こばん店長ブログhttps://koban-tenchoblog.com歴史(高田藩 榊原家中心)をゆる~く紹介Sun, 18 May 2025 13:46:22 +0000jahourly1https://koban-tenchoblog.com/wp-content/uploads/2022/10/cropped-ファビコン2-32x32.jpgこばん店長ブログhttps://koban-tenchoblog.com3232 東福門院和子・徳川将軍家から後水尾天皇に入内した姫君https://koban-tenchoblog.com/tofukumonin/Sun, 18 May 2025 13:46:15 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8440

東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)は、将軍 徳川秀忠の五女として生まれ、和子が14歳になると後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内します。     幕府と朝廷との間をとりもつための結婚でしたが、次第に両者の確執 ... ]]>

東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)は、将軍 徳川秀忠の五女として生まれ、和子が14歳になると後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内します。

   

幕府と朝廷との間をとりもつための結婚でしたが、次第に両者の確執が熾烈になり、和子は多難な人生を歩むことになります。

  

今回は東福門院和子についてゆる~くご紹介します。

  


将軍 徳川秀忠の五女として江戸城で生まれる

和子は1607年、江戸城で二代将軍 徳川秀忠とお江(浅井長政とお市の三女)との間に生まれました(生母はお江ではなく、栖吉城主の本庄清七郎の娘 妙徳院との説有り)。

  

秀忠の父である家康は、孫娘を天皇に嫁がせ、朝廷の内部に影響力をもつため天皇家の外戚となる計画を立てていました。

  

ですから和子は、生まれながらにして天皇に入内するという特別な任務を背負っていたのです。

  

  

このときの時代背景は、江戸幕府の初期のころで朝廷と幕府の関係が不安定だったため、両者の関係をつなぐために、和子の存在は政治的にも大きな意味をもつものだったのです。

  


和子、やっと後水尾天皇に嫁ぐことになった?!

女御入内が決定したのは1614年でしたが、大坂冬の陣、夏の陣があり、その後家康が亡くなり、後陽成院までも崩御されたため、和子の入内は延期されました。

  

ようやく入内が決定したと思ったら、後水尾天皇が女官の四辻与津子を寵愛し、すでに皇子と皇女が誕生していました。これに秀忠は激怒し、母子と近臣たちを追放させるという事件が起こりました。

  

1620年 結婚前から前途多難ですが、ようやく和子は14歳で後水尾天皇に入内することになります。

  

和子
和子

これからが大変・・・

 


和子の江戸~京都の花嫁行列が豪華だった?!

将軍家から天皇家に嫁ぐということで、総費用は60万石ともいわれ、幕府の威信をかけた豪華な行列になり、さらに和子は1万石の化粧料も持参していました。

  

和子
和子

御所に運び込まれた花嫁道具が約380荷もあって大変だったの・・

      

  

アダム
アダム

中身が気になる・・・

  

江戸から旧東海道を通り、20日間かけて二条城に到着。そして二条城から御所に向かいました。

  

「東福門院入内図屏風」といって、二条城から御所に向かう花嫁行列の豪華な様子を描いた屏風があり、当時の華やかな様子を伺い知ることができます。

  


実は和子は朝廷で歓迎された花嫁ではなかった?!

幕府は、和子が入内する前に「禁中並公家諸法度」を出し、朝廷や公家に対して監視を強めていました。

  

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、幕府が天皇、朝廷、公家などの行動を規制し統制するために出した規則

  

そんな中で幕府から送り込まれた和子を歓迎する空気はありませんでした。

    

和子
和子

中和門院様(天皇の母)だけはお優しかったわ

  

  

アダム
アダム

よかった よかった

  


和子、中宮となる

1623年に興子内親王が誕生すると、和子は中宮となります。その後二人の皇子・複数の皇女が誕生しますが、二人の皇子は夭逝してしまいます。 

  

    

さて、先にも述べましたが、幕府が出した「禁中並公家諸法度」という朝廷や公家たちにとって圧力を強めていた時期に、江戸から送り込まれた和子に対して朝廷の女官たちも良い感情はもっていませんでした。

  

アダム
アダム

やっぱり江戸から来た将軍の娘さんだから、朝廷の女官さんたちにとってはねぇ・・・

  

  

こばん店長
こばん店長

ねぇ・・

   

  

アダム
アダム

それでど~したの?

  

  

和子
和子

幕府の財力を使いました~

    

  

アダム
アダム

分かりやすい

    

  

和子
和子

具体的には、着物を贈ったりしていろいろな方に気を配ったの

      

和子は、京都の呉服商*「雁金屋」に頼み豪華な小袖をたくさん注文しました。1着50万~100万もする小袖を毎月仕立てて、それを女官たちに下賜していました。

  

和子は芸術センスに優れ、和子の注文した大胆な模様のデザインは「寛文小袖」とよばれ大流行しました。

  

また、和子によって江戸小袖の着用が宮中に広がるようになったといわれています。

    

*雁金屋 尾形光琳(おがたこうりん)の実家 尾形家は浅井長政の家来筋だったといわれる

  


「紫衣事件」が起こり、和子の苦難はつづく

またしても幕府と朝廷との間に大きな確執が生まれてしまう事件が起こります。

  

幕府が出していた紫衣の授与の規制がありましたが、後水尾天皇が慣例のとおり僧侶に紫衣の着用の勅許を与えたことに対し、三代将軍家光が紫衣の勅許の取り消し、無効にするという挙に出ます。

  

また、幕府からは春日局(三代将軍 家光の乳母)が上洛し、無位無官であったにも関わらず後水尾天皇に謁見の申し出をするという度重なる無礼な態度に対して後水尾天皇はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまい幕府に無断で譲位してしまいます。

  

後継の天皇は7歳の興子内親王に決まり、明正天皇(めいしょうてんのう)として即位することになります。しかし、女性天皇は独身を通す決まりなので、徳川の血を引く天皇を即位させることができなくなりました。

  

後水尾天皇が退位したことにより、和子は東福門院の院号宣下を受けました。

  

その後、後水尾天皇は院政を行い和子は後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)の三代の養母となり、生涯にわたり幕府と朝廷の関係を取り持っていくという気遣いの多い人生を送った女性だったといわれています。

  

そして、1678年 72歳で亡くなると、皇室と縁の深い泉涌寺に葬られました。

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徳川秀忠の正室お江とは?波乱万丈の生涯をわかりやすく解説!https://koban-tenchoblog.com/ogo/Tue, 13 May 2025 19:44:58 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8432

お江は、1573年 近江国(現在の滋賀県)で生まれました。父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市の方です。お江には、茶々(のちの秀吉の側室、淀殿)や初(京極高次の正室)という姉たちがいて、激動の戦国時代を生きた三姉妹として ... ]]>

戦国のプリンセス誕生!お江、近江国で生まれる

お江は、1573年 近江国(現在の滋賀県)で生まれました。父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市の方です。お江には、茶々(のちの秀吉の側室、淀殿)や初(京極高次の正室)という姉たちがいて、激動の戦国時代を生きた三姉妹として知られています。

  

生まれてすぐに父は母の兄である織田信長との戦いに敗れ自刃してしまいます。その後、母や姉たちとともに信長に保護され、織田家で育てられます。

  


母。お市の方が再婚!新しい父は誰?

お江は、母と姉たちとともに伊勢上野で暮らしていましたが、本能寺の変が起き伯父の信長が討たれると、母・お市の方が信長の家臣 柴田勝家に再嫁することになります。

  

   

母、お市の方が自害!お江、秀吉に保護される

しかし、勝家は対立していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に賤ケ岳の戦いで敗れると、勝家の居城 北ノ庄城でお市の方とともに自害してしまいます。

  

その後三姉妹は敵将、羽柴秀吉に保護されることになりました。

     


最初の結婚!佐治一成と夫婦になるも・・・?

さっそく秀吉は三姉妹を政略結婚のコマとして利用します。

  

12歳になったお江は尾張国知多郡(現 愛知県)の大野城主 佐治一成に嫁がされますが、秀吉と敵対したために数カ月で離縁させられます。

   


お江、再婚!秀吉の甥の羽柴秀勝と結婚するも・・・

その後、秀吉の甥である秀勝に嫁ぎますが、「文禄の役」で病死してしまいます。その秀勝の没後に生まれた子が完子です。完子は、姉・茶々に引き取られた後 九条家に嫁ぎ、多くの子を設け、浅井家の血脈が現在の皇室に繋がっています。

    


運命の出会い?徳川家康の息子・秀忠と結婚!

お江は、またまた再嫁することになります。今度は、徳川家康の三男でお江より6歳年下の秀忠の正室となり、千姫、家光、忠長など二男五女をもうけます。

  

秀忠はお江には頭があがらず、正式な側室はもたなかったといわれています。

    

アダム
アダム

たしかに怖そうなイメージだ

    

こばん店長
こばん店長

うん・・

  

1600年 関ケ原の戦いのあと、徳川家康は実質的な天下人となり征夷大将軍に任命されます。家康は、江戸に幕府を開き秀忠は徳川の二代将軍になります。

  


未来の将軍・家光誕生!お江、母として奮闘

お江は後の三代将軍となる家光を出産(諸説あります 春日局が生んだ説も有り)しています。徳川代々の将軍の正室のなかで、将軍の生母になったのはお江だけでした。

  

しかし、家光の将軍継承には様々な問題があったようで、お江は弟の忠長を将軍にとの思いがあったのか春日局と対立していたといわれていますが、真相は不明です。

  

最終的には家康の「長子相続」(長男が相続すること)との決定により、家光が3代将軍となりました。

  


実をいうと五女の東福門院和子はお江が生んでいない?!

東福門院とは、秀忠とお江の五女の和子(まさこ)のことで、後水尾天皇に入内し、興子内親王を生み、明正天皇として即位しています。

  

しかし、新潟県長岡市蔵王にある金峯(きんぷ)神社には、東福門院和子の生母は栖吉城主の本庄清七郎の娘の妙徳院で、秀忠が亡くなると、蔵王に住んだと伝わっています。     

  

アダム
アダム

あら・・

    

こばん店長
こばん店長

表向きは側室はいなかったといわれているけどね・・

  

  


秀忠には保科正之という庶子もいた

保科正之(ほしなまさゆき)は、秀忠と浄光院(秀忠の乳母に仕えていた)の子で三代将軍 家光の異母弟といわれています。

 

*正之は、会津松平家の祖であり、徳川将軍家に忠義を重んじる家訓を定めたことで、幕末の動乱期に会津藩主 松平容保が最後までその遺訓を守ったことで知られています。

  

正室のお江の嫉妬が恐かったのか浄光院と正之の存在は隠され、江戸城の外で養育されました。

  

正之は信州高遠城主 保科正光の養子となり、養父が亡くなると高遠藩主となります。

  

秀忠は最後まで正之の父子であるとの名乗りもしませんでした。

  

こばん店長
こばん店長

秀忠さんが亡くなる前にお江さんは亡くなっているので、嫉妬とは関係ないみたい

  

秀忠が亡くなり、弟が優秀あることを知っていた家光によって、出羽国山形藩20万石に移り、その後会津藩23万石の初代藩主となりました。

    

アダム
アダム

正之さんが秀忠さんの息子なのは知ってたよ~

  

  

こばん店長
こばん店長

保科正之さんの方は有名だよね~

    

  


江戸城で人生の幕を閉じる・・お江の最期とは?!

1626年 お江は江戸城の西の丸で死去します。54歳の激動の生涯でした。

  

戦後になり、徳川家墓所の調査が行われ、お江は小柄で華奢な女性であったことが分かっています。

  

そして、もう一つ、増上寺に眠る徳川家の中で荼毘に付されたのはお江だけでした。

  

毒を飲まされたため証拠隠滅のため火葬にされたのではないかとの噂話もあるようです(本人の遺言との説もあり)。  

  

アダム
アダム

犯人は・・え~春・・

  

  

こばん店長
こばん店長

ななななんてことをいうんだ いや でも・・・

  

お江が江戸城で亡くなったときには、夫の秀忠と息子たちは上京中で留守だったので、お江の臨終の際にはいませんでした。ですから、この噂も真実味が高いように思えます。

  

こばん店長
こばん店長

以上 波乱万丈のお江さんの生涯でした~

  

  

アダム
アダム

たしかに

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徳川最後の将軍!徳川慶喜は逃げた愚かな将軍だったのか?!https://koban-tenchoblog.com/tokugawa-yoshinobu/Thu, 01 May 2025 20:41:07 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8402

幕末にペリーが日本にやってきて強引に開国を迫ります。その外国との交渉において今までのような幕府政治をやっていてはダメだと考える人が増えてきました(倒幕派)。       が、これに対して幕府主導で政治を行うべきだとの考え ... ]]>

幕末にペリーが日本にやってきて強引に開国を迫ります。その外国との交渉において今までのような幕府政治をやっていてはダメだと考える人が増えてきました(倒幕派)。

  

  

が、これに対して幕府主導で政治を行うべきだとの考えもありました(佐幕派)。

  

  

この両者の考えの違いが戊辰戦争へと繋がっていきました。

  

  

今回は徳川最後の将軍 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)がなぜ京都の鳥羽・伏見の戦いの後、大坂城から逃げたのかについてです。

  

   

アダム
アダム

徳川慶喜さんというとあの大坂城から逃げた将軍・・・?

      

    

こばん店長
こばん店長

う~ん・・慶喜さんについては見る人によって人物像が大きく変わると思うんだよね~知らないけど・・・

     

  

アダム
アダム

知らないけどって何~?!

    

  

こばん店長
こばん店長

文末に「知らないけど」を付けると責任を回避できるよ~

  


徳川最後の将軍、慶喜は逃げた愚かな将軍だったのか?!

ときは幕末の京都 鳥羽・伏見において、旧幕府側と新政府側(*薩長)との間に起こった戦いで、新政府側が勝利しました。

  

*薩(薩摩藩・現 鹿児島県)長(長州藩・現 山口県)

  

  

鳥羽・伏見の戦いのあと、大坂城から脱出して江戸に軍艦で逃げたのが徳川慶喜です。

  

  

まず、15代将軍 徳川慶喜は幼少期からとても利発で、稀に見る智謀に長けた人物で将軍たる資質をもっていたといわれていました。

  

  

しかも幕末の混乱期にあの薩摩藩主 島津斉彬(しまづなりあきら)が慶喜を14代将軍にするべく躍起になって動いた人物だったことから、ただの愚か者という線はなさそうです。

  

アダム
アダム

こばんちゃん、島津斉彬さん大好きだもんね~

  

  

こばん店長
こばん店長

うん

    

  

しかし、慶喜は新政府軍との戦いを徹底的に避けて大坂から江戸に軍艦で逃げ帰った「腰抜けの愚かな将軍」とまでいわれた人物です。

  

  

こばん店長
こばん店長

明治維新についてゆるく語っているよ~

  

  

  

これについては、なぜ逃げなければならなかったのか?そして幕臣にさえ本心を明かさず大坂城を出たのはなぜだったのか?

  

  


将軍慶喜が江戸に逃げたのはなぜなのか?!

戊辰戦争から長い時間が経った今もなお「慶喜は逃げた愚かな将軍」とイメージする方も多いと思います。

  

  

鳥羽・伏見の戦いにおいて数では有利だったのに敗戦となってしまい戦意を失った慶喜は家臣を置いて逃げた「裏切り」と解釈する方や、慶喜は水戸藩出身なので強い尊王思想があり、朝敵となるのを恐れた「腰抜け」という説が有名だと思います。

  

アダム
アダム

朝敵になりたくなかったってよく聞くよね

  

    

  

こばん店長
こばん店長

それもあると思う 慶喜さんは水戸の出身で本当の尊王の方だからね~

  

  

しかし、慶喜はあるときを境に戦いを徹底的に避けるようになります。

  

  

御所に向けて発砲したことで長州藩が朝敵になった

第一次長州征伐は、長州藩が御所に向けて発砲したことにより、朝廷が激怒して長州藩は朝敵となり追討令が出されました。

  

  

第一次長州征伐のときは、征長総督は徳川慶勝で、参謀の西郷隆盛が総攻撃の前に独断で長州藩と講和したことで長州藩は降伏します。

  

  

戦いの前に西郷は長州藩を「潰せ」と厳命していたのにも関わらず、幕臣の勝海舟との会談のあと長州藩を擁護するような姿勢をとったため、慶喜との仲は急激に悪化したといわれています。

  

  

  

薩摩、イギリスの支援を受ける

第二次長州征伐は薩摩は最初から戦いには不参加でした。というのも、戦いの前の慶応2年1月には薩長同盟が締結しており、薩摩がイギリスから洋式武器を密輸入してその武器が長州に渡っていました

  

こばん店長
こばん店長

ここなのよ~ 外国の支援を受けた!というのが最大のポイントになるよ~

    

  

アダム
アダム

不穏な感じするね

    

  

なぜ倒幕が必要だったのかについてはこちらをご覧ください。

  

  

長州の洋式の武器と幕府側の指揮命令系統の乱れから第二次長州征伐は圧倒的な数の幕府軍が長州に大敗を喫します。

  

  

第二次長州征伐になると、幕府側でも反対派の意見が多くなって足並みが揃わなかった点も敗戦に繋がったのだと思います。

  

  

ただ、薩摩と長州がイギリスの支援を受けている(薩摩藩は生麦事件のあとからイギリスと急接近しています)ということは大いに憂慮すべき事態だったと思います。今でいうと反政府勢力が外国の支援を受けているようなものです。

  

  

慶喜が薩長同盟に気付いたのはいつだったのでしょうか。

   

  

徳川慶喜が大政奉還したのはなぜだったのか?

第二次長州征伐は将軍家茂が大坂城で病で亡くなったため幕府軍は総崩れとなり、幕府からの働きかけで朝廷から長州征伐中止の勅命が下りました。

  

   

その後、今まで幕府側の最大の庇護者であった孝明天皇が崩御すると、薩摩・長州は倒幕の勅許を得ることに成功します。

 

  

そして討幕派が慶喜に対し、政権を返さないと武力攻撃をする!といってきますが、大政奉還をしてその大義名分をなくしてしまいます

  

  

天皇中心の新政府樹立で慶喜が主導権を握るまでの間、討幕派に倒幕のための口実を与えないように慶喜は爆発間際の幕府を必死で抑えていました。

  

  

が、慶喜に主導権を与えたくない西郷と大久保らは、江戸市内(現 東京)で 〇人や、強盗などのテロ活動を行い、わざと幕府を怒らせて薩摩藩邸を焼き討ちにさせてしまうといったことが起きます。

  

  

慶喜が絶対に避けたかった戦い、どうしても武力で幕府を倒したい討幕派に戦いの口実を与えてしまったのです。

   


なぜ慶喜はそこまで戦いを避けたのか?!

まず、日本の国難、外交の危機という非常なときに国内で争っているときではない、というのが慶喜の考えだったと思います。

  

  

先述しましたが、薩摩と長州の戦いにはイギリスが最大の支援をしていました。

  

  

国内で内乱が起きると民は疲弊し、国力は低下してしまいます。そんなとき外国から攻められたらあっという間に植民地になります。

 

  

これについて、外国は攻めてくるはずがなかった、という方もいますが、外国は開国を求めにきて、開国をしないのなら大砲で江戸を総攻撃すると脅していた人達です。

  

  

また、イギリスについてもアロー号事件により清国は半ば植民地になっていることからも「外国は攻めてはこない」というのは楽観視し過ぎな話です。

  

  

*アロー号事件 広州湾(中国)でイギリス国旗を掲げるアロー号を臨検し乗組員を逮捕したことにより、イギリス側が侮辱行為だとして広東市街を砲撃し、イギリスとフランスの連合軍は北京を占領した事件のこと

  

話は戻りまして、慶喜の考えはこのような情勢で国内で争っている場合ではないと考えたはずです。

  

  

しかし、徹底的に避けていた戦いが始まってしまいました。幕府側には江戸における薩摩の乱暴狼藉には耐えるようにと厳命していましたが、ついに堪忍袋の緒が切れてしまい幕軍が動き出してしまいました。

  


慶喜は内戦をもっとも恐れた?!

慶喜は新政府軍との戦いにおいて、戦いが拡大して全国規模の内戦になるというのを一番恐れたのではないかと思うのです。

  

  

万が一将軍である慶喜が討たれたり徹底抗戦を呼びかけた場合は全国の恭順といっていた藩も戦いに参加してまさに国を二分する長い内乱の恐れがありました。

  

  

あの勝海舟でさえ、慶喜が討たれたら戦うと言っていたくらいですから日本国中がそんな状態になっていたと想像できます。

  

  

朝廷より、薩摩・長州よりも国のトップとして諸外国の情報を持っていた慶喜が欧米列強の脅威を感じた結果、何よりも『国家を優先』し内戦を回避したのではないでしょうか。

  

  

幕臣の中にはフランスの軍事支援を受け徹底抗戦をするべきだとの意見もありましたが、そうなると、日本の国内でイギリス対フランスといった代理戦争に突入してしまう危険性が出てきてしまいます。 

  

  

慶喜がフランスからの軍事支援を断っていることからも幕府の存続より誰よりも第一に国家を考えていた人物といえるのではないでしょうか。

  

  

武士として戦って討たれた方がはるかに本望という時代に『朝敵』の汚名を着せられ『逃げた将軍』などという屈辱に耐えなければならない道を選んだのです。

  

  


幕臣にも黙って大坂城を出たのはなぜか?!

これについては、薩長に対して怒りが収まらない幕臣たちの中で、もし慶喜がこれから私は江戸に帰り上野の寛永寺で謹慎しますなどと宣言などしようものなら、柱にでもくくりつけられそうな勢いで止められたのではないでしょうか。

  

  

だから気づかれないように江戸に逃げたのかもしれません。

   

  

こばん店長
こばん店長

知らないけど

   

  

アダム
アダム

ま~なんてこと言うんでしょ

    

   

なぜ慶喜は大坂城から逃げたのかについてですが、次の3つの説が有力のようです。慶喜はどれだったと思いますか?

  

①鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗戦となったことで、戦意を失った説

  

②新政府軍がもつ錦の御旗を見て、慶喜は朝敵となるのを恐れた説

  

③イギリスの支援を受けている薩長に対し、戦いを長引かせると内戦が拡大し、その後植民地となることを恐れた説 

  

旧幕府側を支持している方はおそらく①か②ではないでしょうか。そして、新政府側を支持している方も①か②ではないでしょうか。

  

  

アダム
アダム

つまり、裏切り者で腰抜けで内戦を避けたすごい人ということ?

  

  

こばん店長
こばん店長

だから見る人によって印象が変わる人なんだってば~

  

以上、慶喜はなぜ大坂城から逃げたのか?についてでした。

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ねね(高台院)とは?豊臣秀吉を支えた正妻の生涯https://koban-tenchoblog.com/nene/Tue, 11 Mar 2025 17:50:53 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8258

1548年頃(諸説あります)尾張国朝日村(現在の愛知県)に生まれました。名前は「おね」や「ねね」と呼ばれていました。    寧々の父は信長に仕える杉原定利、母は朝日殿とされています。    寧々は性格は温厚でしたが、しっ ... ]]>

寧々(ねね)、尾張に生まれる

1548年頃(諸説あります)尾張国朝日村(現在の愛知県)に生まれました。名前は「おね」や「ねね」と呼ばれていました。

  

寧々の父は信長に仕える杉原定利、母は朝日殿とされています。

  

寧々は性格は温厚でしたが、しっかりもので気が強く、声も大きかったと伝わります。秀吉との喧嘩では周囲に人がいても大声で尾張弁丸出しで怒鳴り合っていたらしく、高い身分になってもそれは変わらなかったといわれています。


秀吉と当時は珍しい恋愛結婚

  

1561年 寧々が14歳、秀吉が25歳のときに二人は結婚します。

  

秀吉は農民の出身でしたが、織田信長に仕えて出世を目指していました。

  

当時の武士の結婚は家同士のつながりが大変重要視されていた時代なので、恋愛結婚というのは珍しいことでした。

  

寧々の母は「身分の差」から結婚には大反対だったのですが、寧々は周囲の反対を押し切り結婚することを決意します。しかし二人の結婚式は藁を敷いて ”ござ” をひろげ盃を交わしただけのとても質素なものだったようです。

  


信長と寧々のエピソード

秀吉は出世するにつれて、多くの女性を側室に迎えるようになりました。そんなある日 なんと秀吉の主君である織田信長に夫の浮気について相談したといわれています。

  

信長から「あのはげ鼠、許せない あの猿(秀吉)にねねはもったいない しかしそなたももっと奥方らしくどっしりと構えているように」といった手紙をもらう驚きのエピソードもあります。

  

そして信長は秀吉をたしなめたといわれており、寧々は誰であっても自分の考えを伝えることのできた女性であったことが分かります。

  

アダム
アダム

はげ鼠って・・・

    

こばん店長
こばん店長

猿も相当ひどい

  


秀吉と寧々長浜城に入城する

  

1574年 秀吉が信長の家臣として活躍し、近江 長浜城主になると寧々もそこに移り住みます。

  

長浜城は現在の滋賀県にあり琵琶湖のそばに立つ美しいお城でした。

  

秀吉は遠征でいないことが多かったのですが、城主の妻として家臣や町の人々の生活を支えました。

  

秀吉が町人の年貢を厳しく取り立てようとしたときに、寧々が大反対して白紙になったといわれ、政治面でも秀吉を支えていたようです。

  

多くの領民に慕われ、城の中でも家臣の妻たちをまとめたりして、秀吉が戦に出掛けている間、寧々が城を守っていたといわれています。

  

面倒見のいい寧々は、縁戚だった加藤清正、福島正則らを子供のころに引き取って豊臣恩顧の優秀な武将に育てあげています。

  


本能寺の変が起きて秀吉の母と逃げる

1582年の本能寺の変で明智の兵に狙われていましたが、寧々は秀吉の母らとともに伊吹山麓の寺に身を隠し、難を逃れました。

  

秀吉の母「なか」も寧々も高い身分になっても飾るところがなかったといわれ、二人は気が合っていたのか嫁と姑の仲は良かったといわれています

  


秀吉がとうとう天下人に!大坂城に入る

本能寺の変の後、秀吉は明智光秀を倒すと勢力を拡大し1583年 とうとう天下人に昇りつめます。

  

秀吉が築いた大坂城に寧々も移り住みますが、多くの側室も大坂城で一緒に生活をしていました。

  

寧々は信長に対して秀吉の女癖の悪さを相談するくらいなので心中は穏やかではなかったと思いますが、秀吉の正室として出世を陰で支えてきた賢妻は平静を保ちながら豊臣家を支え続けます。

  

1585年 秀吉は関白となり、寧々は「北政所」と称されるようになります。寧々は朝廷と豊臣家との交流を深めるために挨拶や贈り物などの外交面での役目も果たしていたようです。

  


長年支えた秀吉が亡くなる

   

1598年 寧々が長年支えてきた秀吉が62歳で亡くなってしまいます。

  

秀吉が亡くなると、秀頼(秀吉と茶々の息子)を護るため実母の茶々(淀殿)が大坂城に入り発言権を持つようになります。

  

  


寧々、大坂城 西の丸を家康に明け渡す

    

1599年 関ケ原の戦いを前にして、大阪城西の丸を家康に明け渡し京に移りました。

  

関ケ原の戦いの後、秀頼の母である茶々(淀殿)に豊臣家の存続のため、家康に従うように促しますが失敗に終わります。

  


寧々は落飾して高台院となる

1603年 寧々は落飾して高台院と号します。

  

1605年 京都東山に高台寺を建立して秀吉の菩提を弔いました。

  


豊臣家の滅亡を見届けることに

いよいよ豊臣方と徳川方との戦が避けられない状況になってきたころ、寧々は大阪城にいる淀殿の説得に動きだそうとしますが、それを察知した家康により、動きを封じられてしまいます。

  

家康にしてみれば豊臣を倒す絶好の機会なので、淀殿への説得はむしろ「余計なこと」です。

 

寧々は豊臣恩顧の大名たちには「実の母」のように慕われており、寧々の発言によっては徳川方から離反する者たちが出るほどの影響力をもっていました。

  

それほど寧々は家康からみれば「危険な存在」でした。

  

1615年 大坂夏の陣で大阪城が落城 淀殿と秀頼は自刃

    

寧々は高台寺の高台から燃え盛る大坂城を見ていたといわれ、秀吉と築き上げた豊臣家の滅亡を見届けることになってしまいました。

  

それから9年後の1624年 寧々は生涯を閉じました。

  


秀吉の正室、寧々とは?

寧々は秀吉の正室として支え続けた賢妻で、あの家康も一目置いたといわれた女性でした。

  

秀吉も彼女を最も頼りにしていたようで、軍事面、政治面についての重要なことも大坂城にいる寧々に書状を書いて送っていました。

  

次の天下人は徳川だと感じとっていたので、淀殿に豊臣家の存続のため、家康に従うように促していたことからも、寧々は政治的センスに優れ、時代の変化を感じ取り冷静に先を読むことができた人物だったのではないでしょうか。

  

秀吉と寧々に嫡男がいた場合「徳川幕府」というものは誕生していなかったといわれるほど賢い妻といわれ、また多くの人に愛された天下人の妻でした。

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戦国一の美女・お市の方の生涯!信長の妹が歩んだ運命と悲劇とは?https://koban-tenchoblog.com/oichi/Thu, 06 Mar 2025 18:12:46 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8252

戦国時代でひときわ美しい女性として知られているのが「お市の方」です。彼女は織田信長の妹として1547年に生まれ 1583年に自刃、戦乱の中で波乱の人生を閉じました。今回は、お市の方の生涯をわかりやすく紹介します。    ... ]]>

戦国時代でひときわ美しい女性として知られているのが「お市の方」です。彼女は織田信長の妹として1547年に生まれ 1583年に自刃、戦乱の中で波乱の人生を閉じました。今回は、お市の方の生涯をわかりやすく紹介します。

  


戦国一の美女・お市の方とは?

お市の方は、歴史上の女性の中でも「戦国一の美女」と称されるほどの美しさを持っていました。

  

彼女はただ美しいだけでなく、賢く、武将たちの間でもその才智が高く評価されていたといいます。

  


織田信長の妹として生まれたお市の方

お市の方の父は織田信秀、母は土田御前(つちだごぜん)で、同母兄の信長とは13歳離れていました。幼いころから教養を身につけ聡明な女性へと成長しました。

  

お市は兄である信長と兄妹仲が良かったといわれ、お市の美貌と知性を生かし信長の天下取りの一環として重要な役割を果たすことになります。

  

1560年 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、天下取りに名乗りをあげた信長は上洛を考え1564年(1567年説もあり)北近江の浅井長政と同盟を結びます。

  

この同盟という名の政略結婚こそ、お市の重要な役割でした。

  


お市の方、浅井長政へ嫁ぐ

お市は18歳(いろいろな説があり)で北近江の戦国大名 浅井長政へ嫁ぎます。この結婚は織田家と浅井家の同盟の証としたものでしたが、夫婦仲は円満で三人の娘をもうけています。

  

しかし、この同盟は長くは続きませんでした。

  


お市の方の三人の娘、浅井三姉妹とは?

お市には三人の娘がいました。この三人が浅井三姉妹といわれ、茶々(淀殿)、初、お江です。

  

・茶々(淀殿) 豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生んでいます

・初 京極高次の妻で大坂の陣では豊臣方と徳川方の和議に奔走します

・お江(ごう) 二代将軍になる徳川秀忠の正室になります

  

お市の娘三人も戦国の世を生き抜き、歴史上の重要な人物となりました

  


浅井が同盟破棄!?お市の方と三人の娘の運命が動きだす!

1570年 織田信長と同盟を結んでいた長政でしたが、信長が朝倉氏を攻めると朝倉氏と手を結び信長を挟み撃ちにしようとします。

  

ここで有名なのが、兄信長に対して袋の両方の端を結んだ小豆を陣中見舞いとして届け「織田軍が袋のネズミ」であるといった危険を知らせた話です(後世の創作ともいわれる)

  

  

お市と長政は夫婦仲もよかったのですが、なぜ夫を裏切るようなことをしたのかというと、戦国時代の女性たちは、政略結婚により実家から嫁ぎ先に密偵のような役目を負い送り込まれているので、嫁ぎ先よりも実家に重きをおいて行動していたためです

  

  

これにより信長はギリギリで京に逃げ帰ることができたといわれています

  

この裏切りにより信長は大激怒し浅井・朝倉を攻めることになります。

  

   


実家に戻る!織田家での生活

1573年、信長は朝倉氏を攻め滅ぼすと、つぎに浅井の小谷城を取り囲みます。

  

お市は夫 長政とともに自刃しようとしますが、長政から「浅井の血を絶やさないでほしい」との願いから三人の娘とともに織田家にもどることになりました。

  

このときに長政は自刃し、浅井家は滅亡しました。お市が27歳のときのことです。

  


本能寺の変!兄の織田信長が討たれる

   

お市と三人の娘たちは信長の庇護のもと伊勢上野で暮らしていましたが、1582年 本能寺の変が起こり信長が討ち死にしたことにより、お市は再び戦乱の世に巻き込まれることになってしまいます。

  

兄 織田信長がいなくなったことによって戦国の勢力図も大きく変わってしまったためでした。

  


柴田勝家と再婚!お市の新たな人生

歴史上で美女といわれた方は波乱の人生を送る人が多く、お市もそういった人でした。 

    

信長が亡くなると、信長の後継をめぐり柴田勝家(織田家の重臣)と豊臣秀吉が対立することになります。

  

1582年 お市の甥(信長の三男)信孝から柴田勝家との再婚を勧められ承諾することになりました。

  

勝家は信長の忠臣であり、お市や三人の娘も大切にしたといわれています。しかし、この再婚は長くは続きませんでした。

  


勝家と自刃!お市の最期

豊臣秀吉が勢力を強め、1583年 北近江の賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで勝家は秀吉に敗れてしまいます。勝家はお市に居城の北ノ庄城から逃れるように説得しますが、それを退け自刃する道を選びます。

  

お市は二度の落城を経験するなど波乱に満ちた37年の生涯となりました。

  

ただ、娘の三人には浅井の血を絶やさないようにとの遺言をして秀吉のもとに送り出したといわれています。

  


お市の方とは?

お市は、戦国の世に翻弄されながらも最期まで浅井の血脈を守るために行動した女性であったことが分かります。 

  

彼女の三人の娘はそれぞれ戦国時代を行き抜き、新しい時代の重要な役割を担うことになるのですが、母と同じく波乱の人生をおくることになるのです。

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平賀源内(ひらがげんない)は何をした人なのか?その生涯を簡単に紹介https://koban-tenchoblog.com/hiraga-gennai/Tue, 18 Feb 2025 20:07:52 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8234

「平賀源内 何をした人~?」と聞かれると「あぁエレキテルの人ね」と答える方が多いかもしれません。    しかし源内の功績はエレキテルに留まりません。実は江戸時代において多才な人として知られ、エレキテル(摩擦で静電気を発生 ... ]]>

「平賀源内 何をした人~?」と聞かれると「あぁエレキテルの人ね」と答える方が多いかもしれません。

  

しかし源内の功績はエレキテルに留まりません。実は江戸時代において多才な人として知られ、エレキテル(摩擦で静電気を発生させる装置)の復元や寒暖計(温度計)、万歩計、燃えない布などを製造したり、戯作者、浄瑠璃作者など文化人としての作品も残している人なんです。

  

また、鉱山の発掘などもしていたので、日本のダヴィンチなどと称されることもあり、非凡な人として知られています。

  

今回はそんな源内の生涯やエピソードを、簡単に紹介しようと思います。どのような生涯を送ったのか、また源内が活躍した背景にある時代の流れを紐解いていきます。

  


平賀源内は何をした人?簡単に解説

  

前述しましたが、平賀源内は江戸時代の多才な発明家であり、本草学者であり戯作者であり、浄瑠璃作家でもあり、源内の指導で始まったとされる「源内焼」という陶器があったり、鉱山発掘などをしたりした人です。

  

また、長崎遊学中に油絵を学んでおり、その西洋画の技法を広めた人物としても知られています。

  

とても同一人物の紹介をしているとは思えませんが、これが日本のダヴィンチと言われる所以です。

  

では、その生涯をゆる~く紹介します。

  


もとは武士だったけど本草学者(薬物学者)になった?!

  

1728年 讃岐(香川県)高松藩の下級藩士のもとに生まれます。幼いころから優秀だったようで、13歳になると薬学や儒学を学びはじめます。源内の父が亡くなるとその跡を継ぎ藩の蔵番となりますが、突如長崎に遊学に出掛けそこで医学やオランダ語、油絵などを学んだといわれています。

  

しかし長崎から戻ると妹婿に家督を譲りその後江戸に出て本草学者(植物・鉱物を研究する学者)の田村藍水のもとに弟子入りし、1757年には藍水とともに全国から集めたの展示物の物産会を開催します。

  

1759年 気が付かないうちに再び高松藩の家臣になっていた源内は自由な行動ができないことに不満を抱いたのか藩を辞職してしまいます。しかし、このことで他に仕官することができなくなってしまうという重い処分が下されました。

  

そしてこの展示物の中にあった薬草や薬用植物の重要なものを選んで分類し「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)といった解説書を出版したことで、本草学者として有名になります。

  


田沼意次のブレーンだった?!

  

田沼意次は徳川家治の時代 幕府の老中としてさまざまな改革を進めた優秀な政治家として知られています。

  

意次は、源内の豊富な知識と技術力に目を付け、その発明や鉱山開発などの提案を積極的に活用しました。

  

源内は意次のブレーンとして活動していたとされ、源内の長崎遊学も意次が支援するなどしていたようです。

  

このときにオランダ人が持ち込んだ壊れたエレキテルを手に入れ、7年という歳月をかけ修理・復元をすることに成功しています。

  

源内が活躍した時代は、日本はまだ鎖国政策をしていた時代で、外部との貿易や文化交流が限られていました。

  

そんな時代に蘭書を読みながらエレキテルを復元させたというのはやはりすごい人です。

  

源内はこのエレキテルを大名屋敷で見世物として使用しますが、そのほかにも、エレキテルを何個か作ってそれをお金持ちに売っていたらしく、そのお金を生活の足しにしていたともいわれています。

  

いろいろなものを製造していたり発明していたり戯作者としても浄瑠璃作家としても活動していましたが、なぜかいつも貧乏だったそうです。

アダム
アダム

なぜ・・?

    

  

こばん店長
こばん店長

いろいろな事業に失敗して借金がたくさんあったといわれているよ~

  


源内の最期は獄中?!

   

これだけの天才が江戸時代にいたことが驚きですが、その天才の人生の最期が獄中というのも驚きです。

  

源内は大工の棟梁を殺してしまい、自首し牢獄に入ることになったのですが、その事件の発端は勘違いからだといわれています。

  

ある日、源内のもとに役人が訪れて相談を持ちかけたことから始まります。

  

それは、とある大名屋敷の工事のため、大工の棟梁に依頼し見積もりを出してもらったところ、思ったよりお金がかかって困っているといったものでした。

  

そこで源内は自分ならもっと安くできると役人に伝えると、では源内にその仕事を任せるとなったのですが、怒った大工の棟梁が乗り込んできて話がまとまらなくなってしまいました。

  

その後 源内と大工の棟梁の2人で協力して工事を請け負うことになり、酒を飲みながら棟梁に設計図を見せて安くできる理由を説明しました。

  

時間が経ち、酒に酔った源内は居眠りをしたそうです。

  

そして目が覚めると、そこに置いてあったはずの設計図がなくなっていたのに気付いて棟梁に問い詰めますが、棟梁は知らないと言い張ります。

  

激高した源内は棟梁を斬り殺してしまいました。

  

その後なくなっていたはずの設計図が部屋の中にあったことを知った源内は勘違いで棟梁を殺してしまったことに気付きます。

  

源内は自首をして牢屋に入りますが、破傷風を患い51歳で亡くなります。

  

・・と、いった話が一般的ですが、一方で田沼意次からの密書を盗んだ弟子を殺したという説もあり、真相は不明です。

  

また、源内は獄中で亡くなっているとされていますが、意次によって助け出され遠州(静岡)に逃れたという説もあります。

  

真偽不明な噂話ですが、田沼意次ならやってしまえるだろう・・と江戸の人たちは考えたのではないでしょうか。

  

以上 平賀源内の生涯をゆる~く紹介しました。

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蔦屋重三郎ってどんな人?天才たちを育てた江戸の出版王をゆる~く語るhttps://koban-tenchoblog.com/tsutaya-juzaburou/Sat, 04 Jan 2025 16:29:17 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8030

江戸の出版王としての地位を築いた人、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。    吉原の本屋の店主からスタートし、そこでの人脈を活かして様々な才能あふれる絵師や戯作者たちと関わりを持ち、その手腕により数々の優れた作品を生み ... ]]>

江戸の出版王としての地位を築いた人、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。

  

吉原の本屋の店主からスタートし、そこでの人脈を活かして様々な才能あふれる絵師や戯作者たちと関わりを持ち、その手腕により数々の優れた作品を生み出します。

  

蔦屋重三郎とは、多くのスターを生み出し江戸を代表する版元「出版王」になった人物です。

  

蔦屋重三郎の簡単な年表

蔦屋重三郎の生涯をゆる~く紹介します。生まれたのは「江戸時代」8代将軍 徳川吉宗の嫡男 家重が将軍の時代です。

  

そして蔦重の全盛期ともいわれるのが家重の嫡男で10代将軍となった徳川家治の時代です。

  

家治の時代は田沼意次が老中となり、文化・経済が活発な時代でした。

  

しかし、天明の飢饉、浅間山の噴火などにより一揆が多発し、家治が亡くなると意次は失脚してしまいます。

  

この意次が失脚したことにより、蔦重の運命も大きく変わることになります。

  

  

  


蔦屋重三郎 江戸の吉原で生まれる

寛延3年1月7日 蔦屋重三郎は江戸の*吉原で丸山重助と津与との間に生まれます。

  

*この吉原は元は日本橋(東京都中央区日本橋人形町)にありましたが、明暦の大火により浅草(東京都台東区)に移転しており、重三郎が生まれたのは新吉原(浅草)の方です。

  

しかし、蔦重が7歳のときに両親が離別して蔦屋(喜多川家)の養子となりました。

  

江戸の文化と商業が融合した吉原で生まれ育った環境が、蔦重の人生、のちに出版業界での成功につながる基盤を築くことになります。

  

書店「耕書堂」をオープン

1772年 蔦重は23歳で新吉原大門口の五十間道で書店「耕書堂」を開業します。

  

義理の兄である蔦屋次郎兵衛の軒先を間借りしての小さなお店でした。鱗形屋孫兵衛が出す遊女の名前や店などを紹介する吉原のガイドブック「吉原細見」の販売代理や、貸本業を営んでいました。

  

耕書堂跡 東京都台東区千束4-11の辺り

  

「一目千本」を編集、出版

吉原の遊女たちを花に見立てて紹介する遊女評判記を編集、販売したところ、大きな話題となりました。

  

「吉原細見」を出版し大ヒット

1774年に思わぬことで転機が訪れます。鱗形屋孫兵衛が独占出版していた「吉原細見」が大坂の版元との間で訴訟問題が起き鱗形屋は一時的に出版できなくなっていました。

  

鱗形屋孫兵衛の手代が大坂の版元が出版した本を勝手に改題してしまいそれを売り出したことから処罰され「吉原細見」を出版できなくなってしまいました

  

この隙に蔦重は「吉原細見」の編集、出版に乗り出しました。

  

吉原で生まれ育った人脈から吉原の正確な情報を手に入れることができたので、次から次へと新しい情報を更新して出版することができたのです。

  

そして、蔦重は人脈だけではなく、優れた編集者としての手腕も持っていました。

  

それまでの「吉原細見」の紙面からいらない装飾などを取り除いたり、著名な文化人に挿絵を依頼するなど「見やすさ・使いやすさ」にこだわってつくられました。

  

これで瞬く間に江戸の人たちの間で話題となり大ヒットとなります。蔦重は「吉原細見」の独占販売をするようになりました。

  

蔦屋重三郎は「蔦唐丸」(つたのからまる)という狂名をもっていた

「狂歌連」という文化サロンに飛び込み、自らを蔦唐丸と名乗り売れっ子文化人との人脈をつくっていました。

  

このサロンで多才な狂歌師と出会うことで新たな書籍を生み出していくことになります。

  

「耕書堂」を日本橋へ移転させ規模を拡大

大ヒット後、蔦重は店舗を日本橋へ移し、活動をさらに活性化させます。

  

日本橋は当時の商業と文化の中心であり、規模を拡大し続ける耕書堂の礎を築き上げました。

  

耕書堂本店跡 東京都中央区日本橋大伝馬町13

  

蔦重、幕府からの弾圧で財産が半分になる

田沼意次の失脚により、幕府の体制が変わり松平定信の時代になると、緊縮財政や出版物の禁止など幕府からの弾圧を受け、出版物が風紀を乱すと判断された結果、財産が半減するという処罰を受けてしまいます。

  

松平定信は将軍 徳川家斉と不仲になり失脚してしまいます 出版に関わる規制が特に厳しくなるのは定信が失脚してからのことでした

  

蔦重はこの逆境を乗り越える方法を模索し、喜多川歌麿の美人大首絵を出版するなど浮世絵に活路を見出します。また、後に世界的に有名になる「写楽」なども出版されます。

1797年「江戸患い」で48歳で亡くなる

蔦重は1797年に48歳という若さでこの世を去ります。

  

死因は(江戸患い)と呼ばれるもので、白米を食べ続けビタミンB1が欠乏するといった、いわゆる「脚気」というものでしたが、当時は原因が特定されていないものだったので、これが原因で亡くなった方が多くいました。

  

蔦重の短い生涯にもかかわらず、浮世絵や狂歌など多くの文化を後世に残したという功績は江戸時代の文化発展にとって重要なものでした。

  

蔦重の死後もその精神と業績は「耕書堂」を託した番頭や後進の版元、出版業界また蔦重が目をかけた新進気鋭の文化人たちに受け継がれていくことになります。


蔦屋重三郎の周囲にいた天才たち

蔦重は多くの才能あふれる仲間たちと活動していました。その仲間を少しご紹介します。

  


蔦屋重三郎と浮世絵師 喜多川歌麿

蔦重は歌麿の才能を見出し、お抱えの絵師として多くの作品を世に送り出しました。

  

歌麿の美人画が大ヒットしましたが、寛政の改革により豊臣秀吉の醍醐の花見を描いたために幕府から処罰されてしまい50日間の手鎖の刑に処せられます。

  


蔦屋重三郎が育成した絵師 葛飾北斎

「富嶽三十六景」を描いた浮世絵師葛飾北斎。しかし、このこの作品は北斎が70歳を過ぎたころに描かれたもので、蔦重が亡くなった後のことでした。

  

葛飾北斎が若いころは人気がなかなか出ませんでしたが、蔦重は彼の才能を見抜き若き才能を売り出すために積極的に支持し続けました。


十返舎一九の才能を開花させた蔦屋重三郎の手腕

「東海道中膝栗毛」という大ヒット作を生み出した十返舎一九。

  

蔦重は一九を自宅に住ませながら天才を育成しました。しかし、この大ヒット作が世に出されたのは、蔦重が亡くなってから5年後のことでした。

  


戯作者・絵師 恋川春町

恋川春町もまた蔦屋重三郎に縁のある人物です。

  

この方の面白いところは、小島藩の武士でありながら、絵師・戯作者としても活動しているところです。春町は当時の風俗や世相を巧みに描き出し、その作品は重三郎の出版を通じて広まり、人気を博しました。

  

しかし寛政の改革を行っている松平定信を風刺した作品を出版してしまい、幕府から出頭命令が出されますが病気により拒否しています。

  

その年のうちに亡くなっていることから藩に迷惑がかからないようにするための自害であったといわれています。


蔦屋重三郎の盟友 戯作者・浮世絵師 山東京伝

黄表紙・洒落本の第一人者で蔦屋重三郎の盟友といわれており、京伝は蔦重より11歳年下でした。

  

蔦重が版元で京伝が洒落本をつくって出版し数々の傑作を生み出しましたが、寛政の改革により風紀を乱すとのことで50日間の手鎖の刑という処罰を受けてしまいます。

  

このとき版元である蔦重も財産を半減にされるといった処罰を受けています。


吉原 松葉屋5代目瀬川という遊女

江戸吉原は、江戸の文化の発信地ともされ、花魁の髪型などはブームとなったほどでした。喜多川歌麿は遊女たちの作品を多く残しており、「青楼の画家」と称されていました。

  

蔦屋重三郎がいた時代の吉原松葉屋の5代目瀬川は1775年に盲目の高利貸しの鳥山検校に身請けされますが、この鳥山という人が不法な貸付をしたとして捕まってしまいます。

  

その後の人生は不明とされていますが、彼女を題材とした洒落本が出版されています。


蔦屋重三郎の全財産は番頭が引き継いだ

蔦重の死後、「耕書堂」は番頭の勇助に引き継がれ4代まで続きました。

  

これにより、耕書堂というブランドは続いていくことになりますが、蔦重がいた時代の勢いはなかったといわれています。

  

蔦屋重三郎の墓所ってどこ?

日蓮宗の寺で正法寺にありましたが、関東大震災により焼失してしまい現在は石碑が建立されています。

  

正法寺 東京都台東区浅草1-1-15

  

江戸の出版王とも呼ばれた蔦重のもとに多くの人が業績を偲んで訪れるといいます。

  

蔦重の偉業を思い返しながら彼が生きた時代の文化の熱気を感じるのかもしれません。

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東海道中膝栗毛の著者、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)を簡単に紹介https://koban-tenchoblog.com/jippensha-ikku/Sat, 04 Jan 2025 14:59:59 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8095

今回は「十返舎一九って何をした人?」について簡単にお話しします。    戯作者である十返舎一九は江戸時代に「東海道中膝栗毛」を執筆した大ベストセラー作家です。    この作品は一九の代表作として広く知られ、今なお多くの人 ... ]]>

今回は「十返舎一九って何をした人?」について簡単にお話しします。

  

戯作者である十返舎一九は江戸時代に「東海道中膝栗毛」を執筆した大ベストセラー作家です。

  

この作品は一九の代表作として広く知られ、今なお多くの人に愛されています。

  

この記事では一九の生涯をゆる~く紹介し、作品が世に出るまでの道のり、そして一句のエピソードなどについてもゆる~く語ります。

  

アダム
アダム

東海道中膝栗毛って旅物語有名だよね~

  

こばん店長
こばん店長

めちゃくちゃ有名。21年にわたり執筆された大ヒット作だよ~

  


十返舎一九の生涯をゆる~く紹介

1765年 駿府(現静岡県)に町奉行所の同心の子として生まれ、本名は重田貞一(しげたさだかつ)で、通称は与七(よしち)といいました。

  

はじめは江戸に出て武家奉公をしていましたが、向いていないと思ったのか辞めてしまいます。その後一九は大坂で浄瑠璃作者として活動していながら、絵の勉強もしていたようです。

  

十返舎一九、蔦屋重三郎と出会う

1794年ころ、江戸に出てきた一九は蔦屋重三郎と出会います。

  

一九は蔦重の家に住み、耕書堂(版元)の裏方の仕事を手伝っていたようです。

  

山東京伝の滑稽本の挿絵を描いたり、耕書堂から黄表紙の「心学時計草」で挿絵を描き、戯作者としてもスタートしました。

  

一九、戯作と挿絵を描くがなかなか売れなかった

黄表紙、洒落本など多くの作品を刊行し続けますが、意外にも一九の作品はあまり売れなかったようです。

  

一九、再び離縁となる

再びというのは、実は一九は以前、材木屋に婿入りしていてそこで離縁しています。

  

その後日本橋の後家に入り婿していましたが、この結婚も短命で終わります。

  

理由は吉原に通い過ぎたため離縁されてしまったといわれています。

  

やはり一九の結婚は波乱がつきものなのでしょうか、このことが作品にどのような影響を与えたのか気になるところです。

  

この波乱万丈な人生が創作に新たなインスピレーションになったのかもしれません。

  

この後世に出る本は、この滑稽な人生の一部が作品の数々に色濃く反映されたのではないか?とも思えてきます。

  

「東海道中膝栗毛」が大ヒットとなる

1802年 弥次喜多コンビの滑稽本「東海道中膝栗毛」が大ベストセラーになります。

  

蔦屋重三郎が亡くなって5年後に刊行され大ヒットとなったので、おそらく雲の上で蔦重は「俺の目に狂いはなかった」といった顔になっていると思います。

  

さて、この本ですが、弥次喜多というコンビが江戸を出発して伊勢まで旅をするストーリーとなっています。

  

東海道の道中に繰り広げられる物語は、人情味溢れる登場人物や、旅の道中でのさまざまな出来事を滑稽さを交えて描くことで、ただの旅行記とは一線を画し、読者を引き込み、笑いや共感を呼び起こしました。

  

また、このころは旅ブームだったこともあって、続編が刊行され続ける大ベストセラーとなり、一九の代表作となりました。

  

十返舎一九、自分の葬儀で花火が爆発

一九は1831年67歳でこの世を去ります。

  

一句は遺言で門人に袋を渡して、火葬するときには一緒に入れてほしいと頼み、門人はいわれた通り棺桶に袋を入れて火葬すると、その袋が大爆発して花火が飛び出してきたそうです。

  

なんと門人に頼んだ袋には大量の花火が入っていたようで、それに火がつき、あちらこちらに花火が飛び出してきて、集まっていた人たちを驚かせたというとんでもないエピソードがあります。

  

この話はのちに出来た創作だともいわれているようです。


十返舎一九の作品「東海道中膝栗毛」の意味とは?

東海道中膝栗毛とは、自分の足(膝)で馬のように東海道を徒歩で歩くことからつけられたといいます。江戸から伊勢までの距離は約460kmで江戸時代の人たちは14日間かかって歩きました。

  

東海道中膝栗毛の魅力とは?

十返舎一九の代表作であり、一九の才能が存分に発揮された作品で、物語の中には当時の社会や、江戸時代の人たちの姿がいきいきと描かれており、現代においても共感を呼ぶ内容となっていると思います。

  

この作品の魅力は何よりもキャラクターたちの人情味溢れるユーモアなのではないでしょうか。

  

物語の舞台である東海道は様々な情景や出会いがあり、読者はまるでその場にいるような感覚を楽しむことができます。

  

一九の筆致には洒落や独特が言い回しが散りばめられており、文章のリズムも楽しむことができます。そして何よりも弥次喜多コンビの掛け合いやキャラクターの個性がいつの時代でも愛されるのではないでしょうか。

  

そしてこの滑稽本はただの娯楽文字というだけではなく、当時の風俗や文化を伝える大切な資料ともなっています。

  

一九の作品は映画や漫画など、時代を超えても楽しめるコンテンツとして再創造されており、才能はいつまで経っても色あせることはありません。

  

その影響力の大きさは江戸時代、そしてこれからも広く受け継がれていくことになるのではないでしょうか。

こばん店長
こばん店長

以上 十返舎一九のゆる~い紹介でした

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喜多川歌麿という浮世絵師、その生涯を簡単に紹介https://koban-tenchoblog.com/utamaro/Mon, 30 Dec 2024 17:22:43 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8088

   今回は浮世絵師 喜多川歌麿の生涯を簡単にお話していきます。    江戸時代の浮世絵師として名を馳せた歌麿は特に美人画において高く評価されており、いまでも多くのファンに愛されています。    しかし、歌麿の出身地や、 ... ]]>

  

今回は浮世絵師 喜多川歌麿の生涯を簡単にお話していきます。

  

江戸時代の浮世絵師として名を馳せた歌麿は特に美人画において高く評価されており、いまでも多くのファンに愛されています。

  

しかし、歌麿の出身地や、家族のことなど詳しいことが分からない実は謎が多い人物です。そんなミステリアスな歌麿の生涯をゆる~く紹介します。

  

アダム
アダム

謎だらけでどんな人か分からないね~

  

こばん店長
こばん店長

うん 分からない

    

アダム
アダム

・・・

  


歌麿の出生地・生まれたのはいつ?

歌麿は1753年くらいに江戸か川越か京都で(江戸が有力)生まれました。

  

アダム
アダム

江戸か川越か京都のうちのどこかだったのね

  

親も兄弟も妻子の情報も分からないという謎多き人物です。

  

歌麿が生まれた時代は、江戸時代中期で、町人文化が栄えていたころです。

  

この活気ある時代背景とその後に起こる寛政の改革も歌麿の作品が世に多く出る役割を果たしたといわれています。

  

狩野派の画家 鳥山石燕(せきえん)の弟子となる

歌麿は幼少期に画家の鳥山石燕のもとで絵を学び、そのころは北川豊章と名乗って挿絵を描いていました。歌麿にとって生涯ただ一人の師といわれた人物です。

  

江戸の出版王 蔦屋重三郎との出会い

1781年 蔦屋重三郎の耕書堂から発売となった黄表紙「身貌大通神略縁起」(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)には初めて歌麿の名前で挿絵を描いています。

  

蔦重は歌麿の才能を見抜き自分の家に居候をさせて支援しました。そして耕書堂のお抱え絵師となった歌麿が多くの作品を世に送り出すという新たな道を開くことにつながったのです。

  

その後、蔦重のもとで「潮干のつと」・「百千鳥狂歌合」などの狂歌絵本を発表し続けこれが大ヒットとなります。

  

寛政の改革により狂歌絵本が出版できず

将軍徳川家治が亡くなると、重商主義政策をすすめた老中 田沼意次が失脚し、次に幕府の老中首座となった松平定信の「寛政の改革」と呼ばれる厳しい統制が行われるようになりました。

  

そして耕書堂の人気作家であった山東京伝が出した作品が洒落本禁止令に触れてしまい手鎖50日の刑に処せられると江戸の出版業界全体が委縮して勢いが急速に衰え始めます。

蔦重は浮世絵に活路を見出し歌麿に「美人画」の制作を依頼したところ、これが大ヒットとなります。それは「美人大首絵」と呼ばれるもので上半身を大きく描き、その魅力は女性の柔らかい雰囲気を描き、見事な色彩や細部にわたる緻密な描写、さらにはそのポーズや表情にあるといわれています。

  

歌麿は女性の表情や感情を巧みにキャッチして独特の雰囲気を醸し出すことができたといわれ大人気絵師となります。とくに有名なのが婦女人相十品の「ポッピンを吹く娘」、「寛政三美人」などで、歌麿の人気を不動のものにしました。

  

この「寛政三美人」は当時巷で美人と評判の三人で、富本豊雛、難波屋おきた、高島屋おひさの名前が入った美人画で歌麿の代表作の一つです。

 

歌麿、出版統制に抵抗していた?

人気絵師となった歌麿は、寛政の改革の厳しい出版統制により幕府から警戒される人物になってしまいました。

 

そして幕府からついに歌麿をターゲットにしたようなお触れが出始めます。

  

初版には絵のモデルであった三人の女性の名前が入っていた「寛政三美人」の美人画ですが、「絵に女の名をいれてはならない」とのお触れが出てしまい二版目からは名前が削られてしまいます。

  

  

しかし、歌麿は絵に名前を入れない代わりに絵に判じ絵で名前が分かるように工夫しました。

  

判じ絵とは? 絵に隠されている意味を連想して読み解くもの

  

それに対し再び「絵で名前が分かるものも禁止」とのお触れが出て、それに抵抗するように様々な工夫をして作画を続けます・・・が、しまいには歌麿といえば「大首絵」ですが、それまで禁止されてしまいます。

  

アダム
アダム

もう絵は描くなよ~といわれているような・・・

      

  

こばん店長
こばん店長

それに抵抗していた歌麿さんでした・・・

  

歌麿、幕府から罰せられてしまい54歳で亡くなる

いろいろな手段で幕府からの出版統制を逃れていましたが、ついに手鎖50日の刑に処せられてしまいます。

  

それは「太閤五妻洛東游観之図」(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)という豊臣秀吉の醍醐の花見を描いたもので、徳川の政敵であった豊臣を題材にしたことで幕府から罰せられてしまうことになります。

   

おそらくこの絵がきっかけとなりましたが、いままで歌麿が出版してきた吉原の遊女たちを描いたものや、美人画などの他、幕府の統制をかいくぐろうとする作品を出版する姿勢が風紀を乱すとの理由で幕府から処罰されたのではないかといわれています。

  

そしてこの50日間という長い拘束によって歌麿の身体と心も弱まり、その2年後の1806年に54歳で亡くなってしまいました。

  

また、こんな話もあります。そんな弱り切った歌麿の姿を見て、生きているうちに描いてほしいといって多くの仕事の依頼がくるようになり、働き過ぎて過労で亡くなったのでは?との説もあります。


歌麿が江戸時代の浮世絵師として有名になった背景

歌麿が江戸時代の浮世絵師として有名になる背景には、時代の文化的興隆と歌麿自身の絵の才能、また、出版王と呼ばれる蔦屋重三郎との協力が歌麿の名声を確立する大きな要因となったといわれています。

  

この時代は、商業が発展し、町人文化が栄えた時代で、浮世絵はその象徴的な表現方法の一つでした。

  

特に歌麿は美人画の特化によって人気を集め、その作品は多くの人に広まっていくことになりました。

  

歌麿の浮世絵に登場する女性たちの表情やポーズ、色使いの美しさ、そして絵から感情が伝わってくるような描き方に惹かれ、その人気は日本だけにとどまらず海外にも多くのファンがおり、その名を歴史に刻むこととなりました。

  

歌麿の浮世絵は今でも多くの人に魅力を感じさせ、時代を超えて愛され続けています。

  

アダム
アダム

歌麿さんが有名になったのは、蔦屋重三郎さんの協力も大きかったんだね

  

こばん店長
こばん店長

ざっくりいうとそんな感じ

  

こばん店長
こばん店長

以上ゆる~い 喜多川歌麿さんについての紹介でした

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葛飾北斎って?浮世絵師北斎の生涯と驚きのエピソードhttps://koban-tenchoblog.com/hokusai/Mon, 30 Dec 2024 14:54:22 +0000https://koban-tenchoblog.com/?p=8045

葛飾北斎(かつしかほくさい)とは世界に名を馳せる浮世絵師として知られており、作品は日本の文化を象徴する存在で、「富嶽三十六景」は日本のパスポートのデザインにもなっています。    しかし、やはり根っからの芸術家のせいか少 ... ]]>

葛飾北斎(かつしかほくさい)とは世界に名を馳せる浮世絵師として知られており、作品は日本の文化を象徴する存在で、「富嶽三十六景」は日本のパスポートのデザインにもなっています。

  

しかし、やはり根っからの芸術家のせいか少々変わり者だったようで・・今回はそんな北斎の生涯と驚きのエピソードをゆる~く紹介します。

  

1760年 北斎は現在の東京都墨田区亀沢で生まれ、若いころから絵を描くことに情熱を注ぎ、19歳のころに勝川春章のところに入門し絵師として長い下積み生活が始まります。

  

この記事では、北斎の生涯やエピソードなどを紹介しながら、浮世絵師 北斎の魅力に迫っていきます。


世界に知られる浮世絵師 葛飾北斎の生涯をゆる~く紹介

葛飾北斎は東京都墨田区で生まれ、幼少期から絵を描いており、14歳のころには浮世絵版画の修行をはじめ、その後 役者絵を描く勝川春章に入門し、勝川春朗という名前で挿絵などを描いて活動していました。

  

1792年に勝川春章が亡くなると兄弟子であった勝川春好に破門に近い形で勝川一門から追い出されてしまいます。のちに大人気絵師となった北斎は、このことがなかったらここまでこられなかったと語ったといわれています。

  

1798年 破門されたあと俵屋に入り「俵屋宗理」(たわらやそうり)を名乗っていましたが、その後 独立して「北斎辰政」(ほくさい ときまさ)と名乗り、絵師 北斎としての道を進むことになります。

  

蔦屋重三郎・曲亭馬琴と出会う

江戸時代の出版王と呼ばれた蔦屋重三郎と出会い、戯作者である曲亭馬琴を紹介されたことで、馬琴の物語の挿絵を数多く描くことになります。

  

この二人は一時共同で生活するほど親しかったようですが、お互い芸術家同士なので作品に対してのこだわりが強く口論が次第にエスカレートしていき、喧嘩別れしたともいわれています。それまではたびたび版元がとりなしていたらしいのですが、とうとう双方が仲直り不可というところまできて絶縁に至ったといわれています。 

ちなみに北斎の挿絵と馬琴の読本で有名なのが「椿説弓張月」「そののゆき」があります。

   

*曲亭馬琴(戯作者) 南総里見八犬伝を執筆した人で、48歳で書き始め28年にわたって書いたとされ、65歳くらいから視力を失いかけ、やがて視力が完全に失われると息子の妻、お路(みち)の口述筆記で完成させたといわれています。

  

名所絵「富嶽三十六景」が大ヒットする

北斎が70歳を過ぎたころ名所を描いた「富嶽三十六景」が大ヒットとなります。

  

このデザインは有名なのでどこかで見たことがあると思います。新千円札をお持ちの方は裏面をご覧ください。それが北斎の浮世絵です。

*富嶽三十六景・神奈川沖波裏 

  

絵の描き方を出版!北斎の代表作「北斎漫画」

海外でも北斎スケッチとよばれる北斎の代表作「北斎漫画」を描きます。

  

北斎漫画とは絵の手本を描いたもので数多く出版されました。それまでは門人に肉筆で絵手本を渡していましたが、門人が増えすぎたことと、多くのファンや絵を学びたい人達のために版下絵の制作に取り掛かります。

  

それにより大量に摺って出版することができました。

  

その後亡くなる少し前まで肉筆画を描き続けるようになります。

  

葛飾北斎、90歳で老衰のため亡くなる

みずから「画狂老人」といって多くの作品を描いた北斎は90歳でその生涯を閉じました。

晩年の北斎と一緒に暮らしていたのは後妻こと(ことは北斎が69歳のころ亡くなります) との間に生まれた三女 阿栄(おえい)でした。阿栄は、顎が出ていたといわれ、北斎はこの娘を「アゴ」と読んでいたらしいです。

  

また、葛飾応為として多くの美人画を描き、北斎は美人画は阿栄の方が優れているというほどだったようです。

  

そんな阿栄ですが、絵師の南沢等明と結婚していましたが、等明の描いた作品を指して笑ったことが離縁に繋がったといわれており、それを機に実家に戻ったようです。

  

しかし北斎が亡くなって数年後に家を出たきりどこへ行ったか分からないといわれています。


葛飾北斎の驚きのエピソードを紹介

天才と呼ばれた人は多くの面白いエピソードを残してくれますが、北斎もやはりその一人でした。有名なものをご紹介します。

  

北斎、絵を値切られブチ切れたエピソード

ある日オランダ商館のカピタン(商館長)から2巻で1組の絵巻物の注文を受けましたが、そこに同行していた医師からも同じものの注文を受けます。

  

北斎は注文通り品物を届けますが、医師は薄給を理由に値切ってきたのでした。それを断ると、1巻だけ買うと言い出したので、北斎は怒って絵を持ち帰りました。

  

理由として、そのまま絵を売ればそのときはいいけれど、のちに異国に屈して値切って売ったとなれば日本の絵師として絵の価値が落ちてしまうといったものでした。

 

この話を聞いたオランダの商館長は北斎の絵師としてのプライドに感心して、医師が注文した絵巻物も買い取ったといいます。

  

北斎は自分で調合した薬で回復

1827年 北斎は68歳(生まれた年を1歳としています)のとき脳卒中で倒れ、一時は後遺症で筆が握れなくなります。

  

しかし北斎のすごいところは、柚子と酒をつかった薬を自ら作りそれを飲んで奇跡的に復活したというところです。

  

そして倒れた翌年には作品を出版するほどに回復してみせたのですから驚きです。

   

北斎は部屋が汚くなると引越した?!その数93回

生涯で93回も引っ越したようで、「引越し魔」と呼ばれるだけはあります。酒も煙草も食事さえ興味がなく、ただひたすら絵を描き続けました。

  

そして、お金にも執着がなく、支払いは中身をみないでお金が入った袋をそのまま渡していたそうです。

  

そんな北斎だから家の中の掃除などするわけもなく、ゴミで部屋が汚くなると引越ししたといわれています。

  

また、北斎の孫がつくる借金のためにお金がなくなり、着ている衣服はボロボロで、版元にお金を借りるといった生活をしていたようです。 

   

北斎の先妻の長女 阿美与と柳川重信との間に生まれた孫「悪魔」?!

先妻の長女阿美与(おみよ)と絵師 柳川重信の子であり北斎からみれば孫ですが、借金ばかりして、北斎からは「悪魔」と称されるほどの悪行を重ねたらしく、この孫のことでずいぶんと悩まされたといわれています。

  

そして孫が起こした事件のために名前まで変えて潜伏生活を送っていたともいわれています。

  

この潜伏生活には様々な説があって、作品が幕府の意に沿わないもの(禁止されていた作品)を出してしまい逃げていたという説や、借金取りから逃げていたとの説もあります。

  

しかしこの孫を追い払うため、晩年には毎日獅子を描いて魔除けにしたとの話もあり(長寿を願った説もあり)、相当放蕩の孫であったということが伺えます。

  


北斎の創作意欲がすごかったエピソード

絵を描く以外には興味を持たなかった北斎ですが、90歳で亡くなるときに「せめてあと5年生かしてくれたら、本当の絵描きになってみせる」といったというのですから北斎の創作意欲が最期まで凄まじいものだったことが分かるエピソードだと思います。

  

アダム
アダム

・・・・・

  

江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は絵だけではなく、ファッションやデザインの世界でも影響は見られ、日本のパスポートや新紙幣などで一層身近なものになって現代でも多くの人に親しまれています。

  

こばん店長
こばん店長

以上 ゆる~い葛飾北斎さんの紹介でした

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