同15日 快晴

  

  

公方様 暁六ツ半時(朝7時10分くらい)御供揃いにて御発輿(出発)された

  

  

殿様暁六ツ時(朝6時15分くらい)御供揃にて御発駕された 御行列で京都二条城まで御先登された

  

1月15日 朝7時頃 家茂は伏見を出発し、二条城に向かいます。

  

榊原政敬は朝6時頃御供揃いで出発し、京都二条城まで御先登しました。

  

榊原家は徳川四天王の一人榊原康政以来 代々徳川家の御先手(先陣)なので幕末のこのころも先陣を勤めています。

  

こばん店長
こばん店長

つづく

  

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